活かして生きる ~山里の寺便り~

娑婆世界を生きる智慧/おシャカ様・禅・坐禅・法理・道のこと

無所悟無所得の修行3

2018-06-25 00:00:00 | 

究極を唱える人が分かっていて、「無所悟無所得の修行」を唱えれば

衆生教化には役立ちます。


もし、究極がわかっていなくて「無所悟無所得の修行」を唱えたら

一体どうなるのでしょうか。


究極が分かっていて「無所悟無所得、手段、方法、方便」を唱えるというならば

「起承転結」がはっきりしています。


しかし、究極が分からなくて「方便、方法、手段」を唱えても「究極(本当の処)」

に私たち衆生を連れて行ってあげることは出来ないと思います。


これは大きな間違いで「毫釐(ごうり)も差(しゃ)あれば天地懸(はるか)に隔(ヘだた)る」

ということにもなりかねないということです。

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無所悟無所得の修行2

2018-06-24 00:00:00 | 

「結果」からいえば確かにその通りで不要のことです。


不要なことではありますけれども、「不要だということ」を本当に

自分のものにするには「坐禅」を修して「確証(実証)を得る必要」があるのです。


そして、その「結果」というのは、「無所悟無所得の道」にかなうものになる

訳です。


別の言い方をすれば、何かの手段や方法を弄して、分からないことが分かった

ということは間違いです。


しかし分からないことを、分からないことと分かった時、それが本当に分かった

ということです。


おシャカ様や歴代の覚者といわれる方々は色々な方便や手段や方法を使われて、

一生涯私たち衆生のために自らは犠牲となられて「衆生教化(しゅじょうきょうけ)」

に当たられたのです。

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無所悟無所得の修行1

2018-06-23 00:00:00 | 

「無所悟無所得の修行」とは、修行に悟るものや、得るものがあっては

ならないというお示しです。


「結果」から言えば確かにその通りです。


その通りですけれども、それには必ず「無所悟無所得の確証(実証)を

得る修行」がなくてはならないはずです。


そこで初めて一体何を掴んでいいのか、何を放さなくてはならないのか

ということが明確に分かる訳です。


ですから、それからでないと真の「無所悟無所得の修行」は出来る訳が

ないのです。


「祇(只)管打坐や公案功夫」をしなければならないということも

「無所悟無所得」から言えば本当は不要のことなのです。


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修行の様子について

2018-06-22 00:00:00 | 法理

「修行の様子」として「今、気が付きました」と言われる方が時々居られますが

それは、過ぎてしまったことを気が付いている訳です。


それから、「不安があるので安心したい」という人がおられます。

しかし、不安が無くなれば安心も無くなる」ということを知(識)らないといけません。


「片方の対象が無くなればもう片方の対象も無くならなければならない」ということは

当然のことなのですけれども、どうしても「安心だけを求める人」が多いと思います。


ですから、「悩みが有(在)るから悟りたい」といわれても、悩みが無くなれば

悟りも無くならなければいけない訳です。


「無くなった無くなった」ということで無いものを執拗につかんでいては

いけない訳です。


ですから、そういうふうにならないように注意して「サラサラ」と流れていって

欲しいと思います。

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如是の法6

2018-06-21 00:00:00 | 法理

「如是の法」というのは誰がつくったものでもありません。


自分という中心になるものが有(在)って、働かせているものが

別に有(在)るという考えに成り易いのが人の働きです。


「自然法爾(じねん ほうに)」というお言葉がありますが、もともと

「そういう働き(六根)だけが集まって今此処に在るということなのです。


そのことを禅語では「天真にして妙なり」といいます。

しかし、これは「体験の世界」ということではありません。


「天真にして妙なり」とは、人の知恵に因ってつくり出したものではない

ということを、よく知(識)って頂きたく思います。


別の言葉で言えば、「人間(にんげん)の認識する以前の森羅万象の様子」

をいっているのです。


即ち「今の事実」です。

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如是の法5

2018-06-20 00:00:00 | 法理

「心」を探しても有(在)るかと思えば無いし、無いかと思えばどうも有(在)る

ような気がするものです。


じつに「不思議」です。

しかも、「縁」に応じて様々な形が出来ます。

それが「心の正体」です。


別の言葉で言えば「自分の正体」です。

「眼・耳・鼻・舌・身・意」という六根の働きは、全部そういうものです。


間違えると、「初めから人(六根)の機能が有(在)るという考え方」

強く持っている人がいますが、「そういうことを認める自分が有(在)る」

ということに気が付いてもらわなければなりません。


別の言葉で言えばどうしても「人の働き(六根)というものが始めから

有(在)ると思ってしまう」という大きな間違いがあることに気が付いて

頂かないと「修行」にはなりません。

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如是の法4

2018-06-19 00:00:00 | 法理

ですから、「求心(ぐしん)〈求め心〉」を止めて結果を求めずに

修行(坐禅)をすることです。


具体的には親切に丁寧に真心を尽くして「只 修行(坐禅)を務める」ことです。


務めれば結果を求めなくてもそこに「現成(げんじょう)」するものです。


しかし、どうしても自分を運んで「修行(坐禅)をしよう」と思うから

隔てが出来る(生ずる)のです。

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如是の法3

2018-06-18 00:00:00 | 法理

「如是の法というものをあなたは、どのように受け取っていますか」

と問うと、多くの人は「チラッ」と自分を見るものです。


これを「法を見る」といいます。

このことを「検私(けんし)の病」といいます。


そうすると「色(いろ)」が付いてしまいます。

このことを禅語では「染汚(ぜんな)に属す」といいます。


そういう色付けをしてしまうと「本来本法性天然自性心(ほんらい

ほんぽっしょう てんねんじしょうしん)」を汚すことになるのです。


しかし、もともと「因縁生(いんねんしょう)」のものですから

「無自性(むじしょう)」です。


「無自性」とは、人をも含めて一切のものには自性(塊)が無いということです。


 

 

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如是の法2

2018-06-17 00:00:00 | 法理

「如是の法」をどのようにして自分のものにしたらよいのか、そこに

問題が至らなければなりません。


「大火聚(たいかじゅ)のごとし」というお言葉があります。

「火聚」とは、火の玉ということです。


ですから、火の玉に成って「修行(坐禅)」をしなさいということです。

私たち衆生は問題に対してどうにかしようという癖が付いています。


「意根(意識の根源)を坐断する」というお言葉がありますが、坐る一方で

焼き尽くしてしまわなければならないということです。


よく、指導者が「成り切って下さい」というのはそういうことです。

本当に成り切って成り切るものも、成り切れるものも無くなってしまわなければ

いけないのです。


ですから最初としては「成り切る」というスタートラインに立つことが必要なのです。

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如是の法1

2018-06-16 00:00:00 | 法理

「如是」とは「かくの如し」ということです。


「おシャカ様を始めとして歴代の覚者(仏祖)」は、「如是の法」とは

「私たち衆生の今の状態そのままだ」と仰っています。


別の言葉で言えば、すべての法を「如是(かくの如し)」と、ご説明なさったのです。


このことを受け取る私たち衆生としては、「如是の法」とはどういう「法」なのか

ということを自分の問題意識として取り上げて、自分自身で自分自身を見つめて

「如是の法(かくの如きの法)」であると「実証(理論においても事実においても

証明すること)」しなければなりません。



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