活かして生きる ~放禅寺の寺便り~

娑婆世界を生きる智慧/おシャカ様・禅・坐禅・法理・道のこと

随感録20

2020年01月21日 | 随感

「今の事実」がはっきりすれば初めから誰彼なしにみんなそういうふうに

出来ている存在です。

 

これからどうにかしなければならないというようなことが無いではないかと

いうことが、はっきりするように成るのです。

 

行じていながら、その間に「深浅」というものが自ら有(在)ります。

 

「深浅」がある間は駄目だといういことを知(識)っていればよいのです。

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随感録19

2020年01月20日 | 随感

「道本(もと)円通(えんずう)争(いかでか)修証を仮らん」と、道元禅師の

お示しのように、私たち衆生はこれからどうにかこうにかしなければ

ならないと言うことは全くないし、みんなどうもしなくても自由に

使っているのです。

 

例えば「鼻」にしてもそういう匂いだけを嗅ぎなさいといってもどうにも

ならないのです。

 

どういう匂いが入ってくるのかも分からないし、どういう活動を「鼻」が

するのかは予測がつかないのです。

 

そのくらい「此の物」はその通りにいちいち毎日行っているのです。

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随感録18

2020年01月19日 | 随感

「此の物の真相」とは「どうなくてはならない」というような

人間(にんげん)が考えているような「約束事(運命、宿命、因縁)」は

何も無いのです。

 

その実体は何処に有(在)るのかというと、「此の物自体」に有(在)る

のです。

 

「第六感」を具えた道具立てとしての「此の物自体」がそういう出来具合に

出来ているのです。

 

 

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随感録17

2020年01月18日 | 随感

「回向文(えこうもん)」にも「仏身は法界(ほっかい)んに充満し普く

一切群生(いっさいぐんじょう)の前に現ず」とあります。

 

「帰復自然(じねん)なり」とはそれです。

お互いの様子というのは「仏身」なのです。

 

「法界に充満し」とは、一杯一杯で行き場がないのです。

 

全ての物は「因縁生」として実体も何も無い処からあらゆる活動が出発したのです。

 

そのことを坐禅に因って本当に「我が物」にする必要が有(在)る

のです。

 

「我が物」で有ることを徹見するのです。

 

然してそれを「実證」しなければなりません。

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随感録16

2020年01月17日 | 随感

私たち衆生は何時でも、そういう世界で生活しているのです。

 

「活かされて生活している」のです。

 

人間の見解を用いなければそういうふうに「此の物」は出来て

いるのです。

 

ですから、影も形もない物が影も形もないなりに「縁」と共に

直ぐに活動を起こすのです。

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随感録15

2020年01月16日 | 随感

「帰復自然(じねん)なり」というお示しがあります。

 

「現実(実際)は必然に、ただそのように有(在)る」のです。

 

眼を見て下さい。

眼は「一つに成ろうとも成るまいとも思ってはいない」のです。

 

ただ必然に眼の作用は行われているのです。

「自分(眼)の本性であるそのもの(一如体玄なる自分”眼”)の処」に

立ち帰っているのです。

 

それが「帰復自然」なのです。

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随感録14

2020年01月15日 | 随感

昨日前後しましたので。

 

「随感録13」

人間(にんげん)の見解(けんげ)を用いると、物の為に引きずり回される

ということが起きて来るのです。

 

しかし、引きずり回されている「此の物(法自体)」は何も引きずる物も

その内容には「実体」はないのです。

 

人間の見解を用いることさえしなければ必ずそういうことが納得出来るのです。

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「随感録14」

地獄のどん底にいる人も天上界にいる人も「今の事実の真相」に気が付くと

一変に「解脱」するのです。

 

地獄にいても罪から離れることが出来るのです。救われるのです。

 

人間的見解(手段、方法)を用いようとするそのことを放してしまうことです。

 

ただそれが邪魔しているだけなのです。

 

此の事を知(識)らないので、どうしても人間的見解(手段、方法)を用いてしまうのです。

 

 

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随感録13

2020年01月14日 | 随感

人間(にんげん)の見解(けんげ)を用いると、物の為に引きずり回される

ということが起きて来るのです。

 

しかし、引きずり回されている「此の物(法自体)」は何も引きずる物も

その内容には「実体」はないのです。

 

人間の見解を用いることさえしなければ必ずそういうことが納得出来るのです。

 

 

 

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随感録12

2020年01月13日 | 随感

「一如体玄なり」というお示しがあります。

 

「一如体玄」とは人間の見解でものを作ることではないのです。

自他の関係の動き方というものは出発の時点でもう既に本質的に

出来上がっているのですl

 

ですから知(識)ら無くても「一如になるように出来上がっている」のです。

 

この「有(在)る」ということが一如の証拠なのです。

何時「有(在)る」ようになってどうしたか分からないながらに必ずそのように

「有(在)る」のです。

 

此の事は人間(にんげん)の教えでは、憶測出来ないのです。

 

どうしようもないではありませんか。

 

しかし、幸いに「成るように成っている」のです。

それが現実の姿です。

 

実際のものの「有り方(在り方)」なのです。

 

しかし、「誰一人」としてそれに気が付かないのです。

 

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随感録11

2020年01月12日 | 随感

眠らなかったら夢は見ないのです。

迷いを起こさなかったら悟る必要もないのです。

 

元来悟る必要がないほど目醒めている「其の事実(今の事実)」に

徹しさえすればいいのです。

 

「妄想」というものも、人間(にんげん)の見解(けんげ)の上に僅かに

起きたものです。

 

それを起こしさえしなければ問題はないものなのです。

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