活かして生きる ~放禅寺の寺便り~

娑婆世界を生きる智慧/おシャカ様・禅・坐禅・法理・道のこと

先祖供養1

2024年10月23日 | 法理

「先祖」が在って「此の物」が存在しているという事が自分で感じられていれば、「先祖」に対する恩に報いるということは「此の物」の責任です。

 

「先祖供養」はしっかりやるべきなのです。

 

やれば自分で気が済むし、やはり気が気ではないのですから「供養する事自体」が向こうも養うけれども、自分もそれで養われるのです。

 

「近親の者」であれば必ず身内は善くあってほしいと願うものです。

 

自分に対しても先祖に対しても、そういう願いは在るものです。

 

その願いを適えるところに「供養」という事が在るのです。

 

線香一本立てるのも「供養」なのです。

 

それはどういう事かというと、「供養」は供え養うと在るように、その線香一本立てた香り、その物に感応(かんのう)するという事が在るのです。

 

善い香りの線香だと、善い香りに因って気持ちが和やかになるという事が在るのです。

 

それに感応するという事が在るのです。

 

自分が感応すると同じように全てのものが感応するのです。

 

死んだら感応しないと全ての人が考えがちですが、ところがそうではないのです。


事実のままに2

2024年10月17日 | 法理

「波その物」に成れば「波その物」自体は自分が動いているという事には、自分自身は気が付きません。

 

ですから、自分が波に成ってみる必要が在るのです。

 

波に成れば彼岸(彼の岸)というようなものは在りません。

 

自分が如何に波に成り切るのかという事です。

 

それが「その物の事実」という事です。

 

決して自分自身の心を費やして「波」を抑えようと思ってはいけません。

 

そこに多少の時間というものが必要ではありますが、そうでなければ「絶対の安心(あんじん)」というものは在りません。

 

私たち衆生の「今の状態」というのは、みんな「自分の事実の上」に立っているではありませんか。

 

「その事実を事実のままに、静かに自分のものにする」という、そういう「修行」がなって来るのです。


事実のままに1

2024年10月15日 | 法理

日本には春と秋に彼岸というものがあります。

 

こちら側の岸(此岸 しがん)と相手側の岸が在ります。

それを「彼岸(ひがん)」といっています。

 

ですから、彼岸に到るには修行が要ります。

 

彼の岸(彼岸)と此方側の岸(此岸)の間が非常に波立っているとします。

 

丁度私たち衆生の感情と同じです。

 

波立っている時は波の間には岸は在りません。

「波」という事実だけが在る訳です。

 

私たち衆生が不安とか焦りとかいう、そういう事実が「波」に成って在るという事です。

 

「彼の岸(彼岸)」を求めるからますます悩みが深くなるのです。

 

そうすると、何処に目的をおいて(目的を持って)修行したらいいのかという事が問題になってくるのです。

 

そこで指導者は「波になりなさい」というのです。

 

「波そのもの(いわゆる不安とか焦りとか)に成って下さい」というのです。


作られた自分、本来の自分

2024年10月13日 | 法理

私たち衆生は、母親の胎内から月満ちて外へ出て来ますが、自分では誕生したということは絶対に知(識)りません。

 

それが成長するに従って名前が付けられ、他の人の働きかけに因って教えられて「此の物」を自分だと思い込んでしまっているのです。

 

そういう所から、「作られた自分」と「本来の自分」という二人に成ってしまうので善いとか悪いという考えが起きるのは「二人の自分」が有(在)る為に物事が二つに見えて来るということなのです。

 

自分自身というものは、自分で考えても考えなくても、本当に何時でも何処でも何をしていても、分からないものは分からないままで了り、半分分かったものは半分のままで了り、というぐらいに「全てのものはそれで解決している」のです。


宗教本来の使命

2024年10月11日 | 法理

「法則」というのは、塩は辛い、砂糖は甘い、火は熱い、水は冷たい等々、欧米でも日本でも全く同じです。

 

人間がこの宇宙に発生して以来、「人間同士の約束事」として普遍的に通用しているものです。

 

