活かして生きる ~放禅寺の寺便り~

娑婆世界を生きる智慧/おシャカ様・禅・坐禅・法理・道のこと

正念2

2017年03月21日 | 

どこまでも進まなければなりません。

自分の世界ですから怠れないのです。

進んで退かぬという世界が何時もなければなりません。

 

「般若」というのはそれをいったのです。

「一念の心」を大悟したのが「般若」です。

それが本当の「智慧」です。

 

「本当の智慧」をいうのは、「一念」というものをしっかり掴んで

力あることを発見し、それを「体得」することです。

生活そのままに成り切る時が「大悟徹底」です。

「心の実證」です。

 

即今「心」の一字に徹する時、絶大な力が得られるのです。

只「心」に成り切ればよいのです。

 

その時その時が徹底です。

「世界は心ならざるはなし」それが「般若の智慧」です。


正念1

2017年03月20日 | 

r一念の中に己れがないことを「無念(無の念)」といいます。

それがなければ一念は時間空間を超越しています。

これを「正念(しょうねん)」といいます。

 

「月一つ 影いろいろの 踊りかな」という句があります。

職業は種々ありますが、念は同じ念です

生命は同じものです。


拵(こしら)える必要はありません。

「縁」に随っていけばよいのです。

何になっても同じことです。

 

造作したら能率が減ります。

これは「人生観の極地」です。


その場その場に一念というものを本当に観ずればよいのです。

「正念相続」していけば、その境遇は何でもよいのです。


五濁3

2017年03月19日 | 仏教

「煩悩濁」とは、見方のわるいところから「三毒(貪・顚・痴)」等の

煩悩妄想を起こし、自分も苦しみ、人をも苦しませてしまうのです。

 

「衆生濁」とは、衆生が「見濁」「煩悩濁」の結果として、人間界の

果報が漸く衰え、心が鈍く、体が弱く、闘争常に絶えず、苦多く

福少なきをいいます。

 

「命濁」の「命」とは、寿命及び生活力のことです。

生活が不正となり、従って寿命も短くなるのです。

長生きしても生き甲斐がないので、短命ということも出来るのです。

 

「劫(ごう)濁」の「劫」とは、劫波、時代ということです。

今の時代は「五濁」を以って成り立っている時代です。

 

時代が濁っているということです。

何人も皆、時代の影響を蒙(こうむ)っています。

ただ、私たち衆生は「泥中の蓮」と成って「五濁」の影響を

蒙らないような人格者と成らねばなりません。、

 

おシャカ様の「正、像、末」の時代を説いた裏面の

「大慈、大悲」を実践しなければなりません。

 

 


五濁2

2017年03月18日 | 仏教

「天」あり、「地」あり、「人」ありです。

「人」に男女、貴賤、苦楽、昇沈があるのです。

 

即ちこれは、「四大の家の因縁生」によって生じる真理で、

その間「自我の実体」はあることなしなのです。

 

それ故に相融和して、共存共栄を許さなければならない

道理なのです。

 

元来一体の上の分かれだからです。

どうしても相衝突し、反目することを許さないのです。

 

経に曰く、「一切は男子は皆我が父、一切の母は皆我が母、

六道(りくどう)の衆生は皆我が父母、一切の地水は是れ

我が先身、一切の火風は是れ我が本体なるが故に」。

 

つまり、本体の一つなることを知らずして「差別(しゃべつ)」の

「隔歴(かくりゃく)」に迷って融和すべき「霊力(れいりき)」を

物質的に衝突させてしまう結果を生ずるのです。

 

即ちこれが「見濁」です。


五濁1

2017年03月17日 | 仏教

「五濁(ごじょく)」とは、見濁・煩悩濁・衆生濁・命濁・劫(ごう)濁

をいい、私たち衆生の病根を指したものです。

 

「病」を知らなければ治療は出来ません。

健全なる信仰を保って真実生活に入って頂きたいものです。

 

「見濁」とは、人及び物の見方が違っている、濁っているということです。

元来、物の本体は一つです。

 

祖録に「四大の生(しょう)自(おのずか)ら復(ふく)す、

子の其母(そのはは)を得(う)るが如し」とあります。

 

「四大」の大とは、到らざるところなく、あらざるところなきを

いうのです。

 

その本体を四つに分けて「四大(地・水・火・風)」といいます。

至るところ「四大」ならざるはないということです。

 

