活かして生きる ~山里の寺便り~

娑婆世界を生きる智慧/おシャカ様・禅・坐禅・法理・道のこと

忍について3

2018-05-28 00:00:00 | 道のこと

其のままに任せて、其のままに成っていることに一所懸命に成って下さい。


ところが自分が無くなれば無くなる程、自分の様子を眺めるようになるものです。


そういう事さえも忘れて「三昧」に成っていただきさえすれば必ず満足し、

大安心(だいあんじん)が得られるということです。


私たち衆生は「前後(過去と未来)」のことしか分かりません。


しかし、「今」に一所懸命に成れば過去のことも未来のことも「全部今に帰納される」

ことを知(識)って頂きたいと思います。

コメント
この記事をはてなブックマークに追加

忍について2

2018-05-27 00:00:00 | 道のこと

苦しい時は楽を求めてはいけないのです。

苦に成り切った時が楽なのです。


別の言葉で言えば、「今の事実に一切手を付けない(加えない)で其の事に

一所懸命になっていくこと」を「忍」といいます。


そういう「忍」であれば大いに「我慢」すべきなのです。


それを「こういう我慢があってはいけない」ということで、また最初から

遣り直してはいけないのです。


ただし、そういう言葉(忍)を知(識)っていると、「このままにしておけば善いんだ」

という考えを起こしてしまい、また「其のままにしておく人」がいます。

コメント
この記事をはてなブックマークに追加

忍について1

2018-05-26 00:00:00 | 道のこと

一般でいう「忍(にん)」というのは、対象があって、その対象に対して

踏ん張って我慢する場合に使いますが、殊「仏道(修行)」に於いては

「そのままに成る」ということです。


おシャカ様のお言葉に「忍の徳たること持戒苦行も及ぶこと能はざる所なり、

能く忍を行ずる者は、乃ち名付けて有力(うりき)の大人(だいにん)と

なすべし」とのお示しがあります。


「忍」ということが、いかに大変なことであるかということを物語っています。

コメント
この記事をはてなブックマークに追加

極単(ごくたん)4

2018-05-25 00:00:00 | 

しかし、「まま」も禅語でいう「遅八刻(ちはちこく)」、つまり

到底間に合わないのです。


またある古人も「増さず減らさず有りのまま」といいました。


これもまた「好事も無きに如かず」なのです。

「山上更に山有り」です。

コメント
この記事をはてなブックマークに追加

極単(ごくたん)3

2018-05-24 00:00:00 | 

とかく落しかねるものです。

古人はここを「尊貴堕(そんきだ)」という語を用いています。


「尊貴」は尊いこと、「堕」は自由無礙(じゆうむげ)の意味です。


尊貴にとどまることなく、尊貴を越えることです。

そのものそれが「極単(ごくたん)」です。


極めて「単一(たんいつ)」、「純一(じゅんいつ)」なれば言葉の入る

隙間はありません。


そのことは私は以前から「その物それに成り切って成り切るものもない、

ここを見るままに聞くままに」といっていたのです。

コメント
この記事をはてなブックマークに追加

極単(ごくたん)2

2018-05-23 00:00:00 | 

百合の皮がまだむけていないのに、皮が無いと思っている人が多いものです。


「悟り」というものがあれば、それだけ「単」ではありません。

いわゆる「悟りという迷い」です。


所詮何物も脱し、何事も落としてこそ、「洒洒落落(しゃしゃらくらく)」の

大自在底が初めて得られるのです。

コメント
この記事をはてなブックマークに追加

極単(ごくたん)1

2018-05-22 00:00:00 | 

王陽明曰く「山中の賊を敗るは易く、心中の賊を破るは難し」と。


たとえば表面は波風がないようでも、年中心中は穏やかではないようなもの、

思えば世の中のことです。


「禅」の字は「単、示」の二字から成立しています。

「単」は赤裸々ということです。


「赤裸々」とは「赤裸を裸にする」と理解してもらいたいところです。

つまり、裸をもう一つ裸にしてこそ「真の単」なのです。


それを「極単(ごくたん)」といいます。



コメント
この記事をはてなブックマークに追加

修證不二2

2018-05-21 00:00:00 | 

そこで分からない内は「自我」であると名前を付けてみたけれども、分かってみれば

それがそのまま悟りであり、法であり、道であるという事になる訳です。


この事を「修證不二(しゅしょうふに)」といって、「修 その物が証拠であり悟りである」

と説明しています。


ですから、「念を起こさない今の事実(修行)」に徹すれば本当に自分が満足する

(悟りを得る)事が出来るのです。

コメント
この記事をはてなブックマークに追加

修證不二1

2018-05-20 00:00:00 | 

私たち衆生は「念、念」と言っていますが、「念」とはどういうものかという

説明は出来ません。


或いは「心(しん、こころ)」も説明できるものではありません。


白隠禅師の「坐禅和讃(ざぜんわさん)」の中で、「無念の念を念として」

と言うお言葉がありますが、「無念の念」とは誰も名前を知(識)らないのです。

コメント
この記事をはてなブックマークに追加

おシャカ様の欲

2018-05-19 00:00:00 | 仏教

おシャカ様は「世界中の人々は皆、我が子だからどうしても済度しなければならない、

捨てて置けない」とおっしゃっています。


これはおシャカ様の慈悲心より観る理想です。「救世(くせ)の欲」です。

おシャカ様にも欲があるのです。


それはどういう欲かと言うと、華厳経に「清浄の欲を起こして、無上道を志求(しぐ)す」

とあります。


無上道を志求して、求めなければならないということです。


おシャカ様の眼から見ると、私たち衆生があわれで捨てて置けないのです。

どうしても自分の身心の在らん限り世の中の衆生を救いたいということなのです。

コメント
この記事をはてなブックマークに追加