書道家Syuunの忘れ物

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正論・絶賛・小林秀雄。‥‥悪文・今なら論文試験落第

2008-05-19 21:32:37 | 世の中妙な??事ばかり

5月19日の産経新聞の「正論」は「小林秀雄没後25年にあたって」と題して文芸批評家・都留文科大学教授 新保祐司氏が、故小林秀雄氏を大絶賛している。
 
しかし、本当にそうなのか。
だいいち、普通の人は読むのも苦痛なほどの「悪文」だ。
だから、その方の人達しか読まないという不思議な世界なのだ。

さて、文化勲章受章者・小林秀雄の文章というのは、東京大学なとを出た人達が不思議と絶賛した文体だ。
今読み返せば悪文の典型で、論文の演習なら直ぐに全文書き直しだ。
しかし、本来平易に書けば大したことを書いていなくても、読めないように書けば「凄い」というのはどういう事だろうか。

元々東大出身の学者というのは、結構地方の駅弁大学出の人物に負けることがある。
そこは、小さいときから神童と呼ばれ、中学、高校と試験100点を通してきた学校秀才。そんな駅弁大学出のバカに負けてたまるか。
ところが、不思議なことに才能というのは学校の勉強とは関係ないところにある。
そんな東大出の学者先生の才能というのは、「学校秀才」という才能だったということだ。
だから、「中身が無くても」あるように書くと言うのが、学位論文の書き方になった。

高校の現代国語の教師は、東大出の元朝日新聞記者だった。(レットパージで追放)
この国語教師が絶賛していたのがやはり、小林秀雄の文章。
教科書に載っていた小林秀雄の文章は難解で中々分からなかった。その中身‥‥中身などほとんど無い。
単なる戯れ言。
そんな中身のない文章が「素晴らしい」という。
今にして思えば、悪い冗談だったろう。
こんな文章に「威厳」を感じる人もいるから不思議なものだ。実は、小林秀雄の文章の中身をまともに理解した人はいないのではないか。

以下、2006年6月17日に書いたブログを再掲してみる。


小林秀雄と聞いて筆者は、嫌な気になる。
何故かというと、高校時代この悪文の文章を散々読まされたからだ。
ところが、東大出の現代国語教師は大絶賛なのだ。
そして、随分昔から「小林秀雄」式の文体でなければ、文学系の学位論文は通らないという。
だから、時々「正論」で「小林秀雄」文体に出会うことも珍しくない。
文化勲章もとった文芸評論家というが、筆者に言わせれば「悪文」だ。
実は、もっと悪文なのはノーベル賞作家の大江健三郎

では、小林秀雄『栗の樹』から引用してみよう。

本当に自分が信じられなければ、一日も生きていられる筈はないが、やっぱり生きていて、そんな事を言いたがる人が多いというのも、何事につけ意志というものを放棄するのはまことにやすい事だからである。生きようとする意志を放棄すれば進んで死ぬ事さえ出来ない。たゞ生きている様な気がしている状態に落入る。まことにやすい事です。」
ここで何故わかりにくいのかというと、主語と述語が無くて、又は関連していない。しかも関連性のないことを次々と羅列して行くことだ。
ついでに言うと、「てにをは‥‥」の使い方が出鱈目なのである。

そこで、syuun風に解読すると

本当に自分が信じられなければ一日も生きていられる筈はない
しかし、
やっぱり生きていて、そんな事を言いたがる人が多いというのは、何事につけ意志というものを放棄するのまことにたやすい事だからである。
生きようとする意志を放棄すれば進んで死ぬ事さえ出来ないだからたゞ生きている様な気がしている状態に落入る。これはまことにたやすい事です。」


次にこんな文章はどうだ。

私など、過去を顧みると、面白いことに関し、ぜいたくを言う必要のなかった若年期は夢の間に過ぎ、面白いものを、苦労して捜し廻らねばならなくなって、初めて人生が始まったようの思うのだが、さて年齢を重ねてみると、やはり、次第に物事に好奇心を失い、言わば貧すれば鈍すると言った惰性的な道を、いつの間にか行くようだ。のみならず、いつの間にか鈍する道をうかうかと歩きながら、当人は次第に円熟して行くとも思い込む、そんな事にも成りかねない。」

私など、過去を顧みると、面白いことに関し、ぜいたくを言う必要のなかった若年期は夢の間に過ぎ
歳を取って、面白いものを、苦労して捜し廻らねばならなくなって、初めて人生が始まったようの思う。
のだが、
さて年齢を重ねてみると、やはり、次第に物事に好奇心を失い、言わば貧すれば鈍すると言った惰性的な道を、いつの間にか行くようだ。

こんなに、悪文の典型である長文節を切って、事柄の違うことを分離すると非常わかりやすい文章になる。
実際、よく見れば内容などほとんどない。
小林秀雄的な文章というのは、元々何も内容のない「くだらないこと」を如何にも「大層なこと」が書いてあるかのように見せる偽装的文章だ。

しかし、書き直してしまうと、これでは文化勲章は、取れそうもないということになってしまう。

今後、こんな文章を書くようなことを見たら、「中身間無い」空虚なものだと見破ろう。
本来、言葉の遊びで、中身を伝えようとする意志のない文章だからだ。
 <WBR>

読み返してみると、小林秀雄という人物のインチキ性がまざまざと分かる。

「小林秀雄はまさに、時代の重石であった。」と表現する人は、間違いなく東大閥に連なる人達だろう。
もう、小林秀雄を褒め称えるのを止めたらどうか。
どんな文章も、平易に読み替えたら誰も見向きもしないようなものだ。


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