活かして生きる ~放禅寺の寺便り~

娑婆世界を生きる智慧/おシャカ様・禅・坐禅・法理・道のこと

「本当の修行に成る」とは2

2020年09月29日 | 法理

道元禅師「永平広録(えいへいこうろく)第一」に「山僧 叢林(そうりん)を歴(ふ)ること多からず《自分は僧堂で修行したのは僅かの間だ》ー中略ー 当下(とうげ)に眼横鼻直(がんのうびじょく)なることを認得して人に瞞(まん)ぜられず《目は横、鼻は縦についているということを、自分で本当に知った》すなわち、空手にして郷に還る、ゆえに一毫(いちごう)も仏法なし」と。

 

私たち衆生は今まで、自分の鼻が縦についているとか、目は横についているという事に気が付かないくらいにその物に成っていたのに、道元禅師のお言葉を聞いて「なるほど、そうだな、鼻は縦に目は横についていたんだな」と「自分の見(自分を認める)」を起こしてしまいます。

 

そうすると、自分では未だ気が付いていないのに、「肯心(こうしん)自(みずか)ら許す」というお言葉がありますが、「道元禅師がそう言われたのだから、それをそのまま信じて受け取りさえすればいいのに、なぜそれから疑問を起こして修行する必要があるのか」というようなことを言い出す人が居ます。

 

今はそういう時代になってしまいました。

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「本当の修行に成る」とは1

2020年09月28日 | 法理

始めは自らが「法(道)その物」に成って初めて「自分」と「法(道)」との隔てが解消されるのです。

それから直ぐに「今の事実、今の日常のありのままの生活」が始まるのです。

 

あたかも「自己の正体」を見極めれば修行が完成したと思われる人が、あるかもしれませんが、そうではありません。

 

多くの人の修行は「おシャカ様や歴代の覚者の言葉の中の修行・事実を認識しての修行」なので、それでは「本当の修行」には成りません。

 

「私たち衆生の日常生活そのもの」が「お釈迦様や歴代の覚者の教え」に完全に「同化」する、すなわち、法(道)その物が無くなれば「本当の修行に成る」ということです。

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修行の必要性について2

2020年09月27日 | 法理

「眼・耳・鼻・舌・身・意(げん・に・び・ぜっ・しん・い)」という「六根の働き」は、なにか特別な訓練をして、見るようになったのか、聞くようになったのか、味わうようになったのでしょうか。

 

決してそうではありません。

何も特別な訓練をしてそういう六根の働きになっている訳ではありません。

 

それが「六根本来の物」です。

「何時も完璧にそのことが出来ている」ということです。

 

道元禅師のお言葉(普勧坐禅儀)は1223年に中国に渡り御修行なさり、1227年に日本に帰って来られてからのお言葉です。

 

つまり禅師ご自身、開悟なされ、如浄(にょじょう)禅師に「印可證明(いんかしょうみょう)」を受けられた後のお言葉です。

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修行の必要性について1

2020年09月26日 | 経典

どんな弓の名人で百発百中であったとしても、それは「修行」の賜り物なだけです。

 

しかし、「禅門」では「修行」して如何にも弓の名人と呼ばれるような人になったとしても、未だ十分ではないのです。

 

本来から言えば「修行する」という事は「不必要」な事です。

 

その辺の事情を道元禅師は「普勧坐禅儀(ふかんざぜんぎ)」の中で「道本円通(どうもとえんづう)いかでか修證を仮(か)らん 宗乗自在 何(なん)ぞ功夫(くふう)を費やさん」と、はっきりお示しになって居られます。

 

もともと円通無碍(えんづうむげ)のものであり、無余無欠のものであるから「修行してその証拠を得るというのは必要ないし、功夫を用いる必要もない」と言っておられます。

 

それでは、「修行する」とは一体何を「修行する」といっているのか、ということになります。

 

人の出来ない事をやってみせるために「修行をする」のでしょうか。

決してそんなものではないと思います。

 

だったら「修行」して如何なればいいのかという事になります。

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修行の要心

2020年09月25日 | 法理

私たち衆生は、それぞれ自分の「仕事」を持っています。

 

したがって「仕事と道」というものが離れてしまっていては、本当ではありません。

 

何故ならば「仕事その物が道」だからです。

 

日常生活の中で「今の事実」に一切手を付けないで、一生(一所)懸命に「仕事」に精を出して頂ければそれで十分なのです。

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修行の真偽2

2020年09月24日 | 法理

仏教においては「実相は無相であり、一切が空である」と、説かれています。

 

このことは自らが実証(理論においても事実においても証明する)しないうちは、「一つの仮定のような物」です。

 

自分が本当に「法(道)その物」に成る事に因って、仏教の究極は「今の自己の様子その物」であるという事を「本当にそうだ」とうなずく事が出来るのです。

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修行の真偽1

2020年09月23日 | 法理

「修行の真偽」は実に「法(道)その物」が求められているのか、否かに因って決まります。

 

何故に「法(道)その物が求められないか」というと、「仏教」と「法(道)その物」を混同しているからです。

 

この、混同の上に立つと「仏教の中に真意や究極」を見、「法(道)その物」が「仏教の一部」であるかの如くに見誤ってしまいます。

 

仏教の出発点がおシャカ様の説法からであると「誤認」してしまいます。

 

さらに、仏教の内容がすべて悟りの内容であるという「誤った確信」に至ります。

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修行の真偽をしるべし2

2020年09月22日 | 法理

「私は過去にこのように修行、経験がありました」というのではありません。

 

現在、今、自分がどういう状態で修行(生活)をしているか、どういう状態でものを見たり聞いているのか、という事が一番問題にならないといけない訳です。

 

今の自分の状態(修行)が、「自己の正体を見極めるための、現在(今)修行に成っているかどうかというお示しです。

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修行の真偽をしるべし1

2020年09月21日 | 法理

道元禅師の「正法眼蔵」に曰く、「しるべし仏家(ぶっけ)には教の殊劣を討論することなく、法の深浅をえらばず、ただし修行の真偽(しんぎ)をしるべし」と。

 

教えというのは、色々な宗教があります。

 

そしてその宗教にはそれぞれの教えがありますが、何の教えが素晴らしくて、何の教えが劣っていると言うことを論じてはいけないという事です。

 

彼の人の「法」は素晴らしく深い、彼の人の「法」はまだ浅いというような事を話してはならないという事です。

 

ただし、修行の真偽を知(識)りなさいという事です。

 

「真偽」とは本当か、偽物(にせもの)かという事です。

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修行の道程(みちのり)

2020年09月20日 | 法理

「道の修行」は「自己の正体」を見極めた後からのものです。

 

「起承転結」という考えがあります。

 

「起」とは問題意識を持つことです。

「承」とはその問題を自分の問題として思索することです。

「転」とは問題のポイントが確認出来たら、実際に修行することです。

「結」とは結果(目的地)に到ることです。

 

そこではじめて「元に還る(このままで善かった)事」が理解でき、「自分自身が道そのものである事」の自覚を得、初めて「道の修行」に入れるのです。

これをおシャカ様の教えでは「信解行證入(しんげぎょうしょうにゅう)」とはっきり示しておられます。

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