活かして生きる ~放禅寺の寺便り~

娑婆世界を生きる智慧/おシャカ様・禅・坐禅・法理・道のこと

坐禅の効果3

2021年01月31日 | 坐禅

初心の者には「本来仏なり」と言っても承知(納得)はしないでしょう。

 

それは「意気地なし」だからです。

 

「華厳経(けごんきょう)」には「心仏及衆生(心も仏も衆生も)差別(しゃべつ)あることなし」と示されております。

 

お互いに衆生と仏と、名前は変わっていても「物は一つである」ということです。

 

私たち衆生は皆、仏であるとおシャカ様はおっしゃっているのです。

 

それなのに、「仏に成れない」とは残念ではないでしょうか。

 

元来が皆、仏なのですから、修行さえすれば必ずそこへ行くことが出来るのです。

 

この境界(きょうがい)に達する為に「坐禅」をするのです。

 


坐禅の効果2

2021年01月29日 | 坐禅

人は限られた物を嫌うものです。

 

長生きしても百歳を越えることはなかなかできるものではありません。

 

つまり、「百歳という箱」に収められていないのです。

 

これは限られているのです。

 

「限られている箱」に入っているのです。

 

大偉人に成ると、限られない力を持っています。

 

時間的にも空間的にもです。

 

幅においても、長さにおいても、等しく皆、自分の領分です。

 

この大偉人を「阿弥陀」と言います。

 

「阿弥陀」は「無量寿」と訳されています。

 

その「寿」は、量ることの出来ないものです。

 

秤に掛け得る「寿」では駄目なのです。

 

人間(にんげん)は一番大きな物に成りたいということは「人生の本能」なのですから、必ず成れます。

 

また、「成れるように出来ている」のです。

 

元来「衆生本来仏なり」で「私たち衆生は本来、仏」なのです。


坐禅の効果1

2021年01月27日 | 坐禅

坐禅を修すると、能率が高まります。

 

何故かというと、「禅」という字は示す偏に単と書きます。

 

その仕事に単純になるということが「禅の力」によって養われ、全力を注いて仕事に熱中するので仕事に無駄が無くなるのです。

 

それが即ち「禅」です。

 

彼の大岡越前守という人も、昔の白洲(しらす)に出る前には「坐禅」をしてから出た、ということです。

 

「坐禅」をすると、その坐っている間は仕事が出来ないから能率が下がる、「坐禅」は世の中とは縁が遠いもの、そのように思っている人も在ると思いますが、決してそういうものではありません。

 

昔の話ですが、グンゼ産業の故、川合信水氏は熱心な坐禅修行者で、職工の方にも「坐禅」を勧めていたそうです。


坐禅は習禅には非ず3

2021年01月24日 | 坐禅

「自分というものを考えるから、相手というものが生じてしまう」のです。

 

「自分というものが無くなれば隔て(距離)が取れて打っ通しです。

 

そういう自覚が起こらざるを得ないのです。

 

坐禅をすると、その境界(きょうがい)が得られるのです。

 

口では説明することは出来ません。

 

ですから自分自身で冷暖自知をしなければならないのです。

 

そこまで来るには若干の時間がかかります。

 

それがなかなか、生易しいものではありません。

 

「そのものそれ」が分からないので、十年、二十年、三十年かかった人も在るのです。


坐禅は習禅には非ず2

2021年01月21日 | 坐禅

「まじりものの無い結果」はどうなるか。

 

そこに「人格」というものが出て来るのです。

 

坐禅ばかりに成ったら自分というものはありません。

 

自分というものが無くなれば、一切のものが自分と同化せざるを得ない」のです。

 

例えば隣家の人が私の眼の中に入っています。

 

私が隣家の人の眼の中にも入っているのです。

 

それはなぜかというと「自分というもの」が無いからです。

 

「自分というもの」をいつ頃からか認めてしまったので、坐禅に因ってその「自分というもの」を同化(殺す)するのです。

 

それから後は自分というものがありませんから「向こうが自分と同じものに成ってしまう」のです。


坐禅は習禅には非ず1

2021年01月20日 | 坐禅

禅を行じることは善いということは分かっても、それが何故善いかということになると、分からないものです。

 

それは、「禅の本質」が分からないから、十年やっても、二十年やっても何のことか分からないのです。

 

妄想が増すばかりなのです。

 

それで道元禅師は「禅の定義」をはっきり述べられております。

 

「いわゆる坐禅は習禅には非ず ただこれ安楽の法門なり 菩提を究尽(ぐうじん)するの修證なり」と。

 

