活かして生きる ~放禅寺の寺便り~

娑婆世界を生きる智慧/おシャカ様・禅・坐禅・法理・道のこと

宗教について6

2024年10月01日 | 法理

おシャカ様は何物も何人も元来「実相そのもの」であることを「自覚」なされたのです。

 

「実相その物が、その物を証明する処」に「真の救い」が有(在)るのです。

 

この「不動なる教え、即ち自らが自らを救う」という至極明確な最終の教えを「真の宗教」というべきではないでしょうか。

 

現今では「真の宗教、真の救い」は「人の考えや学問の研究では、手の届く処のものではない」ということから判断としない有様です。

 

しかし、おシャカ様の教えは、知識人が確かに頷き得る教えではないでしょうか。

 

それ故に世界の多くの知識人の間には「法(禅)」が広がりつつあると私は思っています。


宗教について5

2024年09月29日 | 法理

おシャカ様もかつてはこれ等の教えに従って修行されたのです。

 

しかしながら、これでは満足出来なかったのです。

 

それで最終的に人生に於ける苦の根源である「心(意識)を離れた事実(今の事実)」の有(在)ることを知(識)られ、ついに「心(意識)」を捨て去ることに徹底されたのです。

 

それで「心(意識)以前・今の事実の実相自体」が「実相」を「自覚」し始めて苦悩の根源を知(識)られたのです。

 

これにより「始めより苦悩の無い自性の真相」を得られて、初めて理想としていた "事実(今の事実)”に徹し、満足が得られたのです。

 

これが「真の救い」です。


宗教について4

2024年09月27日 | 法理

「この救い」は皆自分の「理想とする考えの所産」であり、「此の物の心(意識)の作用」なのです。

 

「思い違い」なのです。

 

つまり「AからBへ」との考え方の移行にすぎないのです。

 

これが一般に言われている「宗教」なのです。

 

「神」といっても「迷い人」といっても「心(意識)のまがい物」なのです。


宗教について3

2024年09月25日 | 法理

元来、「宗教」は研究ではなく「修行」です。

 

「修業」ではありません。

 

「習学」ではなく「絶学」です。

 

「修行」とは「事実(今の事実)」に気付くことです。

 

一般にいわれている「宗教」とは人間の一切の苦悩を救う為に造られた「人造の教え」です。

 

人間は「考える動物」といわれている様に、種々のことを考えます。

 

この考えは考えを生み、限りなく考えられて、その留まる処を知(識)らないものです。

 

この考え方が最終的には無限の力を感じ、この力に依存し「超人」に救いを求めるのです。

 

ここに於いて「救いとしての神」を理想し、現在の日常生活の苦悩を知(識)り、この耐えられない「苦悩」から逃れたい欲求に「拘束」されてしまうのです。

 

先に理想とした「救い主(神)」に如何することも出来ない「苦悩」を托して「救い主(神)」に平伏するのです。

 

「この時、この思い(想い)」の静まる(鎮まる)処に於いて暫く「苦を忘れる事」が出来るので、これを多くの人は「救い」と思うのです。

 

これは「錯覚」なのです。


宗教について2

2024年09月23日 | 法理

私たち衆生も「宗教の核心」に触れたい気持ちを持ちながらも、「人類の救い、民衆の救い」といって「社会事業の救済」に走るのが実状ではないでしょうか。

 

これらの「社会事業的救いなるもの」は、誰でも「志」さえあれば出来ることだと思います。

 

これらは「宗教者」の為すべき分野ではありません。

 

今日のように各方面において社会人は優れた知能を持ち、未だかつて考えも及ばないほどの偉大なる諸般の発展を遂げ、我ら始め、一般はその恩恵に浴しています。

 

それでは「宗教者」は一体何を為すべきなのか、大いに考えなければならない「一大事」なのです。

 

 


宗教について1

2024年09月19日 | 法理

「宗教」とは、人間が人間としての欲求から考えられた「功利的なもの」ではないと思います。

 

