活かして生きる ~放禅寺の寺便り~

娑婆世界を生きる智慧/おシャカ様・禅・坐禅・法理・道のこと

差別(しゃべつ)について5

2024年05月31日 | 法理

差別(しゃべつ)とは、それぞれの法則です。

 

それを「法」とか「道」とかいっているのです。

 

「人の法則」とは人のために働くという事です。

 

山は高い、川は低い、火は熱い、水は冷たい、、、、、。

 

全部それぞれのものが「法則」を持っているのです。

 

ですから私たち衆生は、その法則のままに「差別(しゃべつ)」のままに「法(道)」に従っていく事です。

 

それが「平等」であり、「法則」です。

 

おシャカ様は「一切のもの(差別)」が「法(道)そのもの(平等)」であった事に気付かれたのです。

 

すべての物が差別(しゃべつ)と平等から成り立っているのです。


差別(しゃべつ)について4

2024年05月29日 | 法理

物の本質、本体というのは時間的にも空間的においても同一のものです。

 

そして「因縁果」の法則に従っていろいろ差別(しゃべつ)の相が出て来ているのです。

 

世の中は「末法」に入り何時の間にか不知不識(しずしらず)の内に世の中から差別(しゃべつ)の語が消え、差別(さべつ)の語が世の中を席巻するようになりました。

 

今一度、差別(さべつ)の語の中に差別(しゃべつ)を含んだ理解をしてもらいたいものです。

 

世の中は「平等界(絶対の真理の世界)」と「差別界(しゃべつかい)」という「現象世界」で成り立っていることを再確認する必要があるのではないでしょうか。

 

温故知新から知故建新(故きを知って新しきを建てる)へ。


差別(しゃべつ)について3

2024年05月27日 | 法理

「活かして生きる道」というのは、「今の世界、今の事実」「差別(しゃべつ)のまま、そのまま」ということです。

 

本当に「個、差別(しゃべつ)」に徹しさえすれば「個、差別(しゃべつ)」も無ければ全体も無いことが分かります。

 

「差異を差別(さべつ)に変えるのは人なり」と田中克彦氏は述べております。

 

差別(しゃべつ)を差別(さべつ)に変えたのは人だと私は思います。


差別(しゃべつ)について2

2024年05月24日 | 法理

欧米の個人主義の社会では「個」が尊重されています。

 

この「個」というのは広辞苑では「ひとりの人」と記されています。

 

仏教辞典(宇井伯寿著)、仏教大辞典(織田得能著)では「個」という字は見当たりません。

 

禅学大辞典には「箇、個」①事物のまとまりを指示する代名詞、これ、この 「箇人(このひと)」と記されています。

 

この「個」というのは仏教でいう「差別(しゃべつ)」ということです。

 

「差別(しゃべつ)」だけがある世界はありません。

 

「差別(しゃべつ)」の裏には必ず「平等」ということがなければなりません。

 

「真の平等」とは本当に「個」に成り切る、「差別(しゃべつ)」に成り切った時をいいます。

 

「そのまま」ともいいます。

 

「そのまま」とは「只(ただ)」という言葉でも表現しています


差別(しゃべつ)について1

2024年05月09日 | 法理

差別(しゃべつ)とは仏教語です。

広辞苑では下記のように記されています。

 

●差別〔しゃべつ〕(シャは呉音)

①(仏)万物の本体が平等であるのに対して、それぞれの個物が具体的な差異をもっていること

②相違、区別、さべつ

③分別(ふんべつ)※もと仏語から

 

しゃべつかい(差別界)〔仏〕↔平等界

万物が差別(しゃべつ)のすがたをとっている現象世界

 

●差別〔さべつ〕

①差をつけて取り扱うこと、分け隔て、正当な理由なく劣ったものとして不当に扱うこと

※差別意識

②区別すること、けじめ

差別化(さべつか) 他との違いを明確にして独自性を積極的に示すこと

 

仏教語辞典では差別(しゃべつ)即平等について、差別(しゃべつ)の当相(ありのままのすがた)がそのまま平等という理体本質であることと記されています


衆生(しゅじょう)について5

2024年05月02日 | 法理

其処(そこ)に問題があったのです。

 

其れですから解決の手段・方法は見いだせなかったのです。

 

其れをおシャカ様が人類史上初めて解明されたのです。

 

本来一つの物であるのに其れを自分勝手にしたものですから、本来の自分が分からないままで自信(自覚)が無いまま不安が生じてしまうのです。

 

其の不安をはっきり離れてしまえば「救われたということがきちんと分かる」のです。

 

それを仏教では「安心(あんじん)が得られた」というのです。