活かして生きる ~放禅寺の寺便り~

娑婆世界を生きる智慧/おシャカ様・禅・坐禅・法理・道のこと

活動

2021年04月21日 | 法理

「参同契(さんどうかい)」に「明暗各各(おのおの)相対(あいたい)して 比するに前後の歩(あゆみ)の如し」というお示しが在ります。

 

差別(しゃべつ)の上には直ぐ平等があり、平等の上には差別(しゃべつ)が在るのです。

 

このことを例えたお示しです。

 

前足と後足と歩みを分けますが、同じ一つの足です。

 

一つの体が前足と後足に分かれたのであって、体の上から言えば一つの足です。

 

ところが歩みは止まらないのです。

 

前足と思ったのが後足ではないですか。

 

活動は止まらないのです。

 

後足と思ったら前足に成っているのです。

 

それを明暗の常に相伴う事と形容したのです。

 

如何しても離すことは出来ない者(事)です。

 

進んで行くと、いわゆる、今の後足が前足に成り、前足が後足に成るのです。

 

前足と後足は離れてはいません。

 

何もかもその場、その場の「因果の法則」に因って進んでいるのです。

 

そして私たち衆生は「活動」する為に生まれて来ているのですから「活動さえすれば宜しい」のです。

 

「活動」は何でも宜しいのです。

 

只、自分に適した「活動」をすれば宜しいのです。

 

それを択(えら)ぶから「不幸」が起こるのです。

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身口意(しんくい)の坐禅2

2021年04月19日 | 坐禅

商売をしている方は「毎度有難うございます」と、挨拶されると思います。

 

このことが商売をしている方の「口の坐禅」です。

 

その他に「法も道も禅も」あるはずがありません。

 

それに成り切り成り切りしている訳です。

 

禅を知(識)らないひとでも、必ずそうなのです。

 

禅とか法とか、道とか功夫とか、そういう物を知(識)ると「そうしていることが禅なのだな」とか、「これで善いんだ」というようなものが必ず出て来て、「禅病に近い状態」になってしまうのです。

 

あるいは、三度の食事をすると思います、このことはみんな「口の坐禅」なのです。

 

一所懸命に口を開けて食事を頂くことは「食事三昧」に成っているはずです。

 

仕事をしていれば、その立場立場にあたって「ああしたらいいのか、こうしたら如何だろうか」と計画を巡らします。

 

「こころくばり」を漢字で書くと「心配」に成ります。

 

このことは全部「意の坐禅」です。

 

そうしてみると、行住坐臥 身口意の三業、煩悩と言われているものは全部「禅である」ということに成るのです。

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身口意(しんくい)の坐禅1

2021年04月17日 | 坐禅

坐禅と言うのは「行住坐臥(ぎょうじゅうざが)=私たち衆生の日々の生活そのもの」です。

 

平常心是道(へいじょうしんぜどう・びょうじょうしんぜどう)」であり、「身口意(しんくい)の三業(さんごう)」は即ち、「身と口と意(こころ)の煩悩」も坐禅なのです。

 

「菩薩は煩悩を以って悟りと為す、凡夫は悟りを因って煩悩と為す」というお言葉が在ります。

 

同じものですが「自分が空に成ってからと、空になる以前」というのは、それだけの相違が出て来るということです。

 

有名な趙州(じょうしゅう)禅師は、「昔は十二時(時間)に使われていたが実際自分が目醒めてみると、十二時を使うようになった」と語っています。

 

「身口意の坐禅」ですが、「身業、口業(くごう)、意業という三業』が在りますが、今こうして静かに心に起滅する物を一切相手にせず、邪魔にせずして坐っている様子が「身の坐禅」です。

 

作務(仕事)も身の坐禅です。

 

ただそれを禅と名付けないだけの話で、坐禅を知(識)らない人でも知(識)っている人でも、みんな坐禅を行じているのです。

 

知(識)らずに「禅の真っ只中に居る」という事です。

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天地一枚

2021年04月15日 | 法理

上を見てはいけません。

 

