第184話の「天下の公民」でねずさんに素晴らしい日本の歴史を教えて頂きましたが、あの中で、一番印象に残った菅原道真公の話題を詳しく取り上げたいと思います。
何で、印象に残ったかと言うと、一番の理由は鎖国に踏み切ったと言うことです。お恥ずかしいことに、菅原道真公が鎖国に踏み切ったことなど全く知りませんでした。
それまでは、大宰府に流されたのは単なる権力争いに敗れただけだと思っていました。その人が、悪霊となって京都を恐怖に陥れ、それを鎮めるために天満宮が造られたというのが、どうにも不思議だったのです。
何で、悪霊を神様としてあがめ天満宮まで造ったのか、本来なら、祈祷くらいで済むはずなのにと思っていました。
ところが、このねずさんの話で、鎖国に踏み切ったことが全ての原因であることを知り、やっと納得が行きました。
それどころか、今こそ、その道真公に習って鎖国迄もは無理としても特亜3国との国交断絶に踏み切るべき時が来ていると思われるからです。菅原公が何故鎖国に踏み切ったかの理由はまさに今の日本が置かれている状況そのままです。
日本の政・官・財のえらいさん達はこの道真公の話を知っているのでしょうか。どう考えても知っているとは思えません。ねずさんに講義してもらいたいものです。
やはり、ここは道真公を習って、国交断絶に踏み切ってもらいたいのです。まさに、平成の菅原道真出でよです。
ねずさんの ひとりごとより 2014/11/24(月)
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さて、前回、天皇のもとに公民があり、施政者はその公民の中から選ばれた人が、天皇から「認証」されて政治を行うという体制が、すくなくとも大和時代には、すでに日本に構築されていて、これが成文化されたのが7世紀だと申し上げました。
そしてこの体制のもとで、時代は奈良、平安と進みました。
そして平安時代の初期に、わたちたちの国では、菅原道真公があらわれて、支那との交易を断ち、日本を鎖国しています。
この菅原道真公の行動は、実はたいへんな行動です。
なぜかといえば、海外との交易は、めちゃめちゃ儲かったものであったからです。
日本から支那に品物を持っていけば、その品物は20~30倍の高値で売れたし、そのカネで支那でいろいろなモノを仕入れて日本に帰ってきてこれを売りさばけば、またまた20~30倍の値段で売れたのです。
ということはどういうことかというと、仮に往復とも30倍だったと仮定すると、日本を出るとき、100万円分の商品を仕入れ、これを支那に持っていって売りさばき、さらに向こうで儲かったカネで、支那の物品を仕入れて帰って来ると、なんと、最初の100万円が30倍×30倍=900倍、つまり、100万円が9億円に大化けしたのです。
鎖国をするということは、これだけの利権を、国として手放すということです。
交易業者、その交易業者から多額の献金を受けている貴族、政治家など、そりゃあ猛反対します。
そして鎖国しようとする菅原道真公には、ありとあらゆる非難が浴びせられます。
そして道真公は、ついには政権の中枢から引きずり降ろされて、太宰府で憤死しています。
ちなみに道真公は、周囲の財力を持った貴族たちから猛反発を浴びながらも鎖国に踏み切ることができました。
なぜでしょう。
その答えが、百人一首の道真公の歌にあります。
そこで道真公は「神のまにまに」と詠んでいます。
つまり道真公は、ご自身がたいへんに立派な人でありながら、そのすべての行動や意思決定は、常に八百万の神々のご意思のもとにあるという立場を貫き通していたのです。
このことは、政治的な主張をするときの姿勢として、わたしたちに大きな示唆を与えてくれます。
さて、ではなぜ菅原道真は、支那との国交を絶つという決断をしたのでしょう。
交易は儲かるのです。
これを「国」として行えば、国庫が潤うのです。
民の生活だって、豊かになるかもしれません。
にもかかわらず、なぜ、道真公は、交易を辞めてしまったのでしょうか。
しかもです。交易をすることで経済が発展し、豊かになることを辞めてしまった道真公が、没後には「天満天神」として人々からあがめられ、信仰される神様にまでなっています。
おかしくありませんか?
