活かして生きる ~放禅寺の寺便り~

娑婆世界を生きる智慧/おシャカ様・禅・坐禅・法理・道のこと

徹頭徹尾(真の満足)

2023年02月08日 | 法理

「徹頭徹尾」という言葉があります。

 

「時間以前」「人の生まれる以前」「物の生ずる以前」そういう「事実」を、「今」「ここにおいて」、他で求めるのではないのです。

 

「今」ここにおいて、そういう「今の事実」がきちんとしていることを分かって頂きたく思います。

 

「今の事実」に徹してみて初めておシャカ様の教えというものの様子がうかがえるのです。

 

また、自分自身にも本当に満足が出来るのです。

 

そこまでいかないと、どうしても「真の満足」が出来るということはおぼつかないのです。

 

自分の事ですから、本当に自分で必ず満足のいくものです。

 

自分自身に自分自身が聞いてみて、はっきり言いきれる、そこまで自らで本当に「功夫(くふう)」してもらいたいと思います。


「坐禅箴」仏祖2

2023年02月05日 | 

「おシャカ様の坐禅」は右指を上にして「果(結果)」を示します。

 

「祖師(私たち衆生)の坐禅」は左指を上にして「因(原因)」を示すのです。

 

両手を相合わせれば「祖師(私たち衆生)の坐禅」は「降魔(ごうま)」の印相です。

 

おシャカ様の印相を「吉祥印(きちじょういん)」といいます。

 

これは「仏祖の生命」をいったものです。

 

何によってこれを「証明」するのか、となれば即ちこれ「坐禅」です。


「坐禅箴」仏祖1

2023年02月03日 | 

「仏祖」の「仏」というのは、おシャカ様です。

 

「祖」というのは歴代の覚者のことです。

 

「祖」とは別に言えば「歴代の祖師」ということです。

 

道元禅師の「坐禅箴(ざぜんしん)」の冒頭に「仏仏の要機、祖祖の機要」というお示しがあります。

 

「要機」の「要」は結果です。活力です。肝要の要です。

 

「機」は原因です。

 

ですから「要機」とは大力量の人という意味です。

 

「仏」は結果を先にし、「祖」は原因を先にしたのです。

 

この「二字(仏祖)」が相い合わせれば同じ分量ですが、「仏(おシャカ様)」を尊敬する意味があるのです。


一水四見の教え2

2023年01月31日 | 法理

「仏見(仏様のいわれること)」に随わない限りは、言い換えれば自分というものを認める相対的な判断を無くさない限り、どのような見方をしても誤ってしまうというのが「一水四見」という教えです。

 

私たち衆生がいつまでも「一水四見」の教え方や見方をしていると、どんなに坐禅に一所懸命になっても「惑業(わくごう)」という「事の是非を取り違えた料簡、即ち悪業」が相続されていって、そこから逃れることができません。

 

そして、他で得た知識でおシャカ様や歴代の覚者の法を自分なりに解明しようとしたり、自分なりの判断から「坐禅(法)を分かった」とか「坐禅はよいことだ」と思ったり語ったりするという間違いをおかしてしまいます。


一水四見の教え1

2023年01月29日 | 法理

「一水四見(いっすいしけん)」というのは「水」という字を、水界、天上界、人界(にんかい)、餓鬼界の四つの立場から見るという事です。

 

水界に棲む魚に向かって「水(この世)というのは、住み心地のいい所である」と説けば魚はそうだとうなずくでしょうが、「燃え盛る火だ」と説けば ”ウソ” になります。

 

立場を変えて天上界で何不自由ない生活をしている人にとっては、水(この世)は住み心地のよい所というより、まばゆいばかりに輝く宝石に見えるでしょう。

 

人界にいる人は「水は水だ」というでしょうし、満足という事をしらない餓鬼界にいる人にとっては、猛火の如くに見えるでしょう。

 

このように、水界に生活する者、天上界に生活する者、人界に生活する者、餓鬼界に生活する者が水をどのように説明してみても立場が変わればみんな ”ウソ” になってしまいます。


世法について2

2023年01月27日 | 法理

他の有名な覚者のお言葉に、「世法に実(じつ)なるものは、仏法にも実なり」というお示しがあります。

 

