Retriever Legend's blog

散歩好き、本好き、惰眠好き、犬大好きの彼(旦那)の戯言を僕が代弁します。

朝日ジャーナル 増刷

2009-04-23 06:16:41 | 未分類
ちょっと一服

週刊朝日緊急増刊「朝日ジャーナル」が、増刷されます。
通読しての感想ですが、読み応えがなく「何もない」でした。

「知性の貧困」を露呈しています。
柄谷行人はあちらこちらに書き散らしている類ですし、鶴見俊輔は相変わらずの好々爺の論調です。

思想家もどきの文章を読んでも「感性の貧困」のため興味がわきません。
その内の一人、ニューアカと時代の寵児となった浅田彰の鼎談も見るべきものがありません。
『逃走論』を手にしたときには、難解で持て余したものですが、後日改めて読みますと単に「ジャック・デリダ」の焼き直しであることに気付きました。

僕的には、1984年から編集長をした筑紫哲也が朝日ジャーナルを駄目にし、後任の下村満子は廃刊のための編集長だったと考えます。

柄谷行人や鶴見俊輔などの特集を組み、親反権力、親反権威、親権力、親権威の視点でバトルでも組まれていたらと思いました。

ただ、気に入った点が1.5箇所ありました、書籍広告と編集後記です。
1箇所目は、書籍広告で昔日の「朝日ジャーナル」の雰囲気がちょっと醸し出されていました。
0.5箇所目は、編集後記で「小泉」、「竹中」、「経済界の重鎮たち」に取材を申し込んだが、拒絶されたことだけが他人事のように書かれていますが、果敢に「突撃」したうえで、顛末を書いて欲しかったものです。



懐かしさ、記念の品とかで売れても、定期化は無理でしょう。
このようなレベルは、「知性の貧困」を加速させるだけです。


労働の否定 その1

2009-04-21 06:30:49 | 異形の滓
混乱のメドゥーサ 蛇足その1

当ブログとリンクしています晴走雨読氏のブログで「デコポン09.04.19」において、先日アップした「混乱のメドゥーサ その709.04.19」が取り上げられています。

「混乱のメドゥーサ」は、4月はじめに書き上げており、「その7」はアップの段階で混乱・誤解を含んでいることに気づきましたので、構造主義に託けて、「構造主義?09.04.18」において簡単に俯瞰したものを前にもってきました。

どうも晴走雨読氏は混乱したようですので、意図するところをメモして置きます。

権威、権力、宗教、資本に組み込まれた不生産的労働は、あくまでも労働ですが、権威、権力、宗教、資本から開放された不生産的労働は、この和製漢語の「労働」の概念とは別物であると考えています。
肉体、頭脳、感情の呼吸とか息遣いと同質のものを獲得するのではと、また、そのような共同体(小さなスタイルは現存しています。)はありえるのかを妄念しています。

労働、生産物を「商品」とする、この商品の概念は「特殊形態」であることに留意しなければなりません。
権威、権力、宗教、資本に組み込まれた生産的労働及び不生産的労働の、労働の概念は否定すべきものです。

つまり、「労働本来の苦痛」とか「疎外された労働」の止揚ではなく、「労働本来の苦痛」、「疎外された労働」の外側を妄念しています。(経・哲草稿84pから、258pから等を参照 岩波文庫)

つづく



科学(的)とは、仮説(的)の塊で、すべからく実証はされていません。


混乱のメドゥーサ おわりに

2009-04-20 06:10:37 | 異形の滓
異形の滓 No.25

自由は狂気へと連なっています。

妄念のはじめは、魔女メドゥーサから「林檎の時間」について膨らんでいたのですが、いつのまにか「自由」の懐疑に向かってしまいました。

「自由」そのものは、無内容を抱えています。

僕の中では妄想はどことなく手垢に汚れている為、妄念の言葉を用いています。

「考え抜けば破格の思想 松本健一」(09.04.02朝日新聞 閉塞感のほぐし方)より抜粋

「苦しい、身動きのとれない時代状況だからこそ、それを深く静かに、ただ考え続ける環境が生まれる。ただ、ただ、考える、埴谷雄高さん流に言えば妄想することで、時に、破格のものが生まれてくる」

