活かして生きる ~放禅寺の寺便り~

娑婆世界を生きる智慧/おシャカ様・禅・坐禅・法理・道のこと

人類の究極の課題6

2022年02月27日 | 法理

おシャカ様は、「人類の究極の課題(無明の煩悩の源)」に、目覚められたのです。

 

この「一大問題」が、過去の人々から取り持たせる、重大課題で在った事に、気が付かれたのです。

 

そこに於いておシャカ様は、従来一般に人間修行の、「道」と思われた「苦行」の道を捨て、健康の回復を計り「尼蓮禅河(にれんぜんが)」に於いて、自分が正しい解脱を得る事が出来なければ、「この坐」を立たないという固い決心(今で言う菩提心という事です)で今で言う坐禅ですけれども、坐られたのです。


人類の究極の課題5

2022年02月25日 | 法理

別の言葉で言えば、従来私たち衆生は、「識が錯覚(本来自分の無い事)を起こして自分が有(在)ると、認める事により誤りを知らなかったのです。

 

今日の私たち衆生も又、この誤りを知らずに、「識に惑わされている」のです。

 

この発見こそ、おシャカ様の偉大なる、前人未踏の因知で有り、「人類の究極の課題」である、「無明の煩悩の源」を発見する重大な出発点と成ったのです。

 


人類の究極の課題4

2022年02月23日 | その他

「人類の究極の課題」を解明しようとして、おシャカ様は「出家」されたのではないでしょうか。

 

おシャカ様は、当初は人間的な生活の全てを尽くして、訓練修行されたのです。

 

然し「無条件で満足出来る道」が、得られず失望されたのです。

 

その結果おシャカ様は、更に「自分自身が自らの真相」を、省みられたのです。

 

今で言えば「問題意識」を、持たれたのです。

 

そうして「今日迄の問題」は、認識自体が認識上に有(在)って認識の自在なる活動(働き)の為に惑わされて、そこから一歩も出る事が無かった事に、気付かれたのです。


人類の究極の課題3

2022年02月21日 | その他

仏教では「人類の究極の課題」である、この疑問の起こる波を、「無明の煩悩」と、説いているのです。

 

この「無明の煩悩」が、滅しない限り人間の苦悩も、完全に救う事は出来ないのです。

 

例え沢山の人が研究を重ねて、仏教に同一な結論に達し、各自が理論的に決定しても、彼等自身が「真理」は此れで善いのかと、自問自答する時、真面目な正直な考えを持つ人であれば、あるほどに自分自らが迷うのが、落ち着く処ではないでしょうか。

 

この様に考えてみれば見るほどに、人間は迷いに迷いを重ねて、浮かぶ瀬も無き哀れなる者と成ります。

 

これが人間を苦しめ悩ます処の「無明の煩悩」なのです。


人類の究極の課題2

2022年02月19日 | 法理

人間はこの矛盾に、永久に悩まされて行くのです。

 

この事は、人類発生以来の悩みです。

 

この問題は文化の発展につれて、益々大きな問題となる物なのですが、この事は人間が人間として、人間的な態度でしては、決して解決出来る問題ではないのです。

 

この問題は私たち衆生の全てが、既に経験して今日に及んでいるわけです。

 

「この問題か」と云ってこの問題を、放置しておく事は、益々出来ないのです。

 

そこで人間は、この矛盾に苦しむのです。

 

この事が「人類の究極の課題」となっている、一大問題なのです。


人類の究極の課題1

2022年02月17日 | 法理

「今を今の外」には、求めようがないのです。

 

求めなくても、「今」なのです。

 

然るに私たち衆生は、この事に対して色々に疑いを起こし、この疑問を解明しようと、あらゆる手段を尽くして、この問題に取り組んでいるのです。

 

全ての物がそれぞれに於いて、その物で解決済みの物です。

 

その外にはありません。

 

この理由に因って万物は、存在していて更に、疑う処はないのです。

 

如何なる私たち衆生の「結論」に因っても、決定的な無条件での満足は、得られないのです。

 

何故ならばそれは「その思う事」が、妨げているからです。

 

「人間は、この無条件で満足出来る道」を求めて止みません。

 

然るにこの目的が達し得られないのです。


仏教の真理2

2022年02月15日 | その他

仏教を真理として「仏教を絶対的なもの」として見てしまうと、「法 その物」を求めるはずであるのに、その内容を覚えてしまい、尺度として基準立場を持たない、「偏見・法見(ほっけん)・空見(くうけん)」を持って、そこで行き詰まってしまいます。

 

偏見(各人の偏った見方)、法見(法にとらわれた見方)、空見(今の事実でない見方)もその内容は違っても、「我見」と全く同じものです。

 

その「我見」を放ち落とすのが、修行でなければいけません。


仏教の真理1

2022年02月13日 | 法理

仏教や歴代の覚者の教えを、究極と見誤ると、様々な問題が生じます。

 

仏教・祖録に焦点が固定されてしまう為、自分の問題として「自己の正体を見極める事」が、出来なくなります。

 

仏教を見聞すると云う事は、本来解決済みの言葉を、そのまま受取る事ではなくて、自己に於いて解決すべき問題と受けとめる事です。


最も大切な事5

2022年02月11日 | 随感

それですから、その「眼球」に習った生活をすれば、苦悩も煩悩も無くなってしまうのではないでしょうか。

 

全ての物には、「そうしなくてはならない」と、いう決まり(規則)が無いのが、「人及び物の本質」なのです。

 

「物の本質」と、いうのは決まり(規則)と言う物は無いのです。

 

私たち衆生の身体は、そういう者(事)なのです。


最も大切な事4

2022年02月09日 | 随感

「眼自体」は自分の気に入ってなくても「縁」に応じて自在に活動しています。

 

この「眼に写ったもの」を世界とか人間とか社会とか物とかいっています。

 

全て「この物(眼球)の上に現れた存在を問題にしているだけ」の事です。

 

それなのに、それが「自分の考え方」に相応し、気に入ったとか気に入らないとかいって、それを使おうとするから直に大きな作用ではなくて、小さな作用になってしまうのです。

 

「自己中心の作用」になってしまうのです。