無知の知
「本質として認識する僕そのものを対象とする営み」が存在論の入り口に立つことになり、ここから「一つの特定の類的存在」の内側に入ります。
僕自身の場合は、その背後に、ややこしいことに「自己否定」の亡霊が纏わりついていますが。
雑多に読んだ限りですが、粗雑にポスト構造主義を言えば、根源的問いに対する答えは提示されていませんが、そこに至るべく思考が現出しています。
ちょっと古い入門書ですが「ポスト構造主義」(キャサリン・ベルジー岩波書店)164Pに「ポスト構造主義は不確実なことを問うようにうながす役に立つ」と、そして同書扉に「それは何よりも思考の実践だ、まずは「自明の真理」を疑うこと、安易な答えに満足せず、ひたすら問いつづけること」とあります。
これは、プラトンが『ソクラテスの弁明』で記しているソクラテスの言葉「無知の知」と同質です。
この2,500年の間、語彙は難解になり、対象は雑多になり、思考構造は怪奇になっただけで、人々は何を思考してきたのか、漠然とした寂寥感に見舞われます。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/3a/4e/3a9d7f364781022de626ed459faf8a00.jpg)
極端に端折ったメモになりましたが、「類的存在」の入り口に辿り着くことができましたので終わります。(09.06.03)
「本質として認識する僕そのものを対象とする営み」が存在論の入り口に立つことになり、ここから「一つの特定の類的存在」の内側に入ります。
僕自身の場合は、その背後に、ややこしいことに「自己否定」の亡霊が纏わりついていますが。
雑多に読んだ限りですが、粗雑にポスト構造主義を言えば、根源的問いに対する答えは提示されていませんが、そこに至るべく思考が現出しています。
ちょっと古い入門書ですが「ポスト構造主義」(キャサリン・ベルジー岩波書店)164Pに「ポスト構造主義は不確実なことを問うようにうながす役に立つ」と、そして同書扉に「それは何よりも思考の実践だ、まずは「自明の真理」を疑うこと、安易な答えに満足せず、ひたすら問いつづけること」とあります。
これは、プラトンが『ソクラテスの弁明』で記しているソクラテスの言葉「無知の知」と同質です。
この2,500年の間、語彙は難解になり、対象は雑多になり、思考構造は怪奇になっただけで、人々は何を思考してきたのか、漠然とした寂寥感に見舞われます。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/3a/4e/3a9d7f364781022de626ed459faf8a00.jpg)
極端に端折ったメモになりましたが、「類的存在」の入り口に辿り着くことができましたので終わります。(09.06.03)
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