「不安」は「志向」を持っているとメモしながら、「自我」と用いています。
つまり、妄念の構造を破壊することが必要です。



メドゥーサの首を掻ききったペルセウスは、現れたのかまだなのか。


混乱のメドゥーサ その7

2009-04-19 07:06:56 | 異形の滓
異形の滓 No.24

毎朝のコーヒーと煙草と暗闇の妄念に、「自由」を放しますと、「自由」は、政治思想そのものではなく、様々な思想の基底にある共通の事柄であることに気づきます。

マルクスの国家廃絶、バークニンの国家廃絶等の基底には「自由」があり、権威・権力なき秩序ある自由があります。

さて、「秩序ある自由」は、観念に過ぎないと言い切れない魅力があります。

当ブログとリンクしています晴走雨読氏の「『子ども学序説』 その2(09.03.06)」において、革命的共産趣味者同盟氏が『労働本来の喜び』と書き、ブラック・ソルジャー氏が『労働本来の苦痛』と書き、展開を期待したのですが、終ってしまったようです。

僕自身は、国家廃絶等の基底にある「自由」は、当然のごとく「労働」を否定する事柄と考えています。
国家の権威・権力の管理通貨制度は、貨幣が商品を価値物と錯覚させていますし、労働の生産物が「商品」という形態は、あくまでも特殊であると考えます。

具体的有用労働の概念なら不生産的労働の共同体として、僕の中にストーンと落ちます。
ただ、国家も資本をも否定しますから、革命家の夢想が必要です。

ただし、「秩序ある自由」の「秩序」が曲者です。


今朝は、久々に農道を「散歩」しました、途中までですが。
約4ヶ月振りの「ニオイ」に、喜んでいました。




構造主義?

2009-04-18 08:43:26 | 未分類
僕は、マルクス読みではないことを始めに記しておきます。

商い仲間とたわいない話をしていて、「構造主義とは」となりました。
雑に括ってみますが、雑すぎることは承知おきください。

野生の思考(クロード・レヴィ=ストロースみすず書房 未読孫引き) は、構造主義の始点となり、戦後思想の転換を生起した著書です。
未開地の人間は、無知でも野蛮でもなく生活、文化は社会構造の結果であり、野蛮と考える西欧の人間は、西欧の社会構造の結果にすぎない。 
私たちの思考、思想、哲学は、社会の構造を土台としている。
歴史は進化、自由、主体性などは、不可視の社会構造(変換の作業で可視化)によるもので、単に西欧の傲慢さによるもので普遍性はない。

西欧マルクス主義のサルトルの実存主義は批判され、フランスにおいて思想的に片隅に追いやられました、社会構造のもたらす幻想にしか過ぎない、と。
すぐ気づかれると思いますが、この構造主義自体もフランスの社会構造の賜物ではと。
構造の生成過程や変動の可能性の視点が、ポスト構造主義と言えます。

この社会構造を外から解体しようとしたのがミッシェル・フーコー、内側から解体しようとしたのがジャック・デリダといえます。

レヴィ=ストロースもジャック・デリダも、マルクスの思想を否定はしていません。
伺えるのは、マルクス主義(科学性より階級性、党派性、政治性に重心がある)ではなく、マルクスの思想そのものに可能性を見ているからだと考えます。

僕自身は、例えば「商品の神秘的性質はその使用価値から出てくるものではない。」(資本論Ⅰ 130P 岩波文庫)は、幻想である貨幣の物神的性格で展開すべきと考えます。
また、「商品は直接には、交換価値の担い手であり、したがって交換手段であるという使用価値を持っているだけである。」(資本論Ⅰ 156P 岩波文庫)にしても、商品を使用価値としていますが、共同体における物々交換との差異は明確でなく、商品の形態規定性が蔑ろになっていると読めます。
が、物々交換との差異の明確は、新たな地平を予感させる魅力があると考えます。

ハイデッガーの『存在と時間』(15P 岩波文庫)の前文に、プラトン「ソフィステース」を引用して〈ある(存在)〉について、「いまはてんで分からなくなって困りきっているのさ」とあります。
デカルトの「われ思うゆえにわれあり」は変だよと書いてあるのですが(端折過ぎ)、「存在」は僕{現存在}自身の関心領域の一角を占めています。



蛇足
サルトルは『存在と時間』に触発され「主体性の哲学」を思考しましたが、ハイデッガーに後継者とは見られませんでした。