活かして生きる ~放禅寺の寺便り~

娑婆世界を生きる智慧/おシャカ様・禅・坐禅・法理・道のこと

有空(うくう)2

2017年03月31日 | 仏教

私たち衆生は「空」だから、一つひとつのものがそれで

終わっているのです。

 

ですから、次から次へとものを考えても、あるいはものを見ても

心に留まっているとか、眼に留まっているということは、何一つ

ありません。

 

「過去」のものが積み重なっていくということは、何にもありません。

 

これは「空」だからそうなのです。

ですから、思えば思っただけのもの、考えれば考えただけのもので、

全部始末がついているのです。

 

それが、「差別(しゃべつ)のまま、空(平等)である」ということです。

 

「遺教経」にも「波羅提木叉(はらだいもくしゃ)を尊重(そんぢゅう)し、

珍敬(ちんぎょう)すべし  闇(あん)に明(みょう)に遇い、

貧人(びんにん)の宝を得(う)るが如し」と、示されています。

 

もともと執すべき何物もないということを、或る覚者は

「初説有空人盡執(はじめにくうをとくに ひとことごとく しゅうす)」

と、お示しになって居られます。

 

※波羅提木叉については旧稿を参照していただければ幸いです

2015/9/29 波羅提木叉


有空(うくう)1

2017年03月30日 | 仏教

「有」というのは、差別(しゃべつ)の様子です。

「空」というのは平等ということです。

 

「二見相対」では差別(しゃべつ)と平等がいつも対立しているので

「融和」が出来ません。

融和が出来ないから、溶け合うことは出来ません。

 

差別(さべつ)とか平等ということだけで議論してしまっている

様子もよく見受けられるところです。

 

そういうものを「法執(ほっしゅう)」といっています。

 

「法」に執することから脱するためには、一度この差別(さべつ)を

作っている自分自身という身を捨ててしまわないと、本当の安楽には

なりません。

 

参究していって「分かる」「分からない」という、これは「差別(しゃべつ)」

なのです。

 

「差別(しゃべつ)」がそのまま「空(平等)」なのです。


何にもないそれだけのものだということに、気が付かないといけない

ということです。

 


群を抜けて益なし2

2017年03月29日 | 道元禅師

道元禅師はご修行の時分のことを思って

「今まで自分は脇席をつけず、あるいは隣に坐っている人の

顔も見ずに本当に一所懸命に身命(しんみょう)を賭して

坐ってきたけれども、畢竟どうであったか」

 

「眼横鼻直なることを認得して人に瞞ぜられずだ」

(目は横、鼻は縦についていることを、自分で本当に

知(識)りました)

 

とおっしゃいました。

「このままでよかった」ということです。


「本来本法性天然自性身」

(ほんらいほんぽっしょう てんねんじしょうしん)

「その通りだった(もともと仏であった)」ということです。

 

ですから、結果から言えば、

「動静大衆に一如し、群を抜けて益なし」

ということになるわけですけれども、それまでに成るためには

三年間横になって寝ず、隣に坐っている人の顔も見ずに

ご修行されたという「事実」があったのです。


群を抜けて益なし1

2017年03月28日 | 道元禅師

道元禅師「弁道法」に曰く、

「動静大衆(どうじょうだいしゅ)に一如し、群を抜けて益なし」

とのお示しがあります。

 

「動静大衆に一如」とは、大衆の皆さんが休むなら、その時は

同じように休み、起きる時は同じように起きる。

すべての生活が一つに成るということです。

 

「群を抜けて益なし」とは、特別なことをしてもなんの益も

ありませんよと、お示しに成って居られます。

 

しかし、それを正直に受け取ってしまって、「みんなが寝るから

もういっしょに寝よう。みんなが休むから一緒に休もう」

としている人があったならば、少し考えて頂かなければならない

ことがあります。

 

道元禅師が中国でご修行なさった様子は「三年間、脇席つけず

(横になって寝ない)」そして、「隣に坐っている人の顔を

見たことがない」ということを言って居られます。

 

そこに大変な「矛盾」を感じて頂かなければなりません。


初一念4

2017年03月27日 | 

「暁の鐘声に応じて天地開く」

というお言葉があります。

 

