ヒーローとは、
時には愚者。時には勇者。
時には王者の輝きをもち、時には彷徨(さまよ)い、時には鷲のごとく猛り狂い、時には優しい面持ちをうかべ、時には崇高さをまとい、時には侮辱をうける者。
古いインドの箴言を、すこしアレンジしてみました。
ヒーロー(英雄)のもつ両義性、双極性を強調した言葉だけれど、キュアエールこと「野乃はな」くらい、この条件に似つかわしいキャラもいまい。
「愚者」。
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こういった表現は「変顔」と称されているようだが、生身の人間がちょっと滑稽な顔をしてみせた、といったレベルの話ではないので、ほかの呼称が必要かもしれない。アニメ(マンガ)ならではの手法……には違いないにせよ、しかしジブリや、もしくはディズニーの3Ⅾアニメで登場人物がこんな顔をするとは考えられないから、たぶん日本のテレビアニメに特徴的な表現手段といえるだろう。作画班の負担を減らすと共に、キャラの振れ幅を大きくすることで、上記のような両義性・双極性を印象づける効果がある。一石二鳥だ。
メインのプリキュア5人は、とくに日常パートにおいてはこの手の顔をよくするが(アンドロイドのルールーさえも)、やはり野乃はなの頻度が際立って多い。主役ってこともあるけれど、よかれあしかれ子供っぽさが強調されているのだ。
これだけだったらただのギャグマンガなので、とうぜん「勇者」の顔もある。
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崇高さをまとい、鷲のごとく猛っている。
ギリシア神話のアンドロメダ、古事記のクシナダ姫など、古来より神話においては、若い娘はただただか弱き者であり、怪物(竜……ドラゴンが多い)に供犠(くぎ)として捧げられる。たまたまその地を通りかかった「英雄(ヒーロー)」がその受難を聞きつけ、一計を案じ、力をふるって怪物を倒して彼女を救う。そしてそののち結婚する。
昔話や童話では、魔女の呪いにかかって永い眠りについた王女が、通りかかった王子様のキスによって目覚めたりする。これも「救出」のバリエーションだろう。いずれにせよ、ヒロインはひたすら無力で、助けを待つだけの存在だったのである。そんな時代が長く長く続いた。
21世紀、趨勢は変わった。
プリキュアの面々は、最前線に立って敵と闘い、人々を守る戦士なので、ヒロインではなく彼女ら自身がヒーローだ。このことは過去のシリーズにも伏在していたかと思うが、今作の、とりわけ19話においてはっきりと主題化された。
「育児」をメインテーマに据える作品だけに、もともとジェンダーフリーに敏感だった。嬰児のはぐたん(CV 多田このみ)の世話をふだん行ってるのはハリー(CV 野田順子/福島潤)であり、人間の姿の時はいわゆる「イクメン」だ。はなの父・森太郎が料理をしているくだりもあったし、さあやの父に至っては、(ここまでワンシーンちらりと登場しただけだが)おそらく専業主夫かと思われる。
19話では、ファッションショーにドレス姿で出演した美少年アンリが、襲撃してきた怪物に掴み上げられて「これ僕、お姫様ポジションになってない?」と言ったのを受けて、「いいんだよ! 男の子だって、お姫様になれる!」とキュアエール姿のはなが力強く返すシーンがあった。
ただ、そのときのアンリは、キングコングに掴まれたフェイ・レイみたくきゃあきゃあ絶叫したりせず、じつにクールで、「男らしい」落ち着きをみせていた。しかもその次のシーンでは、自分を掴んだ怪物の心が「旧弊な性差別的心情に縛られた」知人のものであることに気づいて、やさしく抱擁し、情理を兼ね備えた見事な言辞で説得につとめた。
こうなってくると、現代におけるジェンダーってのはたんに逆転すればいいってもんじゃあないのがわかる。「女の子らしさ」と「男の子らしさ」の良い面と悪しき面とを見極めて、慎重に吟味し、選り分けていくことが求められてるんだろう。
ジェンダーの話はひとまず置いて、ヒーローについてもう少し。こんな定義もある。
英雄(ヒーロー)とは、きわめて困難な通過儀礼や、神秘と驚異にみちた未知の段階へのイニシエーションを受ける不屈の精神の擬人化である。
不屈の精神。
「プリキュアはあきらめない。」ということばが、これまでのシリーズ全作を貫くスローガンとして確立されている。むろん今作でもたびたび出てくる。
これに加えて、今作のプリキュアのみなさんは、「なりたい自分になる。」という命題を、自らに課してもいる。
2015年の『GO! プリンセスプリキュア』では、ヒロイン、いやヒーローの春野はるか(CV 嶋村侑)が、「プリンセスになる!」という断固たる決意を貫いて1年のあいだ主役を張った。
彼女の思う「プリンセス」とは、べつにどこかの王族に嫁ぐとかいう話ではなくて、「擬人化された究極の努力目標」とでもいうべきものだった。
つまりニーチェの「超人」と同じだ。どれほど努力しても辿り着けない絶巓(ぜってん)だけど、それを遥か高みに設定し、常に仰ぎ見ていることにより、日々、怠ることなく研鑽をつみ、自分を向上させられるわけだ。