世の中の法に、真面目に真剣につとめている方は、仏法(道)にも実なのです。

 

世間の法には一如(いちにょ)というような事がありません。

 

しかし、仏法ではいつでも一如だといっています。

 

ところが、どうしても自我の迷執というものによって一つのものを二つに見てしまうのです。

 

これは「無明(むみょう)」の然らしめるところなので、どうしてもこの「無明(むみょう)」を明確にしなければならないという事です。

 

物事をつきつめていくと、生死(しょうじ)が問題になってきます。

 

修行することは生死の問題を根本より解決することにならなくてはいけないと思います。

 

いいかげんな気持ちでは「生きるか死ぬか」の問題は解決いたしません。


世法について1

2023年01月24日 | 法理

世の中には、なかなか専一に「道を求める」修行をすることが困難なので「世間には仏法(道)というものはないんだ」と考えてしまう人が多いと思います。

 

しかし、そうではありません。

 

その辺のところを正法眼蔵(しょうぼうげんぞう)では「世間の法には、仏法(道)がないという事だけを思って」「仏法のなかに世法のなきことを、いまだ知らず」とはっきり示されております。

 

すなわち世法、仏法(道)ともにすべて、仏法(道)そのものであるという事を知らないといけないのです。

 

別の言い方をすれば、仏法(道)と世法を区別して、線を引く事はありえないという事です。


心の置き所

2023年01月22日 | 坐禅

「坐禅の仕方」は「普勧坐禅儀(ふかんざぜんぎ)」に記されている通りです。

 

ここに大事な事があります。

 

如浄(にょじょう)禅師が道元禅師に「坐禅の要訣」を授けられました。

 

「元子(げんす)坐禅の時は心を左掌に置け」と。

 

「左掌」とは”左の手の平”ということです。

 

このことは「古術」です。

 

よく坐禅の指導者が下腹に力を入れよといいますが、ここのこと(左掌)なのです。

 

その「妙所」が分からずに気張る方がありますが、その心がかえって邪魔物となるのです。

 

「坐の功」を積めば「心を左掌に置く」という意思もなくなり、法身(ほっしん)遂に「坐そのもの」に化して来ます。

 

そして「坐」というものも遂になくなります。

 

これが「大事打開」ということです。

 

このことは、やって證するより外はありません。


人の道

2023年01月18日 | 道元禅師

今日では報恩感謝の念が薄くなってはいないでしょうか。

 

「権利と義務」を親子兄弟ふうふの間にまで振り回す人がある事は、驚くほかはありません。

心すべきことです。

 

然らば如何にして「人の人たる道」を全うすることが出来るのでしょうか。

 

道元禅師「修証義・行持報恩」に「其(その)報謝(ほうしゃ)は余外(よげ)の法は中(あた)るべからず、唯当(ただまさ)に日日(にちにち)の行持其報謝の正道(しょうどう)なるべし、謂(いわ)ゆるの道理は日日の生命を等閑(なおざり)にせず、私(わたくし)に費やさざらんと行持するなり」と。

 

あるべきように今日を過ごすことです。

別の言葉で言えばその日その日その場その場に全力を挙げることです。

 

経に曰く、「若し人生とて百歳なるも諸仏の機を会せずんば、生まれて一日にして能くこれを決了するに若(し)かず」。

 

人生の目的は諸仏の機を会することです。

そこで初めて真に「報恩底の人」というべきです。


成就

2023年01月16日 | 法理

慈明(じみょう)という和尚さんは眠くなると自分の股に錐をさして、そうして坐ったそうです。

 

「私が頼りにするものは坐禅のほかに在りません」、そういうことだったんだと思います。

 

だから眠っていられなかったのです。

 

慈明和尚さんは「眠ることも坐禅である」ということは分かっていても、そんなことはしなかったのです。

 

「眠るのも坐禅、腹が減れば飯を食うのも坐禅だ」みんなそんなことは知(識)っています。

 

しかし慈明和尚さんはそれをせず(知っている事を使わず)に坐られたのです。

 

おシャカ様を始めとして歴代の覚者といわれる方々はみんなそうして苦労なさったのです。

 

その事が無ければ「法(道)」というものは「成就」しないのも事実なのです。