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"四季折々 この一枚″

ブログのタイトルを上記に変更しています。アドレスは同じです。
右端にカレンダーが出ればご覧いただけます。

ノースゲートビル 2

2011年05月12日 10時00分34秒 | 紀行

大阪ステーションシティのノースゲートビル。11階の風の広場から階段で14階へあがる。

そこには「天空の農園」がある。
案内パンフレットによれば、「都市の中で自然を実感し、憩いと潤いを与えるオアシス空間。
緑地機能のみならず、心と体に居心地のよい広場を目指す」とあった。

今度の改装で、大阪駅は「エコ」に気を配っている。
風力発電や太陽光発電の試みに挑戦し、ホームを覆うドームでは、その雨水を再利用する試み
などが工夫されていると言う。

ノースゲートビルのこの空間は北向きだ。
淀川の流れも、すぐ、そこに見える。
今の季節は良いが、冬場は、さぞ、寒いことだろう。

 

街づくりの槌音は今もつづいている。
はたして、この地域の街づくりが完成するのを見届けられるだろうか。
(おわり)

 


ノースゲートビル 1

2011年05月11日 09時55分03秒 | 紀行

新装なった「大阪テーションシティ」のノースゲートビル。
5階の「時空の広場」からエスカレーターで10階まで一気にあがる。
そこには、「庭園」や「風の広場」が配置され、青空の下で買い物客が休んでいた。

14階には、「天空の農園」があり、風の広場から農園までは、階段を歩いてあがらねばならない。
係員の話では、「最後は歩いていただいて、足腰を鍛えてほしい」と言っていた。
(つづく)


ステーションシティー

2011年05月10日 11時36分53秒 | 紀行

新しい「大阪ステーションシティ」には、8つの広場がある。
ここは、5階にできた南北のビルをつなぐ橋上駅屋上、「時空(とき)の広場。
上にはドームが広がり、「時」を刻む金銀の時計が広場の南北に配置されている。

手前は、2階の駅ホーム。その次は、3階の橋上駅へのエスカレーター。
そして、5階の「時空の広場」。

(つづく)

 


渓流のサクラを守る 3

2011年04月10日 10時10分25秒 | 紀行

整備がすすむ斜面は、猪名川の清流を挟んで対岸が崖。
その崖下に車が、ようやく、すれ違える道路が一本あるだけ。
対岸からのサクラ見物は、なかなか難しい。

そこで、車の少ない時間帯をみて対岸にまわり、
対岸からのエドヒガンのサクラを見た。
(以下の写真は、いずれも4月9日に写す)

活動に携わる人たちの力を集めて、「よみがえった森」。
サクラだけでなく、新緑や秋の紅葉も楽しめる憩いの場所になってほしいと願う。
(おわり)

 


渓流のサクラを守る 2

2011年04月09日 10時34分03秒 | 紀行

エドヒガンは落葉高木、樹高15~25メートル。
山桜とともに長寿のサクラとして知られ、他の種類に比べて
10日ほど早く咲き始める。彼岸ごろに咲くことから、この名前で呼ばれる。

付近が住宅地として造成されはじめたのは、およそ50年前。
斜面は、当時から放置され鬱そうとした森になった。
そこへ、小鳥たちが落としたエドヒガンの種が芽生え、約70本が群生したと言う。

その森をよみがえらせる、「渓(タニ)のサクラを守る会」の活動に賛同する人たちは、
50人を超えたという。

そして今年、初めて森は一般に公開された。(4月7日まで)
(ここまでの写真は4月7日写す)
(つづく)

 

 

 


渓流のサクラを守る 1

2011年04月08日 10時46分06秒 | 紀行

野生のサクラ「エドヒガン」(江戸彼岸とも書く)の群生地として、
渓流をよみがえらせようと言う、「森」つくりがすすんでいる。

場所は、兵庫県川西市水明台1丁目の猪名川沿いの斜面、約4ha。

かっては、日のあたらない林であった斜面。
ここに、エドヒガン70数本が群生していることを知った地元の人が、平成20年から、
斜面をよみがえらせる活動を初め、3年目にしてようやく一般公開ができるまでになった。

(つづく)

 


町おこし(池田) 4

2011年01月12日 11時35分04秒 | 紀行



池田市の人口は10万人と少し。それほど、増減は無い。
狭い路地に昔の家ももあれば、近代的なマンションや新しい施設もある。

大衆演劇の池田呉服座の向かいには、「落語みゅーじあむ」が開業していた。

池田といえば、小林一三記念館や逸翁美術館で知られるが、その昔、この地方の
豪族だった摂津池田氏の城があったという城山地区には、「池田城跡公園」も完成して
いる。
いまや、新旧まざりあった町が池田というべきかも知れない。

阪急池田駅前の商店街を歩けば、ご他聞にもれず、シャッターも目にはつくが、こんな
暖簾をつるした店が目に付くのも池田市ならではの風景というべきか。


「町おこし(池田)」おわり。

 


