2006.01.09の晴走雨読の意味不明のコメントに困惑しました。
私なりのコメントへのお礼です。
佛道をならふといふは、自己をならふ也。自己をならふといふは、自己をわするるなり。自己をわするるといふは、萬法に證せらるるなり。萬法に證せらるるといふは、自己の身心および他己の身心をして落せしむるなり。悟迹の休歇なるあり、休歇なる悟迹を長長出ならしむ。
(正法眼蔵 現成公案 道元)
絶対矛盾的自己同一として作られたものから作るものへという世界は、一つの矛盾的自己同一的現在として自己自身を形成し行く世界でなければならない。かかる世界は何処までも作られたものから作るものへと、動き行く行為的直観的現在を中心として、無限に自己自身を映すと考えられる意識面を含む世界でなければならない。
(絶対矛盾的自己同一 西田幾多郎)
たとえば、これらの文章に対して、「読む気にもなれない人」、「すっーと理解の出来る人」、そして「自分を読める人」がいます。
私は、「読む気にもなれない人」、「すっーと理解の出来る人」ではなく、後者でありたいと考えています。
単純なことです、「僕」は「ぼく」です。でも「ぼく」は「僕」ではありません。
私なりのコメントへのお礼です。
佛道をならふといふは、自己をならふ也。自己をならふといふは、自己をわするるなり。自己をわするるといふは、萬法に證せらるるなり。萬法に證せらるるといふは、自己の身心および他己の身心をして落せしむるなり。悟迹の休歇なるあり、休歇なる悟迹を長長出ならしむ。
(正法眼蔵 現成公案 道元)
絶対矛盾的自己同一として作られたものから作るものへという世界は、一つの矛盾的自己同一的現在として自己自身を形成し行く世界でなければならない。かかる世界は何処までも作られたものから作るものへと、動き行く行為的直観的現在を中心として、無限に自己自身を映すと考えられる意識面を含む世界でなければならない。
(絶対矛盾的自己同一 西田幾多郎)
たとえば、これらの文章に対して、「読む気にもなれない人」、「すっーと理解の出来る人」、そして「自分を読める人」がいます。
私は、「読む気にもなれない人」、「すっーと理解の出来る人」ではなく、後者でありたいと考えています。
単純なことです、「僕」は「ぼく」です。でも「ぼく」は「僕」ではありません。