第26期竜王戦七番勝負、第5局は挑戦者の森内名人が勝ち、対戦成績4勝1敗で10年ぶりに竜王位に復位しました。
渡辺竜王ファンの気持ちを代表するかのようにssayさんが、熱い思いを冷静に語っています。(コメント欄の九鬼さんの言葉も必見です)
また、shogitygooさんは、実に明晰な「森内、渡辺論」を展開しています。(なので、私がしゃしゃり出るのは野暮だと思っていますが……)
第4局の競り合いを森内名人が制し、3-1の星以上に「森内復位」の雰囲気が漂い、第5局で終了するような気がしていた。
第5局も熱戦になったが、渡辺竜王の攻めを受け、そして受け止めきった後、渡辺陣に襲い掛かるという全局を通しての流れだった。
名人戦で羽生三冠を4-1、竜王戦でも渡辺竜王を4-1で退けた。しかも、「辛勝」とか「幸運」とかいうものを微塵も感じさせないものだった。「強さ」しか感じさせなかった。
名人戦は、中盤、戦いが始まりひと悶着戦いが経過したあたりで、森内名人が優位に立ち、それを必死に羽生三冠がもがくが届かない印象だった。羽生ファンとしては、勝負を見ているのが非常に辛かった。
それに対し、渡辺竜王は終盤まで互角の競り合いを演じ、将棋も面白かった。事前の研究もほぼ互角だったように思う。
第5局の63手目、▲5七金は森内名人は「思いつき」と述べたが、第4局で思いついたのではないだろうか。
渡辺竜王は「この手は前に調べたことがあって、そのときに△同馬しかないかなと」と述べている。≪△同馬以外の手は利かされなので取るしかない≫という意味で“自信なげ”な表現だが、△同馬で十分指せると見ているからこそ、60手目△4四同金と第4局とは手を変えたのだろう。
ただ、「第4局時に思いついた」という仮説が正しければ、▲5七金以降の展開は事前に十分練っていたということになる。さらに、昼食休憩を挟んでの着手で、十二分に腰を据えた▲5七金だったのではないだろうか。
対する渡辺竜王は「調べたことがある」と述べていたが、過去に結論を出していて、▲5七金の直前までは深く掘り下げていなかったのではないか。▲5七金と着手されて48分考慮しているが、もっとじっくり考えたほうが良かったような気がする。ここで長考するのは≪意表を突かれた≫と思われるので、勝負の駆け引きとしては損なのだが、△5七同馬を指すという行為は同じであっても、ここで深く読んでおけば読みの厚みが増し、その後の局面においても思考が深まりやすくなると考える。
名人戦において、森内名人の研究の用意周到さと、優位を確保しそれを勝ちに結びつける読みの確かさを嫌と言うほど味わった羽生ファンだったが、今回、渡辺ファンも同じ憂き目にあってしまった。
しかも、今回は競り合って、しかも、渡辺竜王の攻めを受け止めての勝利だけに、森内名人の強さが際立った。
研究では引けを取らない渡辺竜王も、指せると想定、あるいは読んだ局面が、いざ直面すると難しいと感じる場面が頻発し、森内名人の研究や読みが怖ろしく深いことを実感したのではないだろうか。特に、渡辺竜王が攻め込むという得意な展開になっても、あと一歩届かない、森内陣を切り裂けない、森内玉を捉えきれない……そんな思いが局を重ねるほど強くなっていった。
私は、無駄を省く渡辺竜王の合理性について、過去に「渡辺竜王考 その1」、「渡辺竜王考 その2」という記事で、批判めいたことを書いたことがある。また、常々、そういう合理性重視では、いづれ強さに行き詰まると考えていた。しかし、昨年度の渡辺竜王は、その私の考えを打ち砕いてしまった。
ところが、森内名人はその渡辺竜王の強さを凌駕する強さを見せつけた。
今回の竜王戦で、森内名人は「往復ビンタ」を2度も喰らわした。相手を負かした方を持って勝利してしまったのだ。負かされた方は≪私の方が強い≫と宣言されてしまったような屈辱である。
実は、森内名人の穏やかな表情の裏には、そういう“意地の悪さ”(勝負への徹底さ)を持ち合わせているような気がしているが、根本にあるものは“将棋に対する探究心”である。
渡辺竜王は、“良い”“悪い”の結論を出したがるが、森内名人は結論を急がない。一応、“こちらを持ってさせる”という手ごたえを持って指しているが、対局中(局後)に“相手にもこういう手があるな”と
と考え、その手の可能性を追究するのではないだろうか。それが結果的に「往復ビンタ」になる。
王将戦は最終局を前に、羽生三冠が挑戦を決めた。
竜王失冠により、「三冠対二冠」で充分価値の高い対決であるが、「二位決定戦」という趣が強くなってしまったのは残念であるが、失意を味わったニュー渡辺がどういう将棋を指すのか注目される。羽生三冠も、ここで敗れては来春の名人挑戦も陰りがさしてしまう。