町おこし(池田)3

2011年01月09日 10時48分55秒 | 紀行

西光寺の路地から南へ出ると、西本町の交差点のそばに
新しい「呉服座」の看板が目に付いた。





かって、呉服座(くれはざ)としてつづいた大衆演劇の芝居小屋は昭和44年に閉館、建物は
犬山市の明治村に移設された。
あれから41年、地元の有力者の念願がかなって、去年の11月、現代の大衆演劇の
場として新しい「池田呉服座(ごふくざ)」が復活した。



拡幅整備されたこの通りは、向かい側に落語を聞かせる落語ミュージアムもあり、少しづつ、
賑わい取り戻しつつあるようだ。

 

 


町おこし(池田)2

2011年01月08日 10時48分46秒 | 紀行

呉服橋を西から東へ渡れば、もう池田市内。
そのかかりの路地を入るとお寺と古いたたずまいの民家があった。


向かって左は、「西光寺」。浄土宗の寺である。
右側が古い造酒屋(つくりざかや)、吉田酒造の今にのこる建物です。

          酒造業は、昔からその町の中心として栄え、財を成した有力者が多い。
            従って、建物もしっかりしており、町として保存される建造物も多い。

 

 

 

 


町おこし(池田) 1

2011年01月07日 13時53分35秒 | 紀行

私たちの隣町「池田市」は、京都・能勢・西宮の街道筋にあたり古くから栄えてきた。
従って、現在でも他の都市には見られない古い町並みがのこっている。
寒い冬の一日、運動をかねて、徒歩で西の境界にあたる猪名川から市内を見た。



猪名川の橋上から五月山を見る。

 

 

 


草津宿 3

2010年12月05日 14時45分01秒 | 紀行

現在の草津宿には、「本陣」から少し西へ寄ったところに「草津宿街道交流館」があり、人や物が
行き交ったかっての宿場の資料を展示している。



その街道筋には、昔を思い起こさせるような町屋の姿もあり、訪れる観光客を和ませている。

江戸城のを造ったことで知られる太田道灌。太田氏は、徳川の三代将軍のころ、街道の
守りを命じられて、この草津の地に移り、のちに酒造りを始める。 
その遠祖の名にちなんで「道灌」と名付けられた酒は、今も、好評を博しているといわれる。



(草津宿 おわり)

 

 

 


草津宿 2

2010年12月03日 14時16分33秒 | 紀行

江戸から東海道で五十二番目、中山道で六十八番目の宿場になる草津宿の本陣は
天保14年(1884年)当時の姿を、ほぼそのままにとどめている。

表門をくぐると、中央に式台を持った玄関、その先には長い畳廊下が延び、両側に従者、
奥に主客の休泊する部屋や主客用の湯殿や台所があった。

この本陣屋敷は、建坪468坪、部屋数は30室余りもあったという。

宿泊した大名たちの名札が今も残っている。



向かい上段の間。


(つづく)


草津宿 1

2010年12月02日 14時26分42秒 | 紀行

このところ、なぜか「宿場」づいている。それは、年齢をとってきて古い物が懐かしいのか。
それとも、郷愁を覚えるからか。いや、健康のための運動の意味からも、昔の宿場を歩くのが適当な
運動になるからかもしれない。

今回は、東海道と中山道の合流地点、滋賀県草津市の草津宿を訪ねた。


草津市内を流れれていた「旧草津川」。昔は、天井川で、中山道を西へ辿った人は、この川わたると
草津宿に入った。


川の西側に「道標」が建っている。
右は東海道で伊勢へ通じる。左は中山道で美濃路へ向かう。


上の道標から旧草津川を東へ越えた覚善寺というお寺の門前には上のような「道標」が
建っていた。



草津の宿場、約1.3キロには、大名らが止まる「本陣」が2軒、脇本陣が2軒、旅籠が72軒もあったという。
下の写真は、草津宿本陣の一つであった「田中七左衛門本陣」で、昭和24年に国の史跡に指定され、
現在も東海道随一の本陣として保存されている。


(つづく)


枚方宿

2010年11月13日 13時46分42秒 | 紀行

東海道五十三次は江戸から京都まで。その最後の宿場は「大津」であった。
大阪と京都の間には、豊臣秀吉がひらいたという京街道があり、途中に
守口、枚方、淀、伏見の宿場があった。

その枚方宿。西見附から東見附の間、約1.5キロ。
今では石畳のきれいな道に整備されて、あちこちに石柱の表示が目立つ。



街道沿いの民家には、杉の葉を集めた動物の飾り物や、くらわんか整骨院、大黒さんの
鬼瓦など、珍しいものを見ることができた。





かっては、大名行列が通った「枚方宿」。淀川の舟運で栄えた「鍵屋浦」にも
昔の面影は無いが、それなりに宿場の雰囲気は感じることができた。(おわり)


鍵屋資料館

2010年11月10日 10時20分30秒 | 紀行

江戸時代、東海道から京都・大阪へ延びる京街道の宿場町であった枚方。
淀川を上下する「三十石船」。淀川の舟運で栄えた枚方。
その賑わいを今に伝える枚方市立「鍵屋資料館」。


資料が展示されてる別棟。裏は淀川にのぞむ。

その資料の一部。上は大名行列の通過風景。
 
 
「くらわんか舟」の模型。

(つづく)