即ち、暁の声に応じて天地が鐘の声に成ってしまった

ということです。

分からなかった天地が皆分かって来たということです。

 

その暁の鐘を聞くという一念の天地です。

そこです、何処までいってもその時の世界です。

 

思うのは一念です。

自分の心です。

「心鏡」です。

心鏡が出て来ているのです。

 

何処までも何処までもそれが「今の一念の相続」です。

 

初一念が好ければ第二念は悪いのでしょうか。

これはどちらも間違っているのです。

 

念のままで自己はないのです。

主人公はいないのです。

 

二念三念も同じく前後を認めずに

「一々(いちいち)脱落」していくのが修行の要訣です。

 


初一念3

2017年03月26日 | 

「念」は作り出したものです。

その「無始無終」が一念となって来ているのです。

 

禅語に、

「一念普く観ず無量劫、無量劫の時即如今(にょこん)」

とあります。

 

時間があれば空間があります。

ですから、「一念普く無辺量」ということも出来るのです。

 

この一念は「無始無終」の打ち通しなのです。

何処まで行っても念念相続しているのです。

死んでも生きても同じものです。

 

この念は始め終わりを認めたら駄目だということです。

「百千万の念もただ一念」なのです。

 

好い声だなと思うのも一念です。

好い声だなという時は、その声ばかりで自己がない故に

好い声の世界なのです。

 

悪い声のときは、悪い声の世界なのです。

その時の念が一念です。

分別のない念です。

 

それを聞くという時の分別のない所を失ったら駄目なのです。

そこを失ったら世界を損なうのです。

 

 


初一念2

2017年03月25日 | 

悟っても「初一念」というものを認めたら「迷い」になるのです。

 

最初から「無始無終」だから、それに融合しなければならない

のです。

 

始まりというものがあるでしょうか。

そこが大事です。

 

自分が聞いたり見たりするのは意識の想像欲です。

意識が決めるのです。

 

意(意識)に何もない時が主人公です。

何物もない、大掃除した大広間のようなものです。

 

我々の主人公はそこにはいないのです。

主人公があったら衝突してしまいます。

 

或る覚者は、

「見聞覚知の上に主人公があると思って追い廻るは、

犬が自分の尾を咬むのと同じだ」

と言っています。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


初一念1

2017年03月24日 | 

「主なくして見聞覚知(けんもんかくち)する人を生仏(しょうぶつ)

と我は云ふなり」

というお言葉があります。

 

多くの人は見聞覚知する主人公があると思っているのです。

これは「邪見」です。

見聞覚知の上に主人公を認めるから「邪見」というのです。

 

これは「因縁生」です。

「因縁生空なり」です。

 

主人公は何処にあるのでしょうか。

「主人公っ」と一声出す外に主人公が何処かにあるでしょうか。

 

何者が「主人公っ」と言っているのでしょうか。

ここが大事な処です

 

「初一念」というお言葉があります。

「初一念」という別のものがあるのでしょうか。

 

これは「無始無終」のものです。

「無始無終の念」だから更に見るを要しないのです。

「不生不滅のもの」です。

 


一念2

2017年03月23日 | 仏教

どうしても修行して「自己の正体を見極める」必要があるのです。

 

「一念」を起こすと、その念が次から次へと様々な念を呼び起こして

とめどもなく流れていってしまいます。

 

「一念」が天地の隔たりを生ずることになるのです。

 

そこで、「修行」とは「一念の生ずる根本を見極めなければいけない」

ということをいっているのです。

 


一念1

2017年03月22日 | 仏教

ほんの少しの「隔たり(距離)」があっても、ものと一体には

成れません。

 

そのものの「真の姿」というものは、本当にものと一体に成らなければ

分からないのです。

 

私たち衆生は、普通、「見聞覚知(けんもんかくち)する働き」を

認めて「生きている」といいます。

 

それは「生きているということの説明」に過ぎません。

 

「自己の正体」を見極めないと、すべての働きと自己との間に

「隔たり(距離)」が出来るので、「自己の正体それ自体」は

どんなにしても分かりません。

 

したがって、思慮分別し手探りの状態で、「自己の正体」を探すように

なるのです。

 

憶測とか妄想で安らかになれず、いつも不安定な状態でいなければ

ならなくなる訳です。