おシャカ様も「一字不説」でよせばよいのに最後の説法に出掛けたのです。
「金波羅華(こんぱらげ)」とは説法に対するお極まりの供養物です。
おシャカ様は華を捻じたまま何も言わなかったのです。
分かった者が在るかしらと彼方此方見廻しました。
ところが多くの修行者はおシャカ様の密意が分からなかったのです。
唯(ただ)一人迦葉(かしょう)のみ在って華を見て笑ったのです。
おシャカ様も「一字不説」でよせばよいのに最後の説法に出掛けたのです。
「金波羅華(こんぱらげ)」とは説法に対するお極まりの供養物です。
おシャカ様は華を捻じたまま何も言わなかったのです。
分かった者が在るかしらと彼方此方見廻しました。
ところが多くの修行者はおシャカ様の密意が分からなかったのです。
唯(ただ)一人迦葉(かしょう)のみ在って華を見て笑ったのです。
「拈華微笑(ねんげみしょう)」の話は「禅の紀元」として世に知れ渡っています。
インド、中国、日本へと歴代の覚者といわれる方々は皆この話に由来しているのです。
「拈華微笑」とはおシャカ様が一枝の「金波羅華(こんぱらげ)」を拈じて、言説を越えた仏教の端的を示したところ「迦葉(かしょう)」のみがその密意を知ってにっこり微笑したという因縁話です。
「四十九年一字不説」とは、おシャカ様最後の説法です。
「不説」とはその物が説けないという事です。
何故ならば「その物の外にその物が無い」からです。
説かないのではありません。
「元来説けない」のです。
説けばそれだけその物にそむける事に成るのです。
これだけは手放す事が出来ないというものが如何しても残るものです。
その手放す事の出来ない物を思い切って手放す必要が在ります。
何処へ手放すのか。
もともと無い物ですから手放す処もありません。
その辺のところは、既に「空の中」に居ながら「空」に成ろう、「空」に成ろうとしている「我」が在る事に気が付かなければなりません。
どうか本当に手放しに成って修行(坐禅)をし「仕事」をなさっていただきたいと思います。
禅語でその事を「実参実究(じっさんじっきゅう)・実参実悟(じっさんじつご)」と言っています。
私たち衆生の「生きる目的」は「無心、無我に成る事」です。
無心、無我に成った人を「仏」と言っています。
私たち衆生の「一挙手一投足」が全て「空」であり「無」であることを、言葉で言えば「仏法」といっているのです。
ですから「法」に成ればよろしいのです。
「法」に成るには「我」を無くせば宜しいのです。
「我」を無くするには「修行(坐禅)」をすれば宜しいのです。
それだけのことです。
暑い時は暑い、嫌な時は嫌だ、半信半疑だ、何もがみんな「法」です。
比べる物が無いから本当は「法」も在ってはならないのです。
「方便」というのは仏教語です。
広辞苑によれば、①「衆生を導く巧みな手段、真理に誘い入れるために仮に設けた教え」②「目的のために利用する便宜の手段」と記されています。
本来「仏教」に於ける「方便」とは「その人(その人の今いるところ)」から「成仏の道」へ一番近い道を選んだのを「方便」というのです。
ですから「方便」というのは、いい加減な事ではなくて「今の人、それぞれの人」がそれぞれの立場にいる訳ですから、その立場に於ける一直線(最短の)良い道(成仏の道)」を「方便」というのです。
おシャカ様は先ず最初に「ものは一つであるのに悟りと迷い、生と死、というような我他彼此(がたぴし)の見というものが出来てしまった。本来はそういうものではない」ということを、はっきりと説き示されております。
私たち衆生は本来既に「守るとか、守らなければならない」というそういう事を超越した「今」に何時も生活が出来ているということです。
「仏(おシャカ様)の教え」というものは、それをきちんと、そういうものであるということを八万四千の法門で事細かに示されているということです。
「物心が付く」ということは、そういう「今の事実(今の自己の様子)」を私したのです。
そういうことにおいて「迷悟」というようなことも起きて来るのです。
「迷い」ということは、これからはじまったのです。
ですから六根の働きのまんまに徹すれば「迷い」から離れ、いわゆる「悟りの世界」が出現するのです。
自分の本性を見極めようと思ったら、人間的考えを使ってはいけないのです。
おシャカ様が悟りを開かれる以前、真に人間の救いというものは何処に手を付けて良いのか分からなかったのです。
そこでこれから「道を求める(修行を志す)私たち衆生」は、この「六根(眼・耳・鼻・舌・身・意)という働きのまんま」徹しなければなりません。
自分達の「都合(観念)」で自然(じねん)のあり方に手を付けてはいけないのです。
それを使うと私(わたくし)することになります。
一方「六根自体の作用」は公(おおやけ)なのです。
おシャカ様の教えでは「物心が付く時点」が迷いの元なのです。
しかし人類のすべてがこの「物心が付く時点以前」には人間的な日常生活というものは有り得なかったのです。
それではいったい「物心」は何処で付いたのでしょうか。
赤ん坊にはその自覚は無いはずです。
不自覚なまま人間として成長して、「不自覚な人間」ばかりが形成されていったのです。
おシャカ様以前には「人間の心」に対して、どういう風に何処から何のように手を付けたらいいのか、誰も手の付け所を知(識)らなかったのです。
人類有史以来そのような状態でしたが、おシャカ様が「迷いの元」をあきらかにされたのです。
この「物心が付いた時点」で「初めて認識(初一念)」が起き、その時点で「自分が認識したと認めてしまったのが(思い込んでしまったのが)「迷いの元」なのです。
おシャカ様が布教をしていた時分、だんだんと多くの人が集まってきました。
その中にはいろいろな“クセ”を持った人が在り、そういう人達が弟子になりましたので、その度ごとに必要に応じて一つずつ戒律が設けられました。
集団で修行する上においては修行者がお互いに迷惑をかけることのないように「これでけは注意して行きましょう」という考えの元に「戒律」が生まれました。
かつて仏教が非常に栄えた国々では、現在この戒律だけが守られています。
そしてその戒律を守っていく事がおシャカ様の精神をそのまま行じているものだと誤って理解されています。
しかしこの戒律も「修行」という中心が無ければ何の意味もなくなると思います。
おシャカ様の説く戒律は「仏教道徳」です。
「守らなければならない事を守る」とは「今の事実に自らの考えで一切手を加えないこと」です。