森内、羽生、渡辺の戦いの新章が始まった。興味は尽きない。
渡辺竜王ファンの気持ちを代表するかのようにssayさんが、熱い思いを冷静に語っています。(コメント欄の九鬼さんの言葉も必見です)
また、shogitygooさんは、実に明晰な「森内、渡辺論」を展開しています。(なので、私がしゃしゃり出るのは野暮だと思っていますが……)
第4局の競り合いを森内名人が制し、3-1の星以上に「森内復位」の雰囲気が漂い、第5局で終了するような気がしていた。
第5局も熱戦になったが、渡辺竜王の攻めを受け、そして受け止めきった後、渡辺陣に襲い掛かるという全局を通しての流れだった。
名人戦で羽生三冠を4-1、竜王戦でも渡辺竜王を4-1で退けた。しかも、「辛勝」とか「幸運」とかいうものを微塵も感じさせないものだった。「強さ」しか感じさせなかった。
名人戦は、中盤、戦いが始まりひと悶着戦いが経過したあたりで、森内名人が優位に立ち、それを必死に羽生三冠がもがくが届かない印象だった。羽生ファンとしては、勝負を見ているのが非常に辛かった。
それに対し、渡辺竜王は終盤まで互角の競り合いを演じ、将棋も面白かった。事前の研究もほぼ互角だったように思う。
第5局の63手目、▲5七金は森内名人は「思いつき」と述べたが、第4局で思いついたのではないだろうか。
渡辺竜王は「この手は前に調べたことがあって、そのときに△同馬しかないかなと」と述べている。≪△同馬以外の手は利かされなので取るしかない≫という意味で“自信なげ”な表現だが、△同馬で十分指せると見ているからこそ、60手目△4四同金と第4局とは手を変えたのだろう。
ただ、「第4局時に思いついた」という仮説が正しければ、▲5七金以降の展開は事前に十分練っていたということになる。さらに、昼食休憩を挟んでの着手で、十二分に腰を据えた▲5七金だったのではないだろうか。
対する渡辺竜王は「調べたことがある」と述べていたが、過去に結論を出していて、▲5七金の直前までは深く掘り下げていなかったのではないか。▲5七金と着手されて48分考慮しているが、もっとじっくり考えたほうが良かったような気がする。ここで長考するのは≪意表を突かれた≫と思われるので、勝負の駆け引きとしては損なのだが、△5七同馬を指すという行為は同じであっても、ここで深く読んでおけば読みの厚みが増し、その後の局面においても思考が深まりやすくなると考える。
名人戦において、森内名人の研究の用意周到さと、優位を確保しそれを勝ちに結びつける読みの確かさを嫌と言うほど味わった羽生ファンだったが、今回、渡辺ファンも同じ憂き目にあってしまった。
しかも、今回は競り合って、しかも、渡辺竜王の攻めを受け止めての勝利だけに、森内名人の強さが際立った。
研究では引けを取らない渡辺竜王も、指せると想定、あるいは読んだ局面が、いざ直面すると難しいと感じる場面が頻発し、森内名人の研究や読みが怖ろしく深いことを実感したのではないだろうか。特に、渡辺竜王が攻め込むという得意な展開になっても、あと一歩届かない、森内陣を切り裂けない、森内玉を捉えきれない……そんな思いが局を重ねるほど強くなっていった。
私は、無駄を省く渡辺竜王の合理性について、過去に「渡辺竜王考 その1」、「渡辺竜王考 その2」という記事で、批判めいたことを書いたことがある。また、常々、そういう合理性重視では、いづれ強さに行き詰まると考えていた。しかし、昨年度の渡辺竜王は、その私の考えを打ち砕いてしまった。
ところが、森内名人はその渡辺竜王の強さを凌駕する強さを見せつけた。
今回の竜王戦で、森内名人は「往復ビンタ」を2度も喰らわした。相手を負かした方を持って勝利してしまったのだ。負かされた方は≪私の方が強い≫と宣言されてしまったような屈辱である。
実は、森内名人の穏やかな表情の裏には、そういう“意地の悪さ”(勝負への徹底さ)を持ち合わせているような気がしているが、根本にあるものは“将棋に対する探究心”である。
渡辺竜王は、“良い”“悪い”の結論を出したがるが、森内名人は結論を急がない。一応、“こちらを持ってさせる”という手ごたえを持って指しているが、対局中(局後)に“相手にもこういう手があるな”と
と考え、その手の可能性を追究するのではないだろうか。それが結果的に「往復ビンタ」になる。
王将戦は最終局を前に、羽生三冠が挑戦を決めた。
竜王失冠により、「三冠対二冠」で充分価値の高い対決であるが、「二位決定戦」という趣が強くなってしまったのは残念であるが、失意を味わったニュー渡辺がどういう将棋を指すのか注目される。羽生三冠も、ここで敗れては来春の名人挑戦も陰りがさしてしまう。
森内、羽生、渡辺の戦いの新章が始まった。興味は尽きない。