朝日夕刊に藤原新也の短期連載がありました。
『私の収穫』の「書の居合い抜き」に、早朝の渋谷のスクランブル交差点で2mの屏風に「死ぬな、生きろ」と大書したとあり、若い女性の二人づれの一人が「あ、わたし生きられるかもしれない」と小声でつぶやいて通り過ぎた、とありました。
また、週刊プレイボーイに連載とありました。
週刊プレイボーイ (10.08.30日号)を立ち読みしました。
「藤原新也の書行無常」が 4ページものであり、渋谷スクランブル交差点のど真ん中に、「死ぬな生きろ」の屏風の写真が。
「死ぬな生きろ」 (藤原新也 スイッチパブリッシング)
写真は写し取られた内容で語られるべきなのでしょうが、フレーズが生きています。
本屋から「無所有」(法頂, 金順姫 (翻訳) 東方出版)が届き、宗教哲学の語彙の翻訳に不安がありましたが、澄み渡った視線と直喩ともいえる言葉で綴られたエッセイ集です。
何編かにひとつ、違う訳語のほうがと思う所もありますが、法頂師の考え方がストレートに伝わってきます。
合間、合間に読もうと思っており、読み終えていませんが、「読書に季節はない」の後半に『文書を通して、自分自身を読むことができる』と書かれています。
やはり幾つになっても、自分と向き合い続けていたのですね。
違和のない同意と、奇妙な虚無が過りました。.
「無所有」(法頂, 金順姫 (翻訳) 東方出版)
『私の収穫』の「書の居合い抜き」に、早朝の渋谷のスクランブル交差点で2mの屏風に「死ぬな、生きろ」と大書したとあり、若い女性の二人づれの一人が「あ、わたし生きられるかもしれない」と小声でつぶやいて通り過ぎた、とありました。
また、週刊プレイボーイに連載とありました。
週刊プレイボーイ (10.08.30日号)を立ち読みしました。
「藤原新也の書行無常」が 4ページものであり、渋谷スクランブル交差点のど真ん中に、「死ぬな生きろ」の屏風の写真が。
「死ぬな生きろ」 (藤原新也 スイッチパブリッシング)
写真は写し取られた内容で語られるべきなのでしょうが、フレーズが生きています。
本屋から「無所有」(法頂, 金順姫 (翻訳) 東方出版)が届き、宗教哲学の語彙の翻訳に不安がありましたが、澄み渡った視線と直喩ともいえる言葉で綴られたエッセイ集です。
何編かにひとつ、違う訳語のほうがと思う所もありますが、法頂師の考え方がストレートに伝わってきます。
合間、合間に読もうと思っており、読み終えていませんが、「読書に季節はない」の後半に『文書を通して、自分自身を読むことができる』と書かれています。
やはり幾つになっても、自分と向き合い続けていたのですね。
違和のない同意と、奇妙な虚無が過りました。.
「無所有」(法頂, 金順姫 (翻訳) 東方出版)
「冴えている人」は、日々の生活の出来事(子供に見知らぬ子犬が寄ってきた、彼女の表情が硬かった、通りすがりの人のシャツの色が気になった、今日は晴れて欲しかった、目玉焼きの黄味がトロトロだった、ゴミを買ってしまった、不毛な集まりだった等)から、自分、家族、地域、体制、国家等を本質的に了解します。
一を聞いて十を知るタイプの方です。僕などは十を聞いても一つか二つくらいしか分からないタイプの類です。
興味のあること関心のあることについて、先哲の書籍を漁り続け、そして自分の興味、関心と対照させながら、その自分を問い糾すようなことをしています。
彼女に、法頂師は80歳近くになっても自分自身と向き合っていた(自分自身を読む)ことを話すと、「同じようなことをしている人が他にもいて安心?」と言われてしまいました。
安心かどうかは別にして、法頂師に人間の思索の限界を垣間見た気がしました。
日々の生活で例えば、娘が突然訳もなく大粒の涙を流した時の、娘の悲しみ、痛み、不安等と自分の驚き、不安、好奇心、慈しみ等について、娘と自分とにきちんと向き合うことは、一冊の思想書、哲学書を読むことより大切だと考えます。
日韓譯も韓日譯も両方こなされる方のようですね。
專門は平安文學だそうですが・・・
私も本棚になん冊かある法頂師の書籍をこちらにきて13年になりますが未だ表紙を開いてみたことがありません。
韓国の諺に、始め(ること)が半分だ(着手すれば半分はやったようなもの)、というのがありますが私もこれらの一ページ目を開くにはあとどれだけの?月が必要か・・・
ツレは法頂師の本は全て讀んだといいますが・・・
最近讀書が疎かになってます。
私の場合は單なる怠慢ですね。
現在の関心事とすべきことが生活中心ですので・・・
言い訳ですかね^^