活かして生きる ~山里の寺便り~

娑婆世界を生きる智慧/おシャカ様・禅・坐禅・法理・道のこと

見を見る時6

2018-09-19 00:00:00 | 

「見も及ぶこと能わず」とは、只見る時、能見も所見も及ぶことは出来ない

ということです。


別の言葉で言えばそこには何物も入ることは出来ないということです。

ここが「萬事(ばんじ)を休息す」ということです。


相対二見(能見、所見)を放下(ほうげ)した、三昧の境界(きょうがい)にたとえることです。

見る時見る(物と性を認める)という時間のゆとりはあるのでしょうか。


「見る」といえば覚者は「頭上に頭を安ず」といいます。

「見る」というだけ分別がつけ加わるのです。汚れ、穢すのです。


ですから「見性」の容易ならざることを知(識)らなければなりません。

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見を見る時5

2018-09-18 00:00:00 | 

「見を見る時」とは、即ち「能見、所見(のうけん、しょけん)」ということです。


「能見」とは見の性(しょう)ということです。

「所見」とは見の物(もつ)ということです。

これは今は見る時の分析です。


「見 是れ見にあらず」とは「所見の物物(もつもつ)ではない」ということです。

物(もの)を認めれば見と性との交渉があることになります。


只見る時は見るばかりにして向こうに物(もの)はないのです。

物(もの)があっては見えないわけです。


何故ならば物(もの)に阻まれているわけですから、「諸縁を放捨す」とはここのことを

いうのです。


「見なお見を離る」とは、能見の性を離れるということです。


只見る時、性を認めることは出来ません。

性があっては見えないわけです。



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見を見る時4

2018-09-17 00:00:00 | 

又、「見るままに また 心なき身にしあれば 己れなりけり 森羅万象」と。

見るものの森羅万象です。


真とか妄とか、これは思惑の一つです。

それはただ比較の言葉です。


「自然(じねん)に物に非ず」というお言葉があります。

自然(じねん)は必然です。「そうでなければならない」のです。


「見性」というものは、向こうのものはなくて、ただ自己の自覚あるのみなのです。


このことを古人は「衆生 己れに迷って物を逐う」といっています。

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見を見る時3

2018-09-16 00:00:00 | 

道歌に「恋ひ恋ひて 一人寝る夜は二人寝て 霧はれてこそ 山はかくれめ」と。


仏法は恋です。

「二人」というのは向こうに「縁」があるのではありません。


一人寝るということは、二人寝ていることなのです。

一つ物(同じもの、同人物)です。


宇宙と我との関係も同じです。

宇宙と一人で寝ているのです。


「霧はれて(見性して)山の縁がなくなった」のです。

心の妄想が晴れて山は隠れてしまったということです。


「縁」が心と一つに成れば、「縁起の法門と一つに成る」のです。


天桂禅師曰く、「言ふ意は即今見の当体本より見を離れて見と云ふ名もつけ処なき、

これを及ふこと能はずと宣(のたま)ふなり、此の語も古今共に真見の妄見のと分けて

みる説あれども、それは皆、計較(けいかう)所見なり」と。


ここにおいてただ見るばかり」です。

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見を見る時2

2018-09-15 00:00:00 | 

見は向こうにもなく、こちらにもないのです。

見は向こうとこちらの張り合いで出来ているのです。


ですから、「ただ見ればよい」のです。

しかし、このお言葉は「覚者(結果に至った人)」の発したお言葉です。


「見性以外の宗旨」は「天然外道(てんねんげどう)」です。

「印可證明(いんかしょうみょう)」のない自信のない宣伝は迷信を招くに

過ぎません。ない方がましです。


「見性は明確なる証明(実証)ありて、師学ともに綿々として相続不断なり」です。


見る見ないは向こうになくて「此方の自覚」あることで、「自覚」すれば

「ただ見る」のみ「ただ見ざる」のみで、向こうに見るものもないしこちらに

見る自己もないのです。


そこが「見性の冷暖自知」です。

百錬精金の要するところです。


「桜には 何の言葉も なかりけり」。

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見を見る時1

2018-09-14 00:00:00 | 

「楞厳経(りょうごんきょう)」に「見(けん)を見る時、見是れ見にあらず

見なお離れ見も及ぶことあたわず」という一節があります。


「見性」はここにあるということをよく研究しなければなりません。


見る時見ようという「我」はありません。


善いものは善い、悪いものは悪い、です。

それは「見性成仏」の端的です。


「見(けん)」というのは向こうにあるものです。

「見よう」というのはこちらにあるのです。


「見縁(見るという縁)」とすればよく分かると思います。

向こうに「縁」があるのではないのです。


「見、是れ見にあらず」というのは「見、是れ見縁にあらず」ということです。

「見、なお見を離る」ということは「見なお見、縁を離る」ということです。


「見るという縁(見縁)」に離れているのです。

それではこちらに「見るという縁(見縁)」があるのかというと「見なお見を離る」

ということで、こちらにもないのです。

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坐禅は坐禅なり13

2018-09-13 00:00:00 | 坐禅

「坐禅は修證不二なり」と、最初から丸呑みをしてはいけません。

その間多少の距離と時間とを要することを忘れてはいけません。


そうしないと「空腹高心(くうふくこうじん)の病」に墜ちます。


指導者のもとで百錬千鍛を要することも忘れていけません。


しかし、坐禅は仏行ですから、「悟未悟」に拘わらず日常茶飯として

生より死に至るまで坐禅することを忘れてはいけないのです。


経に「法喜禅悦を食(じき)となす」というお示しがあります。

「食無くんば命無かるべし」です。


深く是れを思っていただきたいと思います。

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坐禅は坐禅なり12

2018-09-12 00:00:00 | 坐禅

坐禅は直に是れ身心脱落です。


道元禅師は中国に於いて「身心脱落の一声の下」に確かに身心脱落を

体得されました。


それが直に坐禅の力です。


「此の力に前後無し」というのは、理想の上から言っているのです。

事実境界(きょうがい)の上からは、その境界を体得しなければ「自らに許す」ことは

出来ないはずです。


「坐禅は坐禅なり」坐禅に師無し、坐禅の真師は坐禅なのです。

即ち「坐禅が坐禅を教えてくれる」のです。


坐禅は元より結果にして、手段・方法ではありません。

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坐禅は坐禅なり11

2018-09-11 00:00:00 | 坐禅

「坐る」ということは、言葉を変えていえば「懺悔(さんげ)し尽くされた状態」です。

更に別な言葉でいえば、「私の無くなった状態」なのです。


「私が何々をしたので懺悔をしなければならない」というものではありません。

だから「坐禅は坐禅なり」なのです。


「私」が坐禅をするのではありません。

「坐禅は坐禅なり」です。


何故ならば「坐禅は懺悔し尽くされた状態」だからです。

「私」というものの全く無い状態を、「坐禅は坐禅なり」というのです。

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坐禅は坐禅なり10

2018-09-10 00:00:00 | 坐禅

「私が坐禅をしている、私が仕事をしている」という、「法」と「人」というものが

二つに成らないように満身の坐禅、満身の仕事に成り切らなければならないのです。


坐禅というのは自分で行うより外にないのです。


それを、達磨大師は「諸仏の法印は人から得るものではない、自分でやりなさい」

とおっしゃっています。


ですから「法(道)」を求めることです。

「法(道)」というのは自分自身のことです。


「自分自身」というのは「法身(ほっしん)そのもの」です。

「法身」というのは無限であり、無辺のものです。それが自分の姿です。


しかし、「人、私、法、道」というものを認めるが為に、こんな大きなものである

ということに気が付かないのです。

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