「宗教」とは必要なものであり、人間元来の本質に実質的に徹することが出来る指導原理を具えていて、各自が満足できる教えでなければなりません。

 

何故ならば、人間は元来何人といえども、自分自らに対して手放し(無条件)の満足を欲求して止まないものだからです。

 

この事を確実に教え得る教えが「宗教」だと思います。

 

世の中のあらゆる学問としての「物の有(在)りかた 最後目的」は「人間とは何か、物とは何か、如何にあるべきか」を究めたいという、止むに止まれぬ欲求の衝動から起きたものと言い表すことが出来ると思います。


観念2

2024年09月17日 | 法理

「心」は未体験の或る物については、外部からの情報を提供されると、それについての何らかの「心象や観念」を造り出す働きをします。

 

これは「法」の働きです。

 

この「心象や観念」は極めて限られた経験の中で組み立てられた推測にすぎないもので、「法そのもの」とは全く異なるものです。

 

しかし、この「観念」は如何にも「真実」であるかのように、その人の「識別心を幻惑する作用」を持っているのです。


観念1

2024年09月15日 | 法理

「観念」は、いわば地図のようなものです。

 

地図はある場所の状況を知(識)るには大変便利な道具ですし、地図無しに旅に出れば、自分のいる場所や目的地の見当が全く付かず途方に暮れてしまうかもしれません。

 

しかし、同時に地図はあくまでも一枚の紙切れですから地図を見ることと、実際にその場所に行って地図の表わしている世界を体験する行為とは全く違った出来事であるわけです。

 

つまり「法(真理、事実)」の理解については体験が全てに優先するものであって、「自我意識」によるどんな推測もその代用には成り果せないのです。

 

「法(真理、事実)」は「法(真理、事実そのもの)」を以ってしか「成り果せない(知ることは出来ない)」のです。


宗教の宿命

2024年09月13日 | 法理

歴史的に長く続いているような宗教の場合には、その「創始者」の認識に於いては「或る適切な意味を持っていた言葉」も、後継者がその意味を「内観に因って知(識)る」のではなく、外側から得た「知識(観念)」として自己流に解釈したりすると、組織が巨大になっていく宗教団体が免れることの難しい「組織(自己)保存」という意図のもとで様々な地上的人間的事情で、人工的な不純物に埋もれていくという共通の経過を辿ります。

 

特にイエス様やおシャカ様をはじめとする偉大な先達は、当時の人たちの用いていた言葉の表現の乏しさを補う為や聞き手の理解力の程度に合わせる目的で譬え話を多用したために、その本来の意味が長い歴史にわたって、誤解されてきたという事が多々あります。

 

「伝統的な宗教」のほとんどに属する人達は、「真理」をあらゆる人に内在している「仏性神性(ぶっしょう しんせい)」に因るのではなくて、人間の心の中で造り出されている「観念」に因って解釈しようとしたために数多くの間違いを生み出すことになりました。


固定観念4

2024年09月11日 | 法理

私たち衆生の多くは、自分の外側に「確かな世界」が存在していると無条件に思い込んで毎日の生活をしています。

 

しかし、視界に入って来るひとつひとつの存在物を、ほとんどの場合私たち衆生の過去の記憶に基づいて、それが何であるかを判断しているのです。

 

例えば、「色(いろ)」は自然界(しぜんかい)に「元々有るもの(実在するもの)」ではなく、私たち衆生の視覚の仕組みに因って心の中に知覚されている主観的な一種の映像なのです。

 

しかし、私たち衆生の多くにとって、「色」は余りにも日常的な体験であるために、ほとんどの人が「色は現実の存在である」と思い込んでいるのです。

 

「固定観念」はそれに反する物を排除するように働くので、物事の本質とは無関係にその人の表現を制約し始め、「仏性」を顕す上では手枷足枷(てかせあしかせ)となるような障害物を心の中に築いていくことになるのです。