野乃はなは、「私がなりたい野乃はな」の像をもっている。「いけてるオトナのお姉さん」と口にしたりもするけれど、これは彼女の語彙が貧しいせいで、とてもじゃないけど、そんな上っ面だけのものではない。
優雅さとか気品とか洗練とか、そういったものとは縁遠いにせよ、やっぱりそれは、春野はるかが目指した「プリンセス」と似たものだろう。
しかも、「プリンセス」という明確なことばで措定されない分だけ、ぼくなんかには、より切実に響く。
本日放送された25話にて、キュアエトワール姿の輝木ほまれも「なりたい私」というキーワードを口にしていたけれど、初めのころ彼女にはそんな発想はなかった。これは、05話において、はなとさあやから託されたものだ。
はな「私、なりたい野乃はながあるの。だからがんばるの」
さあや「私、ほまれさんが好き。前よりずっと好きになった。私やはなちゃんにはできないことが、ほまれさんにはできる。……ほまれさんにはできないことが、私たちにはできる。私たち、きっとすごく仲良くなれる」
はな「ほまれちゃんは、どんな自分になりたいの?」
(05話より)
野乃はなの「なりたい私」は、春野はるかにとっての「プリンセス」と同じく、まる1年をかけて追求していくものなので、今の時点では明瞭にはわからない。ただその核心は、すでに01話にて打ち出されていた。とても強烈なかたちで。
学校がクライアス社の怪物に襲われる。「はぐたん」がはいはいをしながら一人でそれに向かっていく。見るからに危ない。難を避けて逃げる途中のはなは、その姿を見て思わず駆け寄り、そのまま怪物の前に立ちはだかるのである。
「ここで逃げたら、カッコ悪い。……そんなの、私がなりたい野乃はなじゃないッ!」
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「そんなの」と「私がなりたい……」とのあいだに、はぐたんに頬ずりをして、一瞬目を閉じる描写が入る。「ここにこんなにも愛しく、守らねばならないものがいる。」から「私は逃げずに巨大な敵に立ち向かう。」という思い入れである。
「腕に抱いた愛しきものを守らんがために全霊を賭す。」という姿勢は、かつて「いじめ」から自分を守ってくれた母親から学んだものかも知れないが、無謀ともいえる(いやむしろ、無謀としかいえない)かたちでそれを実行してみせた野乃はなは、どこからどう見ても紛うことなきヒーローだ。「母性」もまた、今やヒーローの条件となりうるのである。
時には愚者。時には勇者。
時には王者の輝きをもち、時には彷徨(さまよ)い、時には鷲のごとく猛り狂い、時には優しい面持ちをうかべ、時には崇高さをまとい、時には侮辱をうける者。
古いインドの箴言を、すこしアレンジしてみました。
ヒーロー(英雄)のもつ両義性、双極性を強調した言葉だけれど、キュアエールこと「野乃はな」くらい、この条件に似つかわしいキャラもいまい。
「愚者」。
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こういった表現は「変顔」と称されているようだが、生身の人間がちょっと滑稽な顔をしてみせた、といったレベルの話ではないので、ほかの呼称が必要かもしれない。アニメ(マンガ)ならではの手法……には違いないにせよ、しかしジブリや、もしくはディズニーの3Ⅾアニメで登場人物がこんな顔をするとは考えられないから、たぶん日本のテレビアニメに特徴的な表現手段といえるだろう。作画班の負担を減らすと共に、キャラの振れ幅を大きくすることで、上記のような両義性・双極性を印象づける効果がある。一石二鳥だ。
メインのプリキュア5人は、とくに日常パートにおいてはこの手の顔をよくするが(アンドロイドのルールーさえも)、やはり野乃はなの頻度が際立って多い。主役ってこともあるけれど、よかれあしかれ子供っぽさが強調されているのだ。
これだけだったらただのギャグマンガなので、とうぜん「勇者」の顔もある。
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崇高さをまとい、鷲のごとく猛っている。
ギリシア神話のアンドロメダ、古事記のクシナダ姫など、古来より神話においては、若い娘はただただか弱き者であり、怪物(竜……ドラゴンが多い)に供犠(くぎ)として捧げられる。たまたまその地を通りかかった「英雄(ヒーロー)」がその受難を聞きつけ、一計を案じ、力をふるって怪物を倒して彼女を救う。そしてそののち結婚する。
昔話や童話では、魔女の呪いにかかって永い眠りについた王女が、通りかかった王子様のキスによって目覚めたりする。これも「救出」のバリエーションだろう。いずれにせよ、ヒロインはひたすら無力で、助けを待つだけの存在だったのである。そんな時代が長く長く続いた。
21世紀、趨勢は変わった。
プリキュアの面々は、最前線に立って敵と闘い、人々を守る戦士なので、ヒロインではなく彼女ら自身がヒーローだ。このことは過去のシリーズにも伏在していたかと思うが、今作の、とりわけ19話においてはっきりと主題化された。