上を見ても上は無いのです。

 

下を見てはいけません。

 

下を見ても下は無いのです。

 

上も下も、皆、全自己の「有時(うじ)」なのです。

 

道元禅師は「有時」について、「時すでに これ 有(う)なり、有 みな時なり」とはっきりお示しになっておられます。

 

只、身の程を知(識)らなければなりません。

 

「人人(にんにん)の分上 豊かなり」です。

 

比較するから苦しむのです。

 

「天地一枚の者(事)」に比較の立て様が無いのです。

 

道歌に曰く、

「菰(こも)きても やつれがほなき 水仙花」

「うつむくは その掟なり 百合の花」

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果満円成

2021年04月13日 | 法理

どうしても私たち衆生は、「真の満足が得られないのだろうか」、と言ってそれを何時も思うものです。

 

「自己を認めた上から今の自分を眺めている」のでどうしても「真の満足」が得られないのです。

 

そこで「自己という物が元来無いものであるという真相に一度徹しなければ、その解決ということがつかないもの」なのです。

 

「坐禅は、ただそれさえ行じていれば、唯務(ゆいむ)として必ず解決がつく」のです。

 

どうして解決がつくのかと言うと、「坐禅そのもの自体がそのものの実証」だからです。

 

既にみなさんの「結果」です。

 

このことを「果満円成(かまんえんじょう)」と言います。

 

果満円成と言うと、何かこれから「果」を円満せしめなければならないと思うものです。

 

そういう事に為るから余計にいけないのです。

 

そうではありません。

 

一々(いちいち)が果満円成なのです。

 

「波羅提木叉(はらだいもくしゃ)=一々の解脱」と同じ事です。

 

人間(にんげん)は何もかもその果満円成の様子に対して、どうしても変な考えを起こすから(手を付けるから)それでうまくいかないのです。

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自受用三昧

2021年04月11日 | 法理

私たち衆生は日常生活において、外に出ようと思えば、只、そのまま立って知(識)らないうちに行くと思います。

 

これが「一切為さず」です。

 

足がどう運んだのか知(識)りません。

 

それほどちゃんと行われている真相があるのです。

 

このことを「自受用三昧(じじゅゆうざんまい)に安住している」と言います。

 

「自受用」とは、誰もが自分自身を自分自身で何時でも使っているのです。

 

それに因ってのみ、日常生活を送っているのです。

 

ただ、それを知(識)らないでいるだけなのです。

 

いつも行じられている「仏祖深妙の行(ぎょう)」というものは、私たちに在っても欠けず、仏祖に在っても増さず、「永久不変」です。

 

そういう大きな道を、「仏道」というものは皆教えているのです。

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鷺鷥立雪非同色

2021年04月09日 | 

「鷺鷥立雪非同色(ろしゆきにたつも どうしょくにあらず)」というお示しがあります。

 

これは「因縁生(いんねんしょう)」のことをいっています。

 

「鷺鷥(ろし)」というのは白鷺(しらさぎ)のことです。

 

鷺も白い、雪も白い、同じものであるけれども因縁によって一つは鳥、一つは雪という「差(しゃ)」が出来て来ます。

 

色は同じだけれども全然別のものであるということから、平等と差別(しゃべつ)ということを引き合いに出しています。

 

必ず平等だけでは有り得ません。

 

それには差別(しゃべつ)ということを引き合いに出しています。

 

必ず平等だけでは有り得ません。

 

それには、平等という添え物があります。

 

「鮎は瀬に棲む、鳥は木に留まる、人は情けの下に住む」という道歌があります。

 

鮎の季節になってくれば鮎は川の瀬に棲んで、鳥は木に留まっているもので、人は情けの下に住む、という一つのものですけれども「因縁生」に因って、鮎、鳥、人、みんな「住(棲)む」ところが違うのです。

 

「一つのものが縁に因って分かれていて、分かれながら一つのものである」ということを言っているわけです。

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柔軟心を得たり

2021年04月07日 | 

道元禅師が中国から帰った時にどういう事を得たかと質問した人が在りました。

 

