活かして生きる ~放禅寺の寺便り~

娑婆世界を生きる智慧/おシャカ様・禅・坐禅・法理・道のこと

「この法」とは3

2019年01月19日 | 

「この法」はどこにでもあるものですが、「それそのものが法」であると

指導する人がいない為、「法の中」に生活していながらも気が付かないと

いうのが現状です。


又、正しく ”法” を説ける指導者に欠けている為に、修行が徒に「形骸化

した”法”」のみを求めることに終始したり、修行がその”法”を得る手段や

方法に終わってしまうという傾向になりがちです。

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「この法」とは2

2019年01月18日 | 

「この法(人間を含めた形のある物、形のない物の存在)」には正しいものも

正しくないものもありません。


そういう在り方のものではありません。


「この法」というのはどこにでもあるものです。

アジア独特のものではなく、地域に関係なく、人種・文化・思想や言葉に

左右されることなく世界中どこにでもあるものです。


「この法」は片寄り様がなく、穢れることもなく、生まれることも、滅する

こともありません。


「この法」とは、今の私たち衆生のすべての様子のことです。

自分を含めて一切のものが「法」なのです。

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「この法」とは1

2019年01月17日 | 

道元禅師「正法眼蔵」に曰く、

「この法は人人(にんにん)の分上ゆたかにそなはれりといへども、いまだ

修せざるにはあらはれず、證せざるにはうることなし」と。


「この法」とは、ありのままの状態、自分の今の事実という事です。


「人人の分上」とはそれぞれの人がそれぞれの立場で一杯一杯に「法」が

備わっているという事です。


「修せざるにはあらはれず」とは、たとえ豊かに「法」が備わっていたと

しても、修行しなければそれが働きとしてあらわれて来ないという事です。


「證せざるにはうることなし」とは、実証〈理(理論)においても、事(事実)

においても証明する〉しなければいけないという事です。

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自分の一生2

2019年01月16日 | 法理

私たち衆生は六道輪廻を繰り返し、全く「本来の自己とは何か」という

ことを考えることもなく「自分の一生」を送り続けているのです。


もう一度申し上げます。

私たち衆生は産湯につかっていることを自分では知(識)りません。

亡くなった時に身を浄められていることも自分では知(識)らないのです。


「本来の自己」は知(識)らないまま世の中を過ごすのがほとんどの人の

「状態(一生、人生)」なのです。

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自分の一生1

2019年01月15日 | 法理

私たち衆生は、自分では何年何月何日に生まれたということは知(識)りません。

自分の名前を付けられたことも知(識)りません。


しかし、知らず識らずの内に「私は太郎です、私は花子です」といえる

ようになるのです。実に不思議です。


そして、物心がつく頃になると自分自身のことは考える暇もなく、物から

吸収する力が強くなってきてますます「本来の自己」から遠ざかっていく

のです。


また、亡くなられる人も自分の死ということは自分では分かりません。

自分の死を自分で知(識)る人はいないのです。


私たち衆生は「本来の自己」ということをはっきり知(識)らずに

「自分(?)の一生」を過ごしているのです。

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人の人生2

2019年01月14日 | 法理

過去を顧みて現在の誡めとするのはよいことです。


しかし、いつまでも取り返しのつかない過去にひっかかっていては

愚の骨頂です。


また、先のことばかりに引きずられて行くのは誇大妄想です。


古歌に、

「過去を思い 未来をここに引きよせて 今現在を 常(とこ)闇にする」

とあります。


今日あっての過去です。今日あっての未来です。

否、過去も未来も「今日(即今)」となって現成(げんじょう)しているのです。


今日なくして人生なし。

今日を完全に送る人は「聖賢(せいけん)」です。


「地限り、場限り」と白隠禅師はいつもいわれました。

「その場その場を空しくするな」という意味です。

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人の人生1

2019年01月13日 | 法理

人の人生。


若い人はこれから先があると思っています。

老いたる人は過去の夢をたどって一生としています。


これは全く間違いだと思います。


「人の一生」は今日の積もったものです。

もっと適切にいえば、今の積もったものが一生です。


たとえば、一千万は一円の積もったものです。

一円を欠いても一千万にはなりません。


今なくして、一生はありません。

過去は既に過ぎ去り、未来は未だ来らずです。


ですから、「人生は今日にあり」と、いわなければならないと思います。

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瞬間

2019年01月12日 | 仏教

人及び一切のものには「善悪」というものはありません。

善と思う時があり、悪と思う時があるということです。


人は一度に「二つの考え」を思うことは出来ません。

ですから、「善と悪(二つの考え)」を一度に思うことは出来ないのです。


先ず「善(悪)」と思ってから、その「善(悪)」という考え方がなくならなければ

「悪(善)」を考えることは出来ません。


その「善(悪)」と思ってから「悪(善)」と思うわずかの間にものすごい

スピードで移り変わっているのです。


普通では考えられないかもしれませんが「瞬間」に「自我」というものが

立てられる訳です。


これはすべて「識の働き」によるものなのです。

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四つの状態2

2019年01月11日 | 

修行の過程において、さらに四つの状態があることは別の覚者はお示しに

なっております。


①自分が無くなったけれども、相手がある状態

②相手は無くなったけれども、自分が残っている状態

③相手も自分もあるという状態

④自分も相手も無くなったという状態


「今の事実」「自分の今の様子」というものは、この四つの状態の他にある

ということです。


別の言葉でいえば、今の私たち衆生一人一人の状態が、この四つの状態の

他の処にあるということなのです。



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四つの状態1

2019年01月10日 | 

「今の事実」「自分の今の様子」を振り返って見ると習慣性があります。

そうなると下記に掲げる四つの状態の一つに入ってしまいます。


①言葉では言えるけど、内容が伴わない

②内容は分かったけれども、どうしても言葉としてはその状態を言い表せない

③言葉も内容も全く分からない

④自分の思う内容も言葉に依って言える

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