「育児」をメインテーマに据える作品だけに、もともとジェンダーフリーに敏感だった。嬰児のはぐたん(CV 多田このみ)の世話をふだん行ってるのはハリー(CV 野田順子/福島潤)であり、人間の姿の時はいわゆる「イクメン」だ。はなの父・森太郎が料理をしているくだりもあったし、さあやの父に至っては、(ここまでワンシーンちらりと登場しただけだが)おそらく専業主夫かと思われる。
19話では、ファッションショーにドレス姿で出演した美少年アンリが、襲撃してきた怪物に掴み上げられて「これ僕、お姫様ポジションになってない?」と言ったのを受けて、「いいんだよ! 男の子だって、お姫様になれる!」とキュアエール姿のはなが力強く返すシーンがあった。
ただ、そのときのアンリは、キングコングに掴まれたフェイ・レイみたくきゃあきゃあ絶叫したりせず、じつにクールで、「男らしい」落ち着きをみせていた。しかもその次のシーンでは、自分を掴んだ怪物の心が「旧弊な性差別的心情に縛られた」知人のものであることに気づいて、やさしく抱擁し、情理を兼ね備えた見事な言辞で説得につとめた。
こうなってくると、現代におけるジェンダーってのはたんに逆転すればいいってもんじゃあないのがわかる。「女の子らしさ」と「男の子らしさ」の良い面と悪しき面とを見極めて、慎重に吟味し、選り分けていくことが求められてるんだろう。
ジェンダーの話はひとまず置いて、ヒーローについてもう少し。こんな定義もある。
英雄(ヒーロー)とは、きわめて困難な通過儀礼や、神秘と驚異にみちた未知の段階へのイニシエーションを受ける不屈の精神の擬人化である。
不屈の精神。
「プリキュアはあきらめない。」ということばが、これまでのシリーズ全作を貫くスローガンとして確立されている。むろん今作でもたびたび出てくる。
これに加えて、今作のプリキュアのみなさんは、「なりたい自分になる。」という命題を、自らに課してもいる。
2015年の『GO! プリンセスプリキュア』では、ヒロイン、いやヒーローの春野はるか(CV 嶋村侑)が、「プリンセスになる!」という断固たる決意を貫いて1年のあいだ主役を張った。
彼女の思う「プリンセス」とは、べつにどこかの王族に嫁ぐとかいう話ではなくて、「擬人化された究極の努力目標」とでもいうべきものだった。
つまりニーチェの「超人」と同じだ。どれほど努力しても辿り着けない絶巓(ぜってん)だけど、それを遥か高みに設定し、常に仰ぎ見ていることにより、日々、怠ることなく研鑽をつみ、自分を向上させられるわけだ。
野乃はなは、「私がなりたい野乃はな」の像をもっている。「いけてるオトナのお姉さん」と口にしたりもするけれど、これは彼女の語彙が貧しいせいで、とてもじゃないけど、そんな上っ面だけのものではない。
優雅さとか気品とか洗練とか、そういったものとは縁遠いにせよ、やっぱりそれは、春野はるかが目指した「プリンセス」と似たものだろう。
しかも、「プリンセス」という明確なことばで措定されない分だけ、ぼくなんかには、より切実に響く。
本日放送された25話にて、キュアエトワール姿の輝木ほまれも「なりたい私」というキーワードを口にしていたけれど、初めのころ彼女にはそんな発想はなかった。これは、05話において、はなとさあやから託されたものだ。
はな「私、なりたい野乃はながあるの。だからがんばるの」
さあや「私、ほまれさんが好き。前よりずっと好きになった。私やはなちゃんにはできないことが、ほまれさんにはできる。……ほまれさんにはできないことが、私たちにはできる。私たち、きっとすごく仲良くなれる」
はな「ほまれちゃんは、どんな自分になりたいの?」
(05話より)
野乃はなの「なりたい私」は、春野はるかにとっての「プリンセス」と同じく、まる1年をかけて追求していくものなので、今の時点では明瞭にはわからない。ただその核心は、すでに01話にて打ち出されていた。とても強烈なかたちで。
学校がクライアス社の怪物に襲われる。「はぐたん」がはいはいをしながら一人でそれに向かっていく。見るからに危ない。難を避けて逃げる途中のはなは、その姿を見て思わず駆け寄り、そのまま怪物の前に立ちはだかるのである。
「ここで逃げたら、カッコ悪い。……そんなの、私がなりたい野乃はなじゃないッ!」
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「そんなの」と「私がなりたい……」とのあいだに、はぐたんに頬ずりをして、一瞬目を閉じる描写が入る。「ここにこんなにも愛しく、守らねばならないものがいる。」から「私は逃げずに巨大な敵に立ち向かう。」という思い入れである。
「腕に抱いた愛しきものを守らんがために全霊を賭す。」という姿勢は、かつて「いじめ」から自分を守ってくれた母親から学んだものかも知れないが、無謀ともいえる(いやむしろ、無謀としかいえない)かたちでそれを実行してみせた野乃はなは、どこからどう見ても紛うことなきヒーローだ。「母性」もまた、今やヒーローの条件となりうるのである。