活かして生きる ~放禅寺の寺便り~

娑婆世界を生きる智慧/おシャカ様・禅・坐禅・法理・道のこと

心を行願に用いず4

2019年04月30日 | 法理

「心を用いる」と苦労するのですけれども、人間(にんげん)の考え方を

それに加えていきさえしなければ苦労しようといっても苦労の成り立つ

もとは無いのです。


「認識(心の働き)」というものは、在りもしないものを「自分(心の方から)」

で考えたのです。


考えたら様々なことが次から次へと思えたのです。


そしてそれを集めて比較するものですから何処へ手を付けてよいのか結局

分からなくなるのです。


心を行願に用いず3

2019年04月29日 | 法理

「執着するな」とよくいわれますが、執着出来ないように本来「此の物」は

出来ているのです。


物の為に「此の物」は縛られるということがないように出来ているのです。


「此の物」にそのことを教わっていくことが「行願を用いる」ということ

なのです。


私たち衆生は「此の物それ自体」が「仏」で有(在)ることを知(識)らずに

「私、私のもの」と只間違って思い込んでいただけなのです。


それですから、思い込みの間違いさえ改めればよいのです。


此の物の有り様に任せてそのまま行ずればよいのです。

他に私たち衆生の行き場はないのです。


心を行願に用いず2

2019年04月28日 | 法理

「知(識)らずに出来た」ということは「法の作用」としてできたのです。


法の作用として出来たのですから、私たち衆生は内も外もなく一つに成って

「動く(働く)」のは当たり前なのです。


それですから「眼」は見ようとも見まいとも、そんな事に関係なく何でも

見えながら何にも残さず綺麗さっぱりしているのです。


それが「法の姿」なのです。




心を行願に用いず1

2019年04月27日 | 法理

親鸞聖人のお示しに「心を行願(ぎょうがん)に用いず」という一節が

あります。


このことは「自力(じりき)の心」を捨てなさいということです。

そうしなければ「阿弥陀様の世界」には行かれませんよ、ということ

なのです。


「行願を用いる」とは「此の物」に任せるのです。

「此の物に任せる」とは、「六根(眼・耳・鼻・舌・身・意)」に対して

「六境(色、声”しょう”、香、味、触”そく”、法)がみな、それぞれの

働きをするようにできているのです。


これは作り事ではありません。

六根が知(識)らずに出来た時、六境がちゃんと出来上がっていたのです。


それですから「環境」も知(識)らずに出来たのです。


白紙の状態2

2019年04月26日 | 法理

「白紙の状態」とは今の自分のことです。


ですから「なるほど、このことか」ということをうなずきさえすれば

いいわけなのです。


ですから、誰でもそういう「結果」に住することが出来るということです。


「今の状態(今の事実)」に一切手を付けず、ものの力を借りず「じっと今の状態

(今の事実)」に成り切っている、そういう人を「有力(うりき)の大人(たいにん)」

といいます。



白紙の状態1

2019年04月25日 | 法理

今の状態は「すべてのものがきれいになくなっている状態」です。


ですから坐禅というのはドンドン分かったものも分からないことも

放していく、悟りたいと思うことも放していく、いつでも「白紙の状態」

にして坐る、事に当たるという、そういうことが必要です。


これから修行して苦労して使うものであったならば、どんなに苦労しても

そういうことが掴めるかつかめないか判らないということがあります。


しかし、そういうものではありません。


心意識3

2019年04月24日 | 法理

私たち衆生はこの必然な心の働きというものを「私という自我心」が

中心になってそれに誤魔化されているのです。


私たち衆生はそういうような状態におかれていますので、それで「心意識」

という今の働きをいったん「心意識それ自身」にまかせておく必要がある

のです。



心意識それ自体を自分で取り扱うことをやめて、一切心意識の動くままに

捨てておくのです。


それを道元禅師は「心意識の運転を停めよ」といっているのです。


心意識2

2019年04月23日 | 法理

そしてついには善いとか悪いとかといって執着を起こすのです。


そういう風に第八とか第七とか、第六とかと仏法においては「心」を

いくつも説きますが、「心意識」が賊の親玉なのです。


これから身を害し、国を亡ぼすのです。


「心意識」を認めれば「阿頼耶識(あらやしき)」の暗窟となり、認め

なければ「塊」はありません。


ですから其の物に成って自己を忘れることです。


心意識1

2019年04月22日 | 法理

「法とは衆生の心なり」と起信論にあります。

心を指して「法」というのです。


「心」というのは意識作用の第八識です。

「意」というのは第七識、「識」というのは第六識を指しています。


「心」というのは今その処に見えた一番初めに起こるものをいいます。


唐紙なら唐紙の一寸見えたその時を「心」というのです。


その次に起こるのは彼の処に模様が描いてあるなと、こういう風に

物の考えが起きます。


それを「意」といいます。

その次に「識」でこれを了別します。


「了別」というのはよく考えることです。

あれは何のもようであるとかというように「差別(しゃべつ)」して深く

考えて「分別(ぶんべつ)」をすることです。


心縁の相2

2019年04月21日 | 法理

最後に我々は「坐禅」を進めなければなりません。

「坐禅」を取れば他に説明は要りません。


「坐禅は坐禅なり」です。

直ちに「一心」が証明されるのです。


一切、手の付かない仕事を為さっていることが分かります。

しかし、「手が付かない」というのは意識です。


今まで無意識に手を付けていたものを手が付かない」と離せば「離す」

という意識が有(在)ります。


それは「迷い」です。

元来もの其のものは「不即不離」のものです。