しかし、「仏教でいう所の法則」とは、そこをもうひとつ突っ込んで「なぜ砂糖は甘いのか、なぜ塩は辛いのか」という所を問題にします。

 

「宗教」というのは本来神仏その他諸々の対象を「礼拝(仏教では ”らいはい ”と読みます)供養」し、自分が神仏に帰依することです。

 

これももちろん大事なことですけれども「礼拝する神様仏様の対象を通じて、徹底して全ての物の本質を追求し、極めていく」ということが「宗教本来の使命」でなければなりません。


宗教について6

2024年10月01日 | 法理

おシャカ様は何物も何人も元来「実相そのもの」であることを「自覚」なされたのです。

 

「実相その物が、その物を証明する処」に「真の救い」が有(在)るのです。

 

この「不動なる教え、即ち自らが自らを救う」という至極明確な最終の教えを「真の宗教」というべきではないでしょうか。

 

現今では「真の宗教、真の救い」は「人の考えや学問の研究では、手の届く処のものではない」ということから判断としない有様です。

 

しかし、おシャカ様の教えは、知識人が確かに頷き得る教えではないでしょうか。

 

それ故に世界の多くの知識人の間には「法(禅)」が広がりつつあると私は思っています。


宗教について5

2024年09月29日 | 法理

おシャカ様もかつてはこれ等の教えに従って修行されたのです。

 

しかしながら、これでは満足出来なかったのです。

 

それで最終的に人生に於ける苦の根源である「心(意識)を離れた事実(今の事実)」の有(在)ることを知(識)られ、ついに「心(意識)」を捨て去ることに徹底されたのです。

 

それで「心(意識)以前・今の事実の実相自体」が「実相」を「自覚」し始めて苦悩の根源を知(識)られたのです。

 

これにより「始めより苦悩の無い自性の真相」を得られて、初めて理想としていた "事実(今の事実)”に徹し、満足が得られたのです。

 

これが「真の救い」です。


宗教について4

2024年09月27日 | 法理

「この救い」は皆自分の「理想とする考えの所産」であり、「此の物の心(意識)の作用」なのです。

 

「思い違い」なのです。

 

つまり「AからBへ」との考え方の移行にすぎないのです。

 

これが一般に言われている「宗教」なのです。

 

「神」といっても「迷い人」といっても「心(意識)のまがい物」なのです。


宗教について3

2024年09月25日 | 法理

元来、「宗教」は研究ではなく「修行」です。

 

「修業」ではありません。

 

「習学」ではなく「絶学」です。

 

「修行」とは「事実(今の事実)」に気付くことです。

 

一般にいわれている「宗教」とは人間の一切の苦悩を救う為に造られた「人造の教え」です。

 

人間は「考える動物」といわれている様に、種々のことを考えます。

 

この考えは考えを生み、限りなく考えられて、その留まる処を知(識)らないものです。

 

この考え方が最終的には無限の力を感じ、この力に依存し「超人」に救いを求めるのです。

 

ここに於いて「救いとしての神」を理想し、現在の日常生活の苦悩を知(識)り、この耐えられない「苦悩」から逃れたい欲求に「拘束」されてしまうのです。

 

先に理想とした「救い主(神)」に如何することも出来ない「苦悩」を托して「救い主(神)」に平伏するのです。

 

「この時、この思い(想い)」の静まる(鎮まる)処に於いて暫く「苦を忘れる事」が出来るので、これを多くの人は「救い」と思うのです。

 

これは「錯覚」なのです。


宗教について2

2024年09月23日 | 法理

私たち衆生も「宗教の核心」に触れたい気持ちを持ちながらも、「人類の救い、民衆の救い」といって「社会事業の救済」に走るのが実状ではないでしょうか。

 

これらの「社会事業的救いなるもの」は、誰でも「志」さえあれば出来ることだと思います。

 

これらは「宗教者」の為すべき分野ではありません。

 

今日のように各方面において社会人は優れた知能を持ち、未だかつて考えも及ばないほどの偉大なる諸般の発展を遂げ、我ら始め、一般はその恩恵に浴しています。

 

それでは「宗教者」は一体何を為すべきなのか、大いに考えなければならない「一大事」なのです。