活かして生きる ~放禅寺の寺便り~

娑婆世界を生きる智慧/おシャカ様・禅・坐禅・法理・道のこと

白紙の状態2

2019年04月26日 | 法理

「白紙の状態」とは今の自分のことです。


ですから「なるほど、このことか」ということをうなずきさえすれば

いいわけなのです。


ですから、誰でもそういう「結果」に住することが出来るということです。


「今の状態(今の事実)」に一切手を付けず、ものの力を借りず「じっと今の状態

(今の事実)」に成り切っている、そういう人を「有力(うりき)の大人(たいにん)」

といいます。


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白紙の状態1

2019年04月25日 | 法理

今の状態は「すべてのものがきれいになくなっている状態」です。


ですから坐禅というのはドンドン分かったものも分からないことも

放していく、悟りたいと思うことも放していく、いつでも「白紙の状態」

にして坐る、事に当たるという、そういうことが必要です。


これから修行して苦労して使うものであったならば、どんなに苦労しても

そういうことが掴めるかつかめないか判らないということがあります。


しかし、そういうものではありません。

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心意識3

2019年04月24日 | 法理

私たち衆生はこの必然な心の働きというものを「私という自我心」が

中心になってそれに誤魔化されているのです。


私たち衆生はそういうような状態におかれていますので、それで「心意識」

という今の働きをいったん「心意識それ自身」にまかせておく必要がある

のです。



心意識それ自体を自分で取り扱うことをやめて、一切心意識の動くままに

捨てておくのです。


それを道元禅師は「心意識の運転を停めよ」といっているのです。

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心意識2

2019年04月23日 | 法理

そしてついには善いとか悪いとかといって執着を起こすのです。


そういう風に第八とか第七とか、第六とかと仏法においては「心」を

いくつも説きますが、「心意識」が賊の親玉なのです。


これから身を害し、国を亡ぼすのです。


「心意識」を認めれば「阿頼耶識(あらやしき)」の暗窟となり、認め

なければ「塊」はありません。


ですから其の物に成って自己を忘れることです。

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心意識1

2019年04月22日 | 法理

「法とは衆生の心なり」と起信論にあります。

心を指して「法」というのです。


「心」というのは意識作用の第八識です。

「意」というのは第七識、「識」というのは第六識を指しています。


「心」というのは今その処に見えた一番初めに起こるものをいいます。


唐紙なら唐紙の一寸見えたその時を「心」というのです。


その次に起こるのは彼の処に模様が描いてあるなと、こういう風に

物の考えが起きます。


それを「意」といいます。

その次に「識」でこれを了別します。


「了別」というのはよく考えることです。

あれは何のもようであるとかというように「差別(しゃべつ)」して深く

考えて「分別(ぶんべつ)」をすることです。

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心縁の相2

2019年04月21日 | 法理

最後に我々は「坐禅」を進めなければなりません。

「坐禅」を取れば他に説明は要りません。


「坐禅は坐禅なり」です。

直ちに「一心」が証明されるのです。


一切、手の付かない仕事を為さっていることが分かります。

しかし、「手が付かない」というのは意識です。


今まで無意識に手を付けていたものを手が付かない」と離せば「離す」

という意識が有(在)ります。


それは「迷い」です。

元来もの其のものは「不即不離」のものです。

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心縁の相1

2019年04月20日 | 法理

「もの其のもの」は思っても及ばないものです。

只(唯)その働く力を見出せばよいのです。

何も説明は要りません。


「心」でないものはないのですから「其のものが心の證明に成っている」

のです。


「心縁の相」というとき、心の相手というものは無いのです。

皆「心」なのです。


向こうの縁も相手もみな「心」なのです。

「心の外」に別の姿が有(在)るのではありません。


即ち「心の姿」が別に有(在)るものでは無いのです。


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物其の物

2019年04月19日 | 法理

「物其の物」は手の付けようがないように出来ているのです。

一杯一杯のものなのです。


言うことも思うことも熱いというも、これが熱くならないのです。

嬉しいと思っても、悲しいものが嬉しくはならないのです。


「そのまま」と言っても、早自己の分別になり二つになります。

「そのものの実相」に遠ざかることになるのです。


各々(おのおの)分に応じて只働くのが一番です。

只働くところの価値が「心経の結果」です。

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一心 2

2019年04月18日 | 般若心経

それでは我々は迷っているのです。

行かんとすれば即ち行き、坐せんとすれば即ち坐するではありませんか。

 

衆生そのままと見れば衆生という邪見があるのです。

要するに「名」は便宜上つけたばかりで「名」というものは、ものにはないのです。

 

「難波の芦は伊勢の浜荻」

伊勢の浜荻は難波の芦という役で、芦そのものに「名」はないのです。

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一心 1

2019年04月17日 | 般若心経

凡て「見」ということは、その物と二つになります。

一心なれば見るものと見られるものがないのです。

 

常に変化して止まないところに一心の妙味があります。

「常見」の起こされない処です。

 

変化しつつ、心はいつも変わらないものなのです。

何もないものと見れば「断見」、仏を見れば「仏見」となります。

 

「見」は迷いなのです。「邪見」なのです。

「仏」というのは「ほどける」ということです。

 

あなた方は何ものか。

そこに悟れるものがあれば「自然(じねん)」にほどけるのですが、悟る

ものがなければそれは「仏」ではありません。

 

ただ名をつける「仏」というのは「邪見」です。「仏見」です。

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