仏教では「病気」のことを「四大不調(しだいふちょう)」といいます。
人間だけが「執着」に因って自分でバランスを崩して自分で悩まなければならないのです。
「縁」に因って或る時はうれしくなり、また或る時は悲しくなったりするのもみんな自分でそういう状態をつくっているのです。
仏教では「病気」のことを「四大不調(しだいふちょう)」といいます。
人間だけが「執着」に因って自分でバランスを崩して自分で悩まなければならないのです。
「縁」に因って或る時はうれしくなり、また或る時は悲しくなったりするのもみんな自分でそういう状態をつくっているのです。
私たち衆生は、母親のお腹の内にいる時から生きる為に「執着」が在り、誕生してからもその「執着」はずっと続きます。
この「執着」は他の動物にも在りますが非常に薄いと思います。
「人の執着」というものは、離れにくく取れにくいものです。
そういう「執着」を持った「動物(生物)」である人間(にんげん)が色々な縁に因って「四大(地水火風)」のバランスを崩した状態を「病気」といっています。
「自分の修行の結果として今そう在る訳」ですから、その「結果」が満足できるもので無いのでしたらそれは考えてみれば「執着が足らない」という事です。
仏教では忌み嫌われている「執着」という言葉ですが、「執着が足らない」と言えば「執着を離れる為に修行(坐禅)をしているのに何故そんなに執着しなければならないのか」と言い出す人が在るかもしれません。
しかし「成り切る」という言葉を使って(それは執着と同じなのですが)「成り切りが足らない」と言われると「成り切るのか」というふうになります。
言葉の上では、「成り切る」は「執着」とは全く別の事のように取られがちです。
「成り切り様が足らない」という事は、同じ意味で「ものに食い付いていく、食い付いたら離さない」というそういう「執着心」が足らないという事なのです。
「原因と結果(因果)」は常に「因縁果」が一つに成って輪廻を繰り返しています。
輪廻の実体は何処にもありませんが「人の介在(我見)」が在る為に「因縁果」が別々に在ると思ってしまうのです。
この道理を体得した時、私たち衆生は、もともと迷いというものが無かった事に気付き、同時に取捨の念が止んで「求心(ぐしん)」が無くなります。
これが「安楽の法門」です。
複雑な人間関係に神経をすり減らしたり、心から安定したいと願った時、人は「安楽の法門」を求めるのではないでしょうか。
そして不安に気が付いた時、それが「坐禅の始まり」です。
「禅は仏性そのものだ」と言われています。
仏法の「法」の字は「水が流れ去る」と書きます。
高い所から低い所に水が流れるように、人の計らいの入る余地の無い自然(じねん)の理(ことわり)や真実に気付く事、これが「禅」の全てであり、この「安楽の法門」を自分のものとするための一番の近道が「坐禅」なのです。
ですから道元禅師は「禅」を「安楽の法門」とおっしゃっているのです。
「何処かに自分の坐禅に無理が在るのではないか」という事に気が付いて頂かなければならないはずなのです。
ですから「安楽の法門なり」と言われているのならば、自分で自ら「安楽の法門に成るような坐禅をしていかなければならない訳」です。
「自分で自分の考えた坐禅をしてはいけない」ということです。
「普勧坐禅儀(ふかんざぜんぎ)」に「坐禅は安楽の法門なり」というお示しが在ります。
しかし、坐っている人には大変なことです。
「安楽どころか苦しみが増すばかりだ」と言う人もいます。
そうすると道元禅師の教えと自分の現状とには大変な隔たりが在るということです。
その時はやはり道元禅師の教えに従って「安楽の法門」にならないといけないのです。
「思量」を止めればいいのです。
「非思量」です。
人間(にんげん)の元来の「思量」ではありません。
自分の考えではないのです。
「必然の事が必然に只(ただ)動いている」のです。
それを人間が「自分の都合の上から」色々問題にしたので「只(ただ)問題に成って来ただけ」のものです。
私たち衆生が何か心配するとします。
その心配する事が「思量」なのです。
それで出て来たものを心配しない時が「不思量」なのです。
それですから指導者は「ただ、そのままにしておきなさい」と言うのです。
思えたら思えたまま、思えてくるものが思えて来ただけなのです。
相手にすると人間(にんげん)的取り扱いとして「思量」になるのです。
「天然の動き」なのですから、「不思量」に違いないのです。
人間の考え方として動いているのではありません。
この「心の働き方」というものは、そういうものですから「心の働き方 其の物にまかせて一切お構いなし」にすれば宜しいのです。
元来そういうものです。