すると、禅師は只(ただ)、「眼横鼻直(がんのうびじょく)」と。

 

「抹香臭いものは何にも無い」と答えました。

 

別の言葉で言えば「何の不思議もなかりけりだ」とこたえました。

 

それでは何の効力が在るかと、又、問われたのに対して禅師は、「唯(ただ)少(しばら)く 柔軟心(にゅうなんしん)を得たり」と、「ただ近頃、心が軟らかになったぞ」と言ったのです。

 

柔らかに成らなければ駄目なのです。

 

「柔軟心を得たり」とは、「塊が無くなった」ということです。

 

「氷」が溶けて「水に成った」のです。

 

それが「修養の結果」です。

 

道元禅師は「心が軟らかになっただけだ」と言うのです。

 

それでなければ衝突します。

 

一人柔らかに成ったという事は、世界が柔らかに成るのです。

 

関係が大きいです。

 

「一人」は宇宙と種々に関係しているからです。

 

もし人が「我」を瞋(いか)らせようとする時、「我」はどういう覚悟をして防ぐかという事が在ります。

 

それには「大馬鹿者」に成らなければ成りません。

 

そういう時は笑って迎えるのです。

 

「とにかく一つの物」です。

 

このことに因って「貪欲」も「瞋り(いかり)」も出ないものです。

 

私たち衆生は「瞋らぬ(いからぬ)」という「柔軟心」を誓おうではありませんか。

 

それでなければ、唯(ただ)もの知(識)りになっても何にもなりません。

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三乗次第演金言

2021年04月05日 | 

「三乗次第演金言(さんじょうしだいに きんごんをのぶ)」というお言葉があります。

 

「三乗」とは声聞乗(しょうもんじょう)、縁覚乗、菩薩乗という階級です。

 

仏教を学びながらだんだんと「三乗」という物が「一つの物」であると知(識)らなければならないという事です。

 

おシャカ様が目醒められて最初にお説きになったお示しが華厳経(けごんきょう)という非常に難しい教えでした。

 

ご自分の深い境涯を高い処からお説きになったものですから、誰もそのことが分かりませんでした。

 

そこでおシャカ様も気が付かれて、七仏の先生という文殊菩薩に「一向にみんなが分かってくれないけれども、如何したらいいだろうか」と相談なさりました。

 

すると、文殊菩薩が仰るのに、「それは世尊(おシャカ様)だけではありません、過去の諸仏方もみんなそういう様子でしたから、二段三段と少し程度を下げてお説きになったらどうでしょうか」と進言をしました。

 

それからは、おシャカ様は声聞乗、縁覚乗、菩薩乗という次第を説いてだんだんと人を導くようになさったと聞いたことがあります。

 

それが「三乗次第演金言(さんじょうしだいに きんごんをのぶ)」です。

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随所に主となる

2021年04月03日 | 

臨済(りんざい)禅師のお言葉に、「随所に主となる」というものがあります。

 

「何時でも何処へ行っても自分が中心に成っている」と理解すると大変な間違いを生ずることになります。

 

「随所」というのは「客体(相手)」であり、「主」というのは「主体」のことですが、「主体と客体」と言うのは本当は元はありません。

 

ですから、「元の無い物に成りなさい」という事を「随所に主となる」といっているのです。

 

別の例を挙げていえば、「自分はもう修行が出来たから環境の中に入っても決して汚れません」という人が居ます。

 

これも間違いです。

 

修行歴に因って環境に左右されなくなる事ではありません。

 

「環境に左右されながらもその中に平気で居られること」が出来なければ修行をした事には成りません。

 

それを、「不染汚(ふぜんな)」と言っています。

 

知(識)っている人は何も言わないものです。

 

まだ能く知(識)らない人が説明をしたがるということです。

 

言えばそれだけ「疵(きず)」が付き、汚れ染まるという事です。

 

「そのままに成っていて下さい」ということです。

 

「今のままが一番善い」という事です。

 

 

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