活かして生きる ~放禅寺の寺便り~

娑婆世界を生きる智慧/おシャカ様・禅・坐禅・法理・道のこと

新しい筋道5

2019年09月30日 | 法理

「水自体」は変化していることを知(識)りません。

水の性は絶対に変わりません。

 

しかし、水のままで色々な変化があるということです。

 

私たち衆生も「縁」に応じて様々な変化を繰り返しながら「氷が水になる」

ように精進していっていただきたいと思います。

 

必ず「氷」は溶けるものです。

それには「坐ること」です。

 

半畳の場所があれば坐れます。

しかも独りで坐れます。相手は要りません。

必ず坐れます。

 

そうすると「氷」が溶けて必ず「水」になる時節があります。

それを「悟り」というのです。


新しい筋道4

2019年09月29日 | 法理

凍っている自分を何によって溶かし、そして元のさらさらと流れる「水」

にすることが出来るのか。

 

これは「宗教の力」しかありません。

 

一度自分のものが凍ったわけですから、これは必ず溶けます。

溶けなければおかしいのです。

溶かさなければならないのです。


凍った「水」が溶けた状態、そしてさらさらと流れる状態を「悟り」と

いっているのです。

 

私たち衆生は、いつの間にか自分自身で本来のものである「水の性質」という

ものを、凍らせてしまっているのです。

 

ですが、それをどうにかして「水」の方法を教えてくれる宗教者がいなかったのです。

「実證する宗教」がなかったのです。


新しい筋道3

2019年09月28日 | 法理

「新しい筋道」とは、従来の人間(にんげん)の「尺度(物差し)をあてること」

を止める必要があるということです。

 

人間というのはいつまでたっても「既知の知」のなかでの繰り返しの生活

しかしていません。

 

どうしても世界には「新しい筋道」でなければならないという、そういうことに

私たち衆生は気が付かないといけません。

 

それには「問題意識」を持つことです。

狭い自分で物事を判断していては「新しい筋道」は生まれて来ないという事です。

 

そこで「新しい筋道を求める」には「宗教」というものが必要になって来る

のです。

 

私たち衆生は本来「水」のようなものです。

「縁」に応じてどのようにでも自由自在に変化していけるものですが、それが

凍っているのです。

 

だから融通がきかないのです。


新しい筋道2

2019年09月27日 | 法理

しばらくの間は「仏法(仏道)というおシャカ様の法」を借りて、「自分自身の法」

に目醒めるように務めていくのが仏道の修行というものです。

 

しかし、「仏法(仏道)の中で修行」していてもそれは駄目なのです。

 

私たち衆生が「仏法(仏道)の中」で分かったとか分からないとか法だとか

悟りだとかいってもそれは「仏法(仏道)の中」のことです。

 

決して自分自身のものにはなりません。

 

いかにしたら「今の自分のもの」に出来るかということが問題なのです。


新しい筋道1

2019年09月26日 | 法理

「法は自分の法」でなければなりません。


おシャカ様の体得された「法」をいつまでも学んでいてそれを「仏法(仏道)」

といって「おシャカ様の法(各々の宗派の教え)」しかないというような

狭い考え方、小さな考え方の時代はもう過ぎました。

 

これからは「おシャカ様の法」に因って、みんなが「自分自身の法に目醒める」

ということになっていかないと、これからの「新しい筋道」というものは

出て来ません。

 

私たち衆生は昔から一所懸命に考えて色々なものをつくって来ました。

 

しかし、現在何が解決したかというと、なんにも解決したものはありません。

 

そこでようやく「これではいけない、新しい筋道を求めなければいけない」

というようなことから、いろんな方々が模索しています。

 

それを「これからは、こういうものが世界をまとめていくものでなければ

ならない」というのが所謂「法」というものです。


結論とは(仏教の提示)2

2019年09月25日 | 法理

仏教では「結論としての土台」があってはいけないと説いているのです。

 

先ず「結論」として例えば「苦集滅道」というものを「提示」しておいて

そしてこの「結論としての土台」を取り除いてあげるのです。

 

道元禅師のお示しでは「仏道をならうというは、自己をならうなり 自己を

ならうというは、自己を忘るるなり」ということです。

 

別の言葉で言えば「仏道をならうというは 結論をならうなり 結論をならう

というは、結論を忘るるなり」ということです。

 

何故取り除く必要があるのかというと「土台を取り除かないと元(根)が残る」

からです。

 

「土台」というのは、「ひとつの立場」です。

 

「最初から立場というものがあってはいけないんだ(立場というものを執って

はいけないんだ)」ということが仏教の教えなのです。


結論とは(科学の土台)1

2019年09月24日 | 法理

「結論」とは、広辞苑①に拠ると「結局の議論 考えたり議論したりした末に

下される判断や意見」と記されています。

 

「結論」はいくら考えても「人の考えの範囲」を出ることはありません。

 

私たち衆生は昔から考えて来たところの人間(にんげん)の知恵の中であたかも

新しいことが発見されたような歴史を繰り返して現代に立脚しています。

 

「科学の分野」においても「無常だ」「無始無終だ」「いつまでも ものは

移り変わっているのだ」と説かれておりますけれどもそれは「結論」です。

 

所謂「学問」というのは「結論を土台」として積み重ねていっているわけです。

ですから「結論がある」ということです。

 

そういうものが「科学の土台」になっています。


人類の究極の課題5

2019年09月23日 | 法理

おシャカ様は「人類の究極の課題(無明の煩悩の源)」に目醒められたのです。

 

この「一大課題」が過去の人々から取り持たせる重大課題であったことに

気が付かれたのです。

 

ここにおいておシャカ様は従来一般に人間(にんげん)修行の「道」と思われた

「苦行(くぎょう)の道」を捨て、健康の回復を計り、尼蓮禅河(にれんぜんが)

において自分が正しい解脱を得ることが出来なければ「この坐」を立たない

という固い決心の元(今でいう菩提心)で坐られたのです。(今でいう坐禅)

 

「出山の釈迦」の図は身も心もボロボロになった様子が描かれています。


人類の究極の課題4

2019年09月22日 | 法理

「人類の究極の課題」を解明しようとして、おシャカ様は「出家」された

のではないでしょうか。

 

おシャカ様は当初は人間的な生活の凡てを尽くして、訓練修行されたのです。

しかし、「無条件で満足できる道」が得られず失望されたのです。

 

その結果おシャカ様はさらに「自分自身が自らの真相を省みられた」のです。

(今で言えば問題意識を持たれたのです)。

 

そして今日までの問題は凡そ「認識自体が認識上に在って認識自体の自在なる

活動(働き)のために、惑わされてそこから一歩も出ることがなかったこと

気付かれたのです。

 

別の言葉で言えば従来の私たち衆生は「識が錯覚(本来自分のないことを

在ると認めること)による誤りを誤りと知(識)らなかったのです。

 

今日の私たち衆生もまた、この誤りを知(識)らずに識に惑わされているのです。

この発見こそ、おシャカ様の偉大なる前人未到の田地であり「人類の究極の

課題」である「無明の煩悩の源」を発見するキーポイントだったのです。


人類の究極の課題3

2019年09月21日 | 法理
仏教では「人類の究極の課題」である、この疑問の起こる源を「無明の煩悩」
 
と説いているのです。
 
 
この「無明の煩悩」が滅しない限り、人間(にんげん)の苦悩を完全に救うことは

出来ないのです。
 
 
たとえたくさんの人が研究を重ねて仏教に同一な結論に達し、各自が理論的に
 
決定しても、彼等自身が「真理」はこれでよいのかと自問自答する時、真面目な
 
正直な考えを持つ人であればあるほどますます疑問が起き、自分自らが迷うのが
 
落ちつくところではないでしょうか。
 
 
このように考えてみればみるほどに、人間は迷いに迷いを重ねて浮かぶ瀬もなき
 
哀れなるものとなります。
 
 
これが人間を苦しめ悩ます処の「無明の煩悩」なのです。