儲かる海外交易を辞めた人が、「天満天神(てんまてんじん)」です。
道真が怨霊となっただの、祟りが怖かったからだのという色々な説がありますが、人々に害をなす怨霊が怖くて祀るなら、すくなくとも「天満天神」なんていうおめでたい名前はつけません。
「天満天神」というのは、文字通り、天に満ちる天の神です。天の慈悲、神の慈悲を施す神という意味です。
貿易をやめて人々に大損させた挙げ句、怨霊となって祟った人に付けるような名前の神社ではありません。
つまり、交易をすること以上に、つまり儲かること、利益を得ること以上に、交易を続けることによって深刻な問題が、当時の世の中にあり、これが抜き差しならないものとなっていたからこそ、道真公は大英断をもって交易を辞めたということです。
そしてこのことを考える上で、もうひとつ大切なファクターは、日本では、施政者というのは絶対権力者ではない、ということです。
ですから道真公が交易を辞める、と決断した背景には、他の多くの施政者たちが、みんな口を揃えて「もういい加減、やめてほしい」という意向になっていたということです。
どうしてやめてほしかったのでしょう。儲かるのに。
理由は簡単です。
交易によって、ただモノやカネが入ってくるだけではないのです。
ヒト、モノ、カネはセットです。
まして大儲けできるとなれば、そこにヒトが集まってきます。
そしてそのヒトは、日本人ばかりでなく、支那人や朝鮮人が数多く、交易とともに、日本に入り込んできたわけです。
彼らは、絶対的支配者がいて、民衆は奴隷という社会に育った人々です。上に立つ者と下の者との関係は、常に王様と奴隷の関係です。
だから上に立つ者は、下の者に対して、何をやっても構わない。
殺そうが、奪おうが、犯そうが、それが当然の権利のように考えるという文化を持った人たちです。
そういう連中が、日本に来る。
ここは日本なのだから、郷に入っては郷に従いましょうという人も、中にはいたかもしれない。
けれど、その中の一部は、日本に来て暴徒や犯罪集団となった。
村人たちを襲い、残酷な福岡一家殺害事件や、連続強姦魔が日本中にはびこったわけです。
いくらお金が儲かったって、民の生活の安全が脅かされ、殺されたり奪われたり犯されたり、そのようなことが度々起こるようでは、何の意味もない。
そんなことくらいなら、少々貧乏でも構わないから、国を閉ざして、また昔のようにみんなで協力しあって暮らしていきたい。
そう考えるのは、ごく自然な成り行きです。
けれど、大儲けしている連中からしてみれば、自分が殺されたり犯されたりしたわけではないのだから、へいっちゃらです。
そのもうかる商売を道真公が強制的に辞めさせようと言うのなら、何がなんでもこれを阻止したいし、実際に辞めてしまったのなら、恨み骨髄です。そもそも斜め上の国の文化は「恨み」の文化なのだそうで。
だからこそ、道真公は、中央を追われた。
追われたけれど、まっとうな庶民は、道真公が、どうして交易を辞めるという政治的決断をしてくれたのかよく知っている。
民の安穏な生活を守るためです。
それこそ天の意思、神の意思に通じるものがあります。
だからこそ、道真公は「天上の慈悲、自愛の心の満ちた、天の神様のような人だ」というので、「天満天神」となったわけです。
怨霊がどうのとかいうのは、道真公を讃える神社を造ろうという動きに、「あんにゃろう、ワシらの商売を邪魔し て、ワシらに大損させやがった」と道真公を恨みに思っている、一部の交易商人や、それに連なる大金持ちの権力者たちを、黙らせるため、そういう話をでっち あげた。
大金持ちさんたちも、憎い道真が怨霊になったというなら、ざまみろ、くらい思って納得したかもしれません。
けれど、神社を造って祀られた道真公は、天満天神です。
当時の民衆の心がわかろうというものです。
そして道真公が、交易を廃止したその最大の理由が、「民の生活の安穏」にあった、ということは注目に値します。
つまり、民は、天皇の民、つまり公民であって、施政者である道真公は、天皇からその民を預かっている立場、という認識が、根底にあるからです。
民が、奴隷であり、民の生活などおよそ考えなくても良いという立場の施政者なら、道真公の決断はありえません。
根底に、民を大切にする。民は公民であるという意識、道真公の決断とその後の失脚には、そういう公民 を預かるという施政者の姿勢と、そんなの関係ねえとばかり、自分たちの金儲けだけを考える政治的立場、もっといえば道徳主義と、金満主義との政治的対立が あった、ということです。
そして道真公は、「金満」主義を否定し、道徳主義をうち立ててくれたから、多くの民がこれを感謝し、道真公こそ「天満」だ、としたわけです。
それがわたしたちの国の庶民の心意気の歴史なのです。
さて、もう一つ菅原道真公に対する思いがあります。実を言えば、道真公は我が坂出市にも関係が深いのです。讃岐の国の国司として住まわれていたのが坂出市なのです。
それゆえ、子供の頃から菅原道真という名前は流罪で坂出で亡くなった崇徳上皇と共に深く印象に残っているのです。そのくせ、こんなことも知らなかったのですから、恥ずかしさも一入なのです。
坂出市より
坂出史略年表
讃岐国府跡
菅原道真~信仰の里~
太宰府天満宮より
道真公のご生涯 | 太宰府天満宮
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出世から左遷へ 壮年期
京都から讃岐国の長官として赴任された際、疲弊していた国を建てなおすなど善政を行い、住民に大変慕われました。
その実績が宇多天皇に認められ京都に戻り、厚い信任を受け、ますます政治の中心でご活躍されました。
寛平6年(894)、唐の国情不安と衰退を理由に遣唐使停止を建議され、後の国風文化の開花に大きな影響を与えました。
その後、右大臣に任じられ、国家の発展に尽くされていましたが、左大臣 藤原時平の政略により、身に覚えのない罪によって大宰府に突如左遷されることとなりました。…以下略