この「四大」が四大の中に含有している「因縁力(いんねんりき)」

によって種々の「差別(しゃべつ)」の結果を生ずるのです。


一大事因縁(仏教の生命)6

2017年03月16日 | 法理

「自己の本来の面目」に「相見(しょうけん)」しなければ

例え、経論を究めても他の宝を教え、終わる人です。

 

自ら「実物」を見ずして、見た如き「観念を造る人」です。


「一大事因縁」なくして人を導くことは「一盲衆盲を引く」

で、誠に恐るべきことです。

 

これは仏教全体の「一大事」です。

 

「此(箇)の事」なければ「法(道)」を説いても

響きなしです。

 

一度は「命根(みょうこん)を絶せん事」を要すのです。

 

今人、古人も「四大(地水火風)」は同じです。

何れの時代になっても「志気(しいき)」があれば何人たりと

いえども徹するものです。

 

「疑うことなかれ」です。

旧稿「信解行證乳入(しんげぎょうしょうにゅう)」が大切

なところです。

 

今や社会は「この人」を求めつつあり、若しこれに当たる人が

なければ「仏教の生命」なしです。

 

「仏法」生命を失えば人間(にんげん)の苦悩は永久に離する

ことは出来ないと思います。

 


一大事因縁(無師独悟)5

2017年03月15日 | 法理

この肝心な処(一大事因縁)をはっきりさせておいて

頂きたいと思います。

 

そして決して人の力を借りる用は一つもないということです。

必ず自分自身が自分自身に於いて自分自身でそれが処理(解決)

が出来るものであるということです。

 

そこに「無師独悟」ということがあるのです。

それで必ず最後は「無師独悟」のものです

 

それは何故かというと、自身のことを他の人が識る訳がない

からです。

 

それでそれを知ってみると、お互いに話し合うと

(指導者の悟の点検を受ければ)本当にそうだということが

通じるのです。

 

そこにおシャカ様や歴代の覚者方が代々それを伝えておいでに

成ったという理由があるのです。

 

道元禅師はこれを一歩進めて自己と法(證)を対峙せず自己は

指導者と共に本證の全体であるという道理「本證妙修」

(ほんしょうみょうしゅう)から、必ず指導者に参ずべきだと

おっしゃっています


一大事因縁(自覚)4

2017年03月14日 | 法理

この「一大事因縁としての事実」に事実の生活をそのまんま

しているのが、現在の私たち衆生の在り方です。

 

そこに「事実」ということがはっきりお互いの上に「今」

行われているのです。

 

その「今、行われている事実」を皆、捨てておいて、そして

自己の考え方を以って見ようとする処に誤りがあるのです。

 

それで「今の事実のまんま」に知(識)らないなりに行っている

「此の物」が「或る縁(六境)」に触れてそして初めて認識の

作用が「ぽこっ」と頭をもたげるのです。

 

そこに人間(にんげん)の考え方というものが、初めて「この事実」

に遭遇して、それも突然の為に「此の物(自分自身)」は

びっくりするのです。

 

それが「自覚」です。

この「自覚」はどなたも自分で自分のことですから、はっきりするのが

必然なのです。

 

それ以外に「道」があるのではないのです。


一大事因縁(不知不識生)3

2017年03月13日 | 法理

人間(にんげん)が「知(識)った」から宇宙があるのでもないし

人間が「知(識)った」から人間が生まれたのではありません。

「不知不識生」なのです。


どちらも知(識)らないものが知(識)らないなりに出来て来て

(知らないなりに生まれて来て)、それが「現実にここにいる」

のです。

 

「この事実」を私たち衆生は無視していると思います。

これは人類全体の「欠陥」です。

この「人類の欠陥」である「迷いの根源」はこういう処に

あるのです。

 

「此の物の真実」に対しては、そういう事を「知識」として

知(識)って頂いて、自己の考えというものを捨てて

修行に務めて頂きたいと思います

 


一大事因縁(不知不識)2

2017年03月12日 | 法理

私たち衆生は「六根(眼・耳・鼻・舌・身・意)」を以って

何に対しても必ず「縁」に触れると、こちらは「知らない」し

向こうも「識らない」のですけれども、犬は犬であり、

鳥は鳥であるのです。

 

「不知不識(しらずしらず)」なのです。

一切のものがもう間違いなく、「きちん」と現れるように

出来ているのです。

 

そういうようなことを「人」が後から捕えて(そういう事実を捕えて)

「因縁」と名称を付けたのです。

 

ですから、この「因縁」というものには実体はないのです。

何故ならば、どちらも「知(識)らない」からです。