活かして生きる ~放禅寺の寺便り~

娑婆世界を生きる智慧/おシャカ様・禅・坐禅・法理・道のこと

彼岸について2

2023年03月30日 | 仏教

「彼岸」に対して「此岸(しがん)」というものがあります。

 

一般にはこちらの岸(此岸、今)が現実の迷いの世界で、彼の岸(彼岸)に悟りがあるようにとられられています。

 

しかし、そうではありません。

 

私たちはいつでも「彼岸」という結果(悟り)にいるのだという事です。

 

ところが、私たちは今自分が「彼岸」にいるという事をどうしても信じることが出来ないのです。

 

「覚者」は「あなた達はもうすでにいつでも彼岸に到っているのです。今が彼岸なのだから、今の外に彼岸を求めてはいけません。」と話しているのです。

 

しかし私たちは「今、すでに彼岸にいる」という事を信じることがなかなか出来ないものです。

 

何故かというと、「自我」というものがあるのです。


彼岸について1

2023年03月26日 | 仏教

彼岸とは仏教語です。

 

広辞苑によれば、「ひがん〔彼岸〕(仏)河の向こう岸、生死の海を渡って到達する終局、理想・悟りの世界、涅槃⇔此岸(しがん)」と記されています。

 

しかし、こちらの岸(此岸)と彼の岸(彼岸)というものを立てることは間違いです。

 

彼岸とは正しくは「到彼岸、事究竟(とうひがん、じくぎょう)」といいます。

 

「事究竟」とは、「事がそれで終わっている」ということです。

 

本来、私たちの日常生活は「事がそれで終わっている」という事でないと本当ではありません。

 

「自分はまだ未熟だ」という人がよくいますが、本来その人は「未熟のままで終わっている」のです。

 

「未熟だから完成させよう」と考えるのは間違いです。

 

みんなそれぞれに一杯一杯なのです。

 

しかし私たちは理屈では分かっていても、「事実」がなかなか伴わないものです。

 

そこで止むを得ず修行する必要があるのです。

 

「修行する」ということは「傷をつける」ということです。

 

本来、傷がつくべきものではないのに、自ら傷をつけて修行するのです。

 

もう一度言います。

 

「止むを得ず」修行しなければ「彼岸」の真意は分かりません。


おシャカ様の徹底2

2022年06月13日 | 仏教

徹底的に究明されたということは、人間的な考えをかなぐり捨てて、「今の事実」に徹したのです。

 

そうしておシャカ様は初めて人間というものの「本性(ほんしょう)、此の物の発生の根源」を知(識)られたのです。

 

そういう大きな問題を知(識)っていただきたいというのが「仏教の教え」なのです。


おシャカ様の徹底1

2022年06月11日 | 仏教

此の物の発生(出来上がり)というものを知(識)っている人は一人もいないのです。そして、その作り手も、つくられ手もなしに此の物が生じ生まれてくるのです。

 

「そういう事実」が有(在)って私たち衆生は現在生きているのです。

 

「不知不識に生まれた今の事実」が有(在)るのです。

 

たまたまそういうことに、おシャカ様が気が付かれて、それを徹底的に究明されたのです。


おシャカ様の宣言

2022年06月09日 | 仏教

今から二千五百年以上前におシャカ様は「我と大地有情(だいちうじょう)【世界のあらゆるもの】と同時に成道(じょうどう)【悟りを得る】した」とはっきり宣言されました。

 

その内容の正しいことは弟子によって証明され代々受け継がれ今日に至っているのです。

 

それが「私たち衆生の今の様子」ということなのです。

 

これからではありません。

 

「自分と大地と何時も成道している」ということです。

 

しかし誰もがその事を信じられないと思います。

 

しかし、信じてもらわなければいけないということなのです。

 

そういう事が今日まで伝わってきている訳です。

 

ですから私たち衆生一人一人が「おシャカ様の宣言」された内容の正しさを「証明」し、安心して「報恩と感謝の日常生活」を送るべきではないでしょうか。

 

お経にも「初めて知る、衆生本来仏なることを」と、はっきり示されています。

 

修行して初めて知るのです。

 

「今」は何時でも「今」です。

 

因と果の間に”スキマ”は有(在)りません。

 

おシャカ様が宣言された「事実と今」があるだけです。

 

ですから「今」をはっきりと自分のものとすることが大切なのです。


四つの真理3

2019年08月26日 | 仏教

その取り除くということは、「滅(なくする)」ということです。


ですから「煩悩」がなくなれば人は安楽になるというということは「道理」

として当然のことです。


その楽に成る道(みち)が「道(どう)」なのです。


私たち衆生はその「道(みち)」を修行することによって必ず安楽に成ることは

間違いないと仏教の論書には説明されