活かして生きる ~放禅寺の寺便り~

娑婆世界を生きる智慧/おシャカ様・禅・坐禅・法理・道のこと

見性 (けんしょう)

2015年09月30日 | 
「私自身」というのは、もともと実体の無いものです。

たまたま、お父さん お母さんの縁を借りて生まれたのです。

問題は、「自分はいつから自分になったか」、このことを徹底解明すると、【自分というかたまりは無い】はずです。

どうしても「私自身」という実体を認めることは出来ません。


私達衆生は【認識】を起こすことによって、自分を人と思い、他を人と思い、自他の区別をつけたのです。

自他の隔たり (距離) を持ったわけです。


安心、不安というのは同じことです。

自分と他という隔たり (距離) をつけるから不安が起きるのです。

【自分と他の隔たり (距離) が無くなること】を、仏教では「安心 (あんじん)」と言います。


ですから、本当に安心 (あんじん) をするとか、大満足をするということは、自他の隔たり (距離) が無くなった状態を言っているわけです。

仏法においてはそれを「見性 (けんしょう)」、性を見る と言います。


ただ間違えてはならないのは、よく「自分の性を見たから見性だ」と言いますが、【私だけ】が自分の本性 (ほんしょう) を見たということは【あり得ません】。

「見性」とは、【一切のものの本性を見る】ことです。


別の言葉で言えば、「一切のものは無自性 (むじしょう)」であることを、自分で、「実証 ー 事 (事実) においても、理 (理論) においても証明する」ことです。

悟りという言葉でも、解脱という言葉でも皆、距離 (隔て) がなくなった状態をそのように言い表しているということです。


私達衆生も、修行において大満足を得るために、自他の距離 (隔たり) を無くすように務めなくてはなりません。

迷いや、不安というのは、【自分が他を認めて、認識をおこすようになってから出来た】はずです。

それ以前は、何処にも存在していません。


ですから、仮に、「本来の自己の姿というものは何か」ということさえはっきり自分が実証すれば「安心 (あんじん)」というものが可能に成るということです。
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波羅提木叉 (はらだい もくしゃ)

2015年09月29日 | 仏教

「修行によって、自分が無になった」とか、「坐禅の研鑽によって空になった」

とかいうようなことがよく言われますが、それは間違いです。

もともと無であり、空なのです。


「空」というと、あるものがある時期において、ある縁によって

欠落したと考え勝ちですが、そうではありません。

空のままにものがあるということです。


今のこの諸法は、「差別 (しゃべつ)」の状態です。

空の中にものが、様々な「法」として現成 (げんじょう) しているということです。

これを「波羅提木叉 (はらだい もくしゃ)」と言います。

いちいち (個個) の解脱だと言われています。


ですから、それぞれのものがすべて「空」のままに、無いながら有る状態を

仏教では「空」と説明しているのです。


そのようにおシャカ様や、歴代の覚者といわれる方々が説かれた説明を、

あたかも事実だと思い違いをすると大変な結果になってしまいます。

ですから、色々苦労をしても、結局ものの究極、真相に至らないということになります。

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禅は結果なり

2015年09月28日 | 
禅というのは、【結果】です。

動かすことが出来ない結果です。

結果ですから、目的とか、あるいは手段とか、方法とかいうものではありません。

【因果】という、そういうものを超越したところのものです。


ですから、「坐禅は坐禅なり」なのです。

時間とか空間とか、横とか縦とかいうものの交わったところというものは何も【ありません】。

「今」です。


「坐禅は習禅にはあらず、菩提を究尽(ぐうじん) するの修証なり」

と、はっきり道元禅師はお示しになっておられます。
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成住壊空 (じょうじゅう えくう)

2015年09月27日 | 仏教
「成住壊空 (じょうじゅう えくう)」とは、成り立て、しばらく姿があって、そしてそれが壊れて空(くう) になる、ということです。

一日の中にも、一分の中にも【すべてのものが無くなり、すべて又移り変わっていく】、そういうことが繰り返しなされているということです。

概念としては、「因縁諸生 (いんねん しょしょう) の法」なのです。

毛筋ほども自分の認めようがない、移り変わっているということです。


ですから、迷いの時がある、悟りの時がある、苦しい時がある、楽に坐れる時がある。

すべて、「様々な様子が」【その事だけで終わっている】ということです。

苦は苦、楽は楽、迷いは迷い、悟りは悟り、【その他何もありません】。


それが分かるには、指導者はある時は「祗(只)管 打坐」(しかん たざ) をして下さい、又ある時は「公案功夫」(こうあん くふう) をして下さい、と言っているのです。


「功夫」というのは、大切なものを求めて、自分の両手でしっかり抱き抱えているようなものです。

「功夫」を忘れるとか「功夫」をしていないというのは、そういうものを何処かに忘れてきてしまうことです。


【功夫と坐禅は一つのもの】ですから、そういう時は「坐禅」が行われていないということになります。

ですから、「思い出した時に功夫があったり、坐禅があったりしてはいけない」ということです。



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行き着くところ

2015年09月26日 | 法理
本当に自信を持って「この修行をすれば、間違いなく究極に達する」ということはなかなか言えるものではありません。

出発はしたけれども、何処に終着点があるのかということです。

終着点は何処かというと、「今の自分」です。


今の、色々な事を考えたり、思ったり、グシュグシュしていたり、、、、そこしか行き着くところはないのです。

それを誰が「グシュグシュしている状態はよくない」と、決められるのでしょうか。

「グシュグシュしている状態」それしかないではありませんか。

分別をしている時は分別のまま、それしかないのですから、【そこ】に行き着く他はありません。


おシャカ様はちゃんと「煩悩 即 菩提」と、証明なさって自分でそれをきちんと見極めておられます。

それなのに、何故私達衆生は「今の自分」をうけがえないのでしょうか。


おシャカ様は何故私達衆生こんなグシュグシュした自分の状態を「菩提」と言われたのでしょうか。

これはあらゆる人が、

「人人 (にんにん) の分上に豊かにそなわれりといえども、いまだ修せざるにはあらわれず、證せざるには得ることなし」

だからです。


ですから、ちゃんと古人の歩まれた道に踵を合わせて修行することによって、必ずその事が現れてくるということです。

やらなければ出来ません。

歩みを進めていかなければ、行き着くところには、到達出来ないということになるのです。
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名称

2015年09月25日 | 仏教
私達衆生は「空」だとか「平等」とかいうと、何かそれが仏法の大意、究極だと考え勝ちです。

仏法ということを、思ったり考えたりすることでも、既に【名称】に引っ掛かって、迷いの元になっているのではありませんか。


名称というのは、本当に始末に終えないものですけれども、やむを得ません。

仏法は「即今、即今」と言いますが、「今」という名称はあっても【実体】はありません。

ですから、「今」という名称を使って実体の無い「今」ということを自分のものにする以外にないのです。


仏道という道に従って究極に至らなければならないのです。

道の中にいながら、道を探し求めるというのは非常に矛盾した事ですけれども、それをやらなければならないのです。

余分なことなのです。

実に余分なことなのですけれども、それをしないと「今の自分」というものは本当に分かりません。
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本来の修行

2015年09月24日 | 法理
「本来の修行」とは、自分というものが「空 (から)」に成ってからの修行です。

「信解行證入 (しん げ ぎょう しょう にゅう)」でも論及しましたが、それでない限りは皆【私の考えの中での修行】になってしまいます。

「自分の考え」というものを用いながらの修行ですから、それでは【私だけのもの】になってしまいます。

ですから、どうしても一度「空 (から) に成る、自己を忘じてみる」という必要があるのです。


それから本当に、しっかり大地に足をつけた【私のものとしての修行】が始まるわけです。

ですから、今はしばらく おシャカ様、歴代の覚者の方々の教えに従って、自分を「空 (から)」にしなければなりません。

「空 (から)」になったならば、今度は自分のものとして修行が出来る訳です。


よく言う、「万法 (まんぼう) に證せらるるなり」というのがないといけないのです。

【無所悟、無所得】ということです。


それで終わりではありません。

それからが【始まり】なのです。

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安楽の法門 1

2015年09月23日 | 道元禅師

「普勧坐禅儀」に、「坐禅は安楽の法門なり」というお示しがあります。

しかし、坐っている人には大変な事です。

「安楽どころか、苦しみが増すばかりだ」という人もいます。

そうすると、道元禅師の教えと自分の今の現状とには大変な隔たりがあるということです。


その時は、やはり道元禅師の教えに従って、

「安楽の法門にならなければいけない、どこかに自分の坐禅に無理があるのではないか」

ということに気が付いて頂かなければならないはずなのです。


ですから、「安楽の法門なり」と言われているのならば自分で、自ら安楽の法門になるような坐禅をしていかなければならない訳です。

【自分で自分の考えた坐禅をしてはいけない】ということです。

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不生不滅 (ふしょう ふめつ) 2

2015年09月22日 | 語録
「般若心経」に「不生不滅」という言葉で出てくる「生ぜず、滅せず」ということですが、自分をも含めてものの介在を認めて上で「生ぜず、滅せず」と言っている訳ではありません。

もともと、ものというのは【生じていないから、滅するものがない】ということを「不生不滅」と言っています。


私達衆生は、“此の物” を生きている、“此の物” の働きがなくなった様子を「死んだ」と言います。

“此の物” というものは、生きているということも、死ということも、【何も分からない】のです。

“此の物” は、見えること、考えていることに対して、【自分にそういう働きがあるということは何も知らない】のです。

これを「不識 (ふしき)」と言っています。


「無常」というのは、ものがあって、そういうものが生滅を繰り返し変化しているのだと、受け取られやすいものです。

“此の物” が縁に従って色々に変化していくから、悪いものが良くなり、良くなったら又悪くなるということを無常 (常で無い) と、感じられますが、そういうものではありません。

最初から中心になるものが無いのですから、【変化しているもの自体】のことを「無常」と言っているのです。
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乾坤只一人 (けんこん ただ ひとり)

2015年09月21日 | 語録
時間というものは、遠い昔も今も同じで 久遠 (くおん) ということです。

時間を超えた世界のことを「無辺」と言います。

一番の 本(もと) というのは、昔から毛筋ほども動いていないということです。

動いていないものが【大きな働き】です。


もし、少しでも動くものがあったら、それは「人の見解(けんげ)」が入っているということです。

別の言葉で言えば、「人の介在がある」と理解しないといけません。


そういう大きなものですから、「見性した」とか「悟りを開いた」というようなことの、収まる場所がないということです。

禅語で言えば、「乾坤只一人 (けんこん ただ ひとり)」ということです。

「天上天下唯我独尊 (てんじょう てんげ ゆいが どくそん)」も、これにあてはまります。


人間(にんげん) の体をご覧になって分かるように、六根(眼、耳、鼻、舌、心、意) というのは全部、「差別 (しゃべつ) のまま」なのです。

私達衆生は、あたかも一つのものが分かれているように思っていますが、そうではなくて全部一つ一つが【完全な働き】を持っています。

しかも、人の手を加えてそのようになったものではないという、こんなに素晴らしいものが人の体です。

ですから、自分自身を細かく分けていっても残るものはありません。

小さいものは、大きいものに、【一つになる】ということです。

一つほど【親しい】ものはありません。
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