「習禅」とは、悟るのに時間を隔てて先に求めることをいいます。

 

「禅(坐禅)そのもの」が「悟り」なのです。

 

「禅そのもの」が「仏」なのです。

 

先に求めたら「禅(坐禅)」は死んでしまいます。

 

それで「坐禅は習禅には非ず」といったのです。

 

ただ度胸が据わるようにとか、病気を治すというような、小さい目的のために行う「禅(坐禅)」は皆「習禅」なのです。

 

坐禅をするときは、「只、坐禅ばかりに成る」必要があります。

 

「只」とは「まじりものの無いこと」です。

 

これを「祇(只)管打坐(しかんたざ)」と言っています。


坐禅の道2

2021年01月19日 | 坐禅

この「坐禅の道」においては、「祇(只)管打坐(しかんたざ)をするか、公案功夫をするか」その二つしかありません。

 

ではおシャカ様はどうだったのでしょうか。

 

おシャカ様の在世の時、「祇(只)管打坐だの、公案功夫があったのか」ということです。

 

おシャカ様は色々ご苦労の結果、「自分は正しい悟りを得なければ、この座を立たない」という、そういう「現成公案(げんじょうこうあん)」だったのです。

 

「公案功夫」だったのです。

 

おシャカ様は「ひたすらに坐ることだけ」になられたのです。

 

「祇(只)管打坐(しかんたざ)」です。

 

ですから夜明けの明星をご覧になって「明星に成られた」という事です。

 

「身心脱落 脱落身心」をなさったのです。

 

「縁に触れて自己を忘じられた」ということです。

 

只(ただ)そういう「縁が熟した」ということです。

 

それだけの事です。


坐禅の道1

2021年01月18日 | 坐禅

「坐禅の道」においては、「結果を求める」必要はありません。

 

真剣に「坐禅の道」を務めて頂ければ結構なのです。

 

「結果が出ない、頷くものがない」ということは、何処かに「私が、自分が、という力が加わっているからだ」という事さえ自分ではっきりすれば「自覚」が出来るはずです。

 

別の言葉で言えば、自ら「これだけ、そういうようにやっているのだけれども、何処かに未だ自分というものが入り込んでいるんだな」という事が自覚出来れば「自分の入る隙間の無い坐禅」を務める事が出来るはずです。

 

「道に親切になれば、必ず自覚出来てくる」はずです。

 

ですから、「自分の介在」というものが無くなるように「ひたすらに」坐禅をすれば結果は自ずから出て来るものです。

 

なぜならば「因果一如」だからです。


坐禅の仕方

2021年01月17日 | 坐禅

「坐禅が坐禅の仕方を教えてくれる」のです。

 

自分の考えで、「坐禅はどの様にして坐ったらよいのか、どうしたらいいのか」という考えを巡らしている間は、「坐禅になっていない」ということです。

 

ですから、少々苦しくても、坐ることが辛くても、それを我慢して坐っていくうちに必ず「坐禅そのものが坐禅の仕方を教えてくれる」のです。

 

「公案功夫」でも同じです。

 

一所懸命に公案を考える、そうすると、考えているうちに「公案自体が公案の解決の仕方」を教えてくれます。

 

「公案」というのは「自分自身の事」です。

 

ですから、そういう努力をせずに考えばかり先に立てて「考えれば分かるんじゃなかろうか」と、そういう事で坐っていても何の役にもたちません。

 

「坐禅の功夫」でも同じです。

 

功夫をしながらだんだん「功夫の要領」が分かってくるのです。

 

ですから、そういう努力をしないといけないと思います。


坐禅の要領3

2021年01月16日 | 坐禅

どこか余分のところで力を入れて坐っている方が居られましたら、楽な気持ちで「ひたすらに坐る」ことです。

 

そういう風に坐禅を務めていって、坐禅を止めなければ、そのうちに必ず「本当の物」になってきます。

 

そういう事を「坐禅の要領は、坐禅それ自体が教えてくれる」わけです。

 

坐りようが足らないと(そういう功夫の仕方が足らないと)「人から聞いた坐禅」をするので「坐禅そのものが坐禅の要領をなかなか教えてくれない」という事になります。

 

ですから、少々いろんなことで坐ることが嫌になった時には、「嫌になったまま」坐っていれば宜しいのです。

 

そのうちに「嫌になったことが坐禅の要領」を示してくれます。

 

それを「道に親しむ」といいます。

 

諦めずに、投げ捨てずに、坐って頂きたいと思います。