団塊の世代のつぶやき

誇れる日本を取り戻そう

★百人斬りを書いた記者の、その後

2016年08月15日 | マスメディア

  稲田さんの百人斬り否定などを餌にして尖閣で 騒動を起 こしている中国ですが、あの百人斬りを書いた毎日新聞の記者はどうなったのだろうと思っていたら、やはり、中国が動いていたよう です。

「中 国 経済 最新情報」稲田大臣、百人斬りは捏造だ!妄想を信じる中国!


  あの百人斬りを書いた記者の名前は浅海一男というのだそうです。その記者 の、その 後についての興味深い情報を、何時もの「心に青雲」さんが詳しく取り上げてくれていました。
  何と、その情報源があの高山正之さんだそうです。動画が無いかと探してみたのですが、今のところ見つけるこ とはでき ませんでした。


  心に青雲より     2012年11月13日

  犯 罪者・浅海一男の“その後”

  廖承志(りょう しょうし)は、1963年から83年の死去までのあいだ、中国共産党で最も知日派として知られ、中日友好協会の設立時から死去まで会長であった。中共の外 交における対日専門家育成の基礎を作ったとされる。

 彼は日本生まれの日本育ちで、早稲田大学に在籍したこともあった。日本語は江戸っ子なみのベランメエ調も話すことがで きるほど で、1972年の日中国交正常化交渉では首脳の通訳として活動した。こう紹介すると、日中友好に尽力した日本に好意的な中共の要 人と思われるかもしれないが、普通の支那人なみの卑劣感であった。

 高山正之氏が週刊新潮に連載しているコラム「変見自在」に、この廖承志のことが書かれていた(‘12.8.30号)。

  * *

 廖承志は日本との国交回復を前に、まず記者交換協定を結んだ。文革騒ぎの少し前のことだ。
 日本の新聞は競って記者を送り出したが、廖はその群れの中から浅海一男を見つけだした。肩書きは毎日新聞労組委員長だ が、戦前 は上海事変に従軍し、日本軍士官が百人斬りを競ったという与太を書いた記者だ。

 戦後、その記事を証拠に2人の少尉は日本軍の残虐性の象徴として雨花台で処刑された。
 しかし嘘はばれる。彼は閑職に追われ、毎日新聞も「1億人の昭和史」の中で彼の記事に疑問符を付けていた。
 もし書いた当人がでっちあげを自供したら、それと関連させて支那が囃した南京大虐殺の嘘もばれる。

 廖承志は今、手を打つべきだと考え、「金も仕事もやるから家族ごと北京にこないか」と浅海を誘った。
 彼は針の筵の祖国を捨てて支那に渡り、娘の真理も北京大学に入れてもらった。彼女は今も政府施設に店を出し優雅に暮ら してい る。
 その代償はただ一つ「百人斬りはホントだった」と言い続けることだった。

 おかげで南京大虐殺は生き残り、支那は3兆円のODAを日本から巻き上げた。安い買い物だった。

    *          *

 毎日新聞(当時は東京日日新聞)の記者・浅海一男は、昭和12年の日本軍の上海から南京への進撃戦で、向井敏明少尉と 野田毅少 尉の二人の将校が、支那兵をどちらが先に日本刀で百人斬るかを競いあったというデタラメな話を記事にした馬鹿者であった。

 この記事のために戦後、向井氏と野田氏は無実の罪を着せられて戦犯として処刑された。ご遺族は戦後、いわれなき戦犯の 家族と言 われて筆舌に尽くしがたい苦労を強いられた。
 これは山本七平氏が本多勝一の『中国の旅』批判の中で指摘していたが、当時、向井氏は歩兵砲小隊長であり、野田氏は大 隊付副官 であった。だから職掌柄、直接、支那兵と肉弾戦をやる機会もなく、また捕虜と関わるヒマもなかった。だから検証するほどもなく、 でっち上げとわかる。

 その浅海ブタ野郎が、廖承志に誘われて支那に囲われたとは高山氏のコラムを読むまで知らなかった。その娘までが厚顔無 恥だった とは…。親が親なら子も子、卑劣の極みである。…以下略

  中国の腹黒さにも腹が立ちますが、やはり、それに籠絡された浅海一男には呆れるしかないですね。民度の高い日本人に も、こう した売国奴が沢山いるようです。
  反日売国左翼の跋扈を見ていると、日本人も、それ程誇れるものでもなさそうです。と言うか、やはり、全てが素晴らし いなんて ことは有り得ないですね。

  この記者については、何時ものBBさんも書いてくれていました。まだまだ、知らないことばかりです。

  BBの覚醒記録よ り   2012-08-28

  あ る売国奴・浅海一夫 ~敵は我が裡にあり~

  それにしても、この浅海一男という男は、本当に情けない奴ですね。戦後の劣化した日本人売国奴の走りですね。同じよ うな売国 奴がうようよいますね。何とも、情けない国になってしまったものです。



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