Retriever Legend's blog

散歩好き、本好き、惰眠好き、犬大好きの彼(旦那)の戯言を僕が代弁します。

構造主義?

2009-04-18 08:43:26 | 未分類
僕は、マルクス読みではないことを始めに記しておきます。

商い仲間とたわいない話をしていて、「構造主義とは」となりました。
雑に括ってみますが、雑すぎることは承知おきください。

野生の思考(クロード・レヴィ=ストロースみすず書房 未読孫引き) は、構造主義の始点となり、戦後思想の転換を生起した著書です。
未開地の人間は、無知でも野蛮でもなく生活、文化は社会構造の結果であり、野蛮と考える西欧の人間は、西欧の社会構造の結果にすぎない。 
私たちの思考、思想、哲学は、社会の構造を土台としている。
歴史は進化、自由、主体性などは、不可視の社会構造(変換の作業で可視化)によるもので、単に西欧の傲慢さによるもので普遍性はない。

西欧マルクス主義のサルトルの実存主義は批判され、フランスにおいて思想的に片隅に追いやられました、社会構造のもたらす幻想にしか過ぎない、と。
すぐ気づかれると思いますが、この構造主義自体もフランスの社会構造の賜物ではと。
構造の生成過程や変動の可能性の視点が、ポスト構造主義と言えます。

この社会構造を外から解体しようとしたのがミッシェル・フーコー、内側から解体しようとしたのがジャック・デリダといえます。

レヴィ=ストロースもジャック・デリダも、マルクスの思想を否定はしていません。
伺えるのは、マルクス主義(科学性より階級性、党派性、政治性に重心がある)ではなく、マルクスの思想そのものに可能性を見ているからだと考えます。

僕自身は、例えば「商品の神秘的性質はその使用価値から出てくるものではない。」(資本論Ⅰ 130P 岩波文庫)は、幻想である貨幣の物神的性格で展開すべきと考えます。
また、「商品は直接には、交換価値の担い手であり、したがって交換手段であるという使用価値を持っているだけである。」(資本論Ⅰ 156P 岩波文庫)にしても、商品を使用価値としていますが、共同体における物々交換との差異は明確でなく、商品の形態規定性が蔑ろになっていると読めます。
が、物々交換との差異の明確は、新たな地平を予感させる魅力があると考えます。

ハイデッガーの『存在と時間』(15P 岩波文庫)の前文に、プラトン「ソフィステース」を引用して〈ある(存在)〉について、「いまはてんで分からなくなって困りきっているのさ」とあります。
デカルトの「われ思うゆえにわれあり」は変だよと書いてあるのですが(端折過ぎ)、「存在」は僕{現存在}自身の関心領域の一角を占めています。



蛇足
サルトルは『存在と時間』に触発され「主体性の哲学」を思考しましたが、ハイデッガーに後継者とは見られませんでした。


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