おシャカ様は、「人類の究極の課題(無明の煩悩の源)」に、目覚められたのです。
この「一大問題」が、過去の人々から取り持たせる、重大課題で在った事に、気が付かれたのです。
そこに於いておシャカ様は、従来一般に人間修行の、「道」と思われた「苦行」の道を捨て、健康の回復を計り「尼蓮禅河(にれんぜんが)」に於いて、自分が正しい解脱を得る事が出来なければ、「この坐」を立たないという固い決心(今で言う菩提心という事です)で今で言う坐禅ですけれども、坐られたのです。
おシャカ様は、「人類の究極の課題(無明の煩悩の源)」に、目覚められたのです。
この「一大問題」が、過去の人々から取り持たせる、重大課題で在った事に、気が付かれたのです。
そこに於いておシャカ様は、従来一般に人間修行の、「道」と思われた「苦行」の道を捨て、健康の回復を計り「尼蓮禅河(にれんぜんが)」に於いて、自分が正しい解脱を得る事が出来なければ、「この坐」を立たないという固い決心(今で言う菩提心という事です)で今で言う坐禅ですけれども、坐られたのです。
別の言葉で言えば、従来私たち衆生は、「識が錯覚(本来自分の無い事)を起こして自分が有(在)ると、認める事により誤りを知らなかったのです。
今日の私たち衆生も又、この誤りを知らずに、「識に惑わされている」のです。
この発見こそ、おシャカ様の偉大なる、前人未踏の因知で有り、「人類の究極の課題」である、「無明の煩悩の源」を発見する重大な出発点と成ったのです。
「人類の究極の課題」を解明しようとして、おシャカ様は「出家」されたのではないでしょうか。
おシャカ様は、当初は人間的な生活の全てを尽くして、訓練修行されたのです。
然し「無条件で満足出来る道」が、得られず失望されたのです。
その結果おシャカ様は、更に「自分自身が自らの真相」を、省みられたのです。
今で言えば「問題意識」を、持たれたのです。
そうして「今日迄の問題」は、認識自体が認識上に有(在)って認識の自在なる活動(働き)の為に惑わされて、そこから一歩も出る事が無かった事に、気付かれたのです。
仏教では「人類の究極の課題」である、この疑問の起こる波を、「無明の煩悩」と、説いているのです。
この「無明の煩悩」が、滅しない限り人間の苦悩も、完全に救う事は出来ないのです。
例え沢山の人が研究を重ねて、仏教に同一な結論に達し、各自が理論的に決定しても、彼等自身が「真理」は此れで善いのかと、自問自答する時、真面目な正直な考えを持つ人であれば、あるほどに自分自らが迷うのが、落ち着く処ではないでしょうか。
この様に考えてみれば見るほどに、人間は迷いに迷いを重ねて、浮かぶ瀬も無き哀れなる者と成ります。
これが人間を苦しめ悩ます処の「無明の煩悩」なのです。
人間はこの矛盾に、永久に悩まされて行くのです。
この事は、人類発生以来の悩みです。
この問題は文化の発展につれて、益々大きな問題となる物なのですが、この事は人間が人間として、人間的な態度でしては、決して解決出来る問題ではないのです。
この問題は私たち衆生の全てが、既に経験して今日に及んでいるわけです。
「この問題か」と云ってこの問題を、放置しておく事は、益々出来ないのです。
そこで人間は、この矛盾に苦しむのです。
この事が「人類の究極の課題」となっている、一大問題なのです。
「今を今の外」には、求めようがないのです。
求めなくても、「今」なのです。
然るに私たち衆生は、この事に対して色々に疑いを起こし、この疑問を解明しようと、あらゆる手段を尽くして、この問題に取り組んでいるのです。
全ての物がそれぞれに於いて、その物で解決済みの物です。
その外にはありません。
この理由に因って万物は、存在していて更に、疑う処はないのです。
如何なる私たち衆生の「結論」に因っても、決定的な無条件での満足は、得られないのです。
何故ならばそれは「その思う事」が、妨げているからです。
「人間は、この無条件で満足出来る道」を求めて止みません。
然るにこの目的が達し得られないのです。
仏教を真理として「仏教を絶対的なもの」として見てしまうと、「法 その物」を求めるはずであるのに、その内容を覚えてしまい、尺度として基準立場を持たない、「偏見・法見(ほっけん)・空見(くうけん)」を持って、そこで行き詰まってしまいます。
偏見(各人の偏った見方)、法見(法にとらわれた見方)、空見(今の事実でない見方)もその内容は違っても、「我見」と全く同じものです。
その「我見」を放ち落とすのが、修行でなければいけません。
仏教や歴代の覚者の教えを、究極と見誤ると、様々な問題が生じます。
仏教・祖録に焦点が固定されてしまう為、自分の問題として「自己の正体を見極める事」が、出来なくなります。
仏教を見聞すると云う事は、本来解決済みの言葉を、そのまま受取る事ではなくて、自己に於いて解決すべき問題と受けとめる事です。
それですから、その「眼球」に習った生活をすれば、苦悩も煩悩も無くなってしまうのではないでしょうか。
全ての物には、「そうしなくてはならない」と、いう決まり(規則)が無いのが、「人及び物の本質」なのです。
「物の本質」と、いうのは決まり(規則)と言う物は無いのです。
私たち衆生の身体は、そういう者(事)なのです。
「眼自体」は自分の気に入ってなくても「縁」に応じて自在に活動しています。
この「眼に写ったもの」を世界とか人間とか社会とか物とかいっています。
全て「この物(眼球)の上に現れた存在を問題にしているだけ」の事です。
それなのに、それが「自分の考え方」に相応し、気に入ったとか気に入らないとかいって、それを使おうとするから直に大きな作用ではなくて、小さな作用になってしまうのです。
「自己中心の作用」になってしまうのです。