活かして生きる ~放禅寺の寺便り~

娑婆世界を生きる智慧/おシャカ様・禅・坐禅・法理・道のこと

因縁・縁起説について1

2019年12月12日 | 法理

「因縁・縁起説」とは、ものの有(在)ることを説明したものではありません。

「もともとものの認めようがないこと」を説明したものです。

 

もともと「私」という存在は有(在)りません。

あるときから「私」を認めたのです。

 

これを「自我」といいます。

 

「自我」というものだけが「生死」を繰り返しているのです。

 

ですから、「自我の正体」さえ自分ではっきり見極めることが出来れば

「生死」を超越したところで、私たちは「今」、日常生活を営んでいると

確信出来ると思います。

 

「覚者のいう自己」というのは、中心のない、何処にもつかみ所の無いそういう

「自己」のことです。

 

 

 

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「縁」について2

2019年12月11日 | 法理

おシャカ様はご自身が非常にご苦労をなさったものですから、後進の「法(道)」を

求める私たち衆生のためにいろいろ方便を巡らして経典を残しておいて下さったのです。

 

「こういう道さえ間違えなく一歩一歩確実に歩いて行きさえすれば必ず道に

到達しますよ」ということです。

 

おシャカ様だけではありません。

 

歴代の覚者といわれる方々は、私たち衆生にあまり苦労をかけないように、この道が

分かるようにと、いろいろ方便をお示しになったのです。

 

しかし、私たち衆生が「私」というものを差し挟んで読んだり聞いたり修行する

ものですから「縁」に突き当たったとしてもそのことが自分のものにならない

というもどかしさが有(在)る訳です。

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「縁」について1

2019年12月10日 | 法理

「仏教の言葉なり、あるいは色々な教典に書かれていることを知(識)らなければ

とても解脱など出来ないだろう」というふうに考える方が居るかもしれません。

 

しかし、おシャカ様は「星」を見られて身心脱落されました。

石が竹に当たった「その音」を聞いて脱落された方もいます。

 

決して仏教の経典の一字一句をよく理解して、そうして悟られたのではない

と思います。

 

みんな、「縁」に因って脱落しておられるわけです。

ですから、仏教の言葉というものを知らない人でも「正しい修行」をしさえすれば

「縁」に当たって必ずそういう解脱があるということです。

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個について3

2019年12月09日 | 法理

ものの本体本質というものは、「時間的”差別(しゃべつ)」に於いても、

「空間的(平等)」に於いても同一のものです。

 

そして「因縁果の法則」に従っていろいろ「差別(しゃべつ)の相(すがた)」が

出て来ているのです。

 

「末法」に入り何時の間にか知らず識らずのうちに「差別(しゃべつ)」の語が消え、

「差別(さべつ)」の語が世の中を席巻するようになってしまいました。

 

今一度「差別(しゃべつ)の意味」を理解してもらいたいものです。

 

「世の中”人間(じんかん)”は平等界という絶対の真理の世界と、差別界(しゃべつかい) 

という現象世界」で成り立っていることを再確認する必要があるのではないでしょうか。

 

「温故知新」から「知故建新(故きを知って新しきを建てる)」へ。

 

 

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個について2

2019年12月08日 | 法理

「活かして生きる道」というのは「今の世界、今の事実、差別(しゃべつ)のまま、

そのまま」ということです。

 

本当に「個、差別(しゃべつ)」に徹しさえすれば、「個もなければ差別(しゃべつ)

もなければ全体もない」ことが分かります。

 

「差異を差別(さべつ)に変えるのは人なり」と言語学者の田中克彦氏は述べて

おります。

 

「差別(しゃべつ)を差別(さべつ)に変える(変えた)のは人なり」と私は思います。

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個について1

2019年12月07日 | 法理

欧米の個人主義の社会では「個」が尊重されています。

 

この「個」というのは仏教でいう「差別(しゃべつ)」ということです。

「差別(さべつ)の裏」には必ず「平等」ということがなければなりません。

 

「真の平等」とは「個に成り切った時、差別(しゃべつ)に成り切った時」を

いいます。

 

これを「そのまま」ともいいます。

 

「そのまま」とは「只(ただ)」という言葉で表現しています。

 

これは「個に成り切った時、差別(しゃべつ)に成り切った時」のことを

いっています。

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自由な生活2

2019年12月06日 | 法理

ところが何時の間にか知らず識らずに「自分自身」でないものを認めて

「これは私の考えですが・・・・」というようなことをいって、こんなに

自由に「無いものの中で様々な生活」をしているのに、わざわざ「我」を

拵えて狭い処で生活をしているのが今の私たち衆生の現状ではないでしょうか。

 

ですから、私たち衆生は「もともと無いものの中で生活している」ことを

はっきり認識しなければなりません。

 

「もともと無い」ということに気が付くということです。

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自由な生活1

2019年12月05日 | 法理

私たち衆生は「六根(眼・耳・鼻・舌・身・意)」の存在を意識しないで

「自由な生活」が出来ています。

 

即ち六根を意識しなくても、話が出来、ものが見え、音が聞こえ、匂いが嗅げ、

歩くことが出来、ものを掴むことが出来ます。

 

みんな無いものの中で「自由な生活」をしています。

「般若心経」にいわれている「無の中での様々な生活」ということです。

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純粋な働き5

2019年12月04日 | 法理

ですから、こちらがきちんと解決さえすれば世の中はすべて平和になるのです。

「どんな状態であっても無条件にそのまま納得出来る」ということです。

 

私たち衆生の体もひとつひとつの機能がいつでもどこでも何をしていても

それぞれの機能のままに働いているから迷わずに済んでいる訳です。

 

問題は、私たち衆生は本来は「我見」というものでものを見ている訳では

ありません。

 

けれども、私たち衆生はどうしてもひとつひとつの働きを「自分の都合の善い方向」

に持って行こうとするものですから、葛藤が起きるのです。

 

それだけのことです。

 

「本来は手の付けようがないものである」ということを分かってもらいたい

ところです。

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純粋な働き4

2019年12月03日 | 法理

そこで指導者は「それぞれの働きのままにしておく指導」をしている訳です。

 

自分の取り計らいさえ用いなければ、きれいなものも汚いものも、見たいものも

見たくないと思うものでもきちんと「眼」に映しているではありませんか。

 

それほどに「因縁生」はそのままの無自性なもの同士ですから遮るものが

有(在)りません。

 

遮るものは「私」の都合に因って本来の機能を失わせているだけなのです。

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