活かして生きる ~放禅寺の寺便り~

娑婆世界を生きる智慧/おシャカ様・禅・坐禅・法理・道のこと

真の解決

2018年12月19日 | 道のこと

「自分が自分を解決していくこと」が真の解決です。

別の言葉でいえば「問題の所在が解決の場所」とならなければなりません。


「自分を認める」ことによって問題が生じ、「自分を忘れる」ことによって一切が解決されるのです。


「自分が介在するか否か」で迷いと悟りの差が生じるのです。

言い換えれば、「自分を認めてその場にいるかいないか」で無明と解脱に分かれるのです。


ですから、「自己を忘じなければならない」というのは当然のことなのです。

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道について3

2018年12月18日 | 道のこと

全てをそのまま自分のものとして受け入れられるようになった人を

「道人(どうにん)、道の人」と称します。


聖典、仏典は事実を語っていません。

これらは「事実そのもの」ではなく、「薬の効能書き(事実の説明)」にすぎません。


どんな状態であっても「悪い道・間違った道」というものはありません。

何故ならば「すべてが道」だからです。


しかし、「道」はどこにでもあって、どこにでもないものです。

ですから、自分のものにしなければどうすることも出来ないのです。

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道について2

2018年12月17日 | 道のこと

「道」というものは「いつでも、どこでも、何をしていても事実としてある」

ということを承知していただきたく思います。


現実の自分の問題として取り組み、「問題意識そのもの」に成って生活して行くことが

必要なのです。


「道」には正しいものとか、正しくないものとか、があるはずがないのです。

「道」にそういう「有り形、在り方」のものはありません。


言い換えれば、自然(しぜん)」とか「天然」というようなものも、あるはずがないということです。


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道について1

2018年12月16日 | 道のこと

私たち衆生の今の様子を「道」といいます。

「今の様子」というと、「今の状態」だと認識するものがあると思いますが、そういうものではありません。


「今」と自分が「今」を認識した時、「今」は過去のものになってしまいます。

「認識を起こす以前の様子」というのは私たち衆生には必ずあるわけです。


何故ならば「道」はいつでも、自分が自分を認識する以前に「事実」としてあるからです。


このことを私はいつも「今の事実」と呼んでいます。

ですから、「今の事実」を素直にそのまま受け取ることです。

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生死とは3

2018年12月15日 | 法理

私たち衆生は始終年を取りつつあります。

年を取るという事の内容というのは、一つのものが二つに成ったのではありません。


その一つのものが変化しつつ行くのです。

そうしてみると形(かたち)というものは先ずないのです。


そこを道歌に「おもかげの  かはらでとしの  つもれかし  たとへ命に  かぎりあるとも」と。


人間(にんげん)の身体は一度に衰えるのではありません。

瞬間瞬間に変わっているのです。


「因縁の法」を知(識)れば年を取っても年は寄りません。

お年寄りに年を取ることが分かれば、お年寄りの世界です。


お年寄りも若い者に成ります。


誰もが年寄りに成るのですから、この「因縁の法」をよく知(識)っていれば「心」は

決して年寄りにならないと思います。

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生死とは2

2018年12月14日 | 法理

生まれるということは「生死」に関係なく「唯(ただ)生まれる」ということです。

それだけのことです。


生まれるといって生まれるのではないのです。

唯生まれるだけで生まれるという隙間がないのです。


「オギャアオギャア」というだけのことです。

然るに後より生まれたりと分別するのです。


死ぬことも同じです。

死ぬ時は死ぬといって死ぬ者はないのです。


人間(にんげん)は苦しむにつけ楽しむにつけ塊りを認めています。

「縁起」ということが分からないから救われないのです。


およそ宇宙にある一切のものは皆「縁起」から起こって来ているのです。

ですから、そのものに「我」はありません。


「思想」で形というものが出来ているのです。

始終移り変わっているのです。

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生死とは1

2018年12月13日 | 法理

本来、「生死(しょうじ)」が一つであれば「生死」とはいいません。

二つになるから「生死」なのです。


「生死」に実体がなければ「涅槃」なのです。

それをよく知(識)らなければなりません。


道歌に「田の草を取りてそのまま肥しかな」とありますが、この通りです。


自分の妄想、思想が「生死」を認めるのです。


「生死」は「因縁和合」で出来るのです。

例えば「い」のようなものです。

「い」の字は偏にもなく旁にもありません。


因縁の外に実体はないものです。

実体が有(在)ると思うのが「迷い」です。


「縁起」とは「空」です。

「空」とは絶大なものです。


「縁起」が分かれば煩悩はないのです。

何事も前世からの因縁であると「観念する、諦(明)らめる」のです。


思想というのは「妄想」です。

唯(ただ)「生死のまま」であればそれで善いのです。

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生と死

2018年12月12日 | 法理

現今では「脳死は人の死」と定義されています。

しかし、本来は「生と死」の境目はないものです。


生命には始めはないのです。

始めがないということは、終りもないということなのです。


生といい、死といい、それはそのものの変化の状態、移り変わりの状態ということです。


ですから、僧侶の世界では人の死のことを、「死」とは言わず「遷化(せんげ)」といいます。

遷化とは、詳しくは「遷移化滅(せんいけめつ)」の義なのです。

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生の法から死の法へ

2018年12月11日 | 法理

息を引き取るということは、「生(しょう)の法」から「死の法」に変わることです。


生(しょう)には「生の法」が、死には「死の法」があるだけです。

その間に人の考えは入りません。


生きている生きていないということではありません。


「今」呼吸をし、話をしているのは「生の法の中」です。

それが出来なくなって止んだ時が「死の法」なのです。


それほど人(ひと)というのはどこにもいないのです。


誰も生まれた時も、自分が生まれたということもわかりません。

誕生日も知(識)りません。


長ずるに従って様々な「人間(じんかん)」の教えや習慣や話に因って

自分に成っているわけです。


ですから他人から聞いたものばかりなので、どんなにしても自分と他人の

意見の間に色々な問題が生じて来ます。


「迷い」というものは、そういうものです。


迷いは「迷いの法」があり、悟りは「悟りの法」が有(在)る訳です。

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此の物2

2018年12月10日 | 法理

私たち衆生は、いつのまにか不知不識に「此の物を自分だと認識」してきました。


しかし「此の物」は自分ではありません。「衆生」なのです。

「衆生」とは「六道(りくどう)を輪廻する存在」なのです。


「此の物」は「象徴」に過ぎません。


そこで「此の物という象徴」と「本来の自己」との隔たりを失くさなければなりません。


問題は「すでに一体であり、一つのものであった」ということを「自覚」することです。


「私が目醒める」ということではありません。

「此の物が縁そのものに成る」ということです。


おシャカ様の最後の説法の一節に「仮に名付けて身と為す」という文言(もんごん)があります。

ですから、「此の物」を名付けて「此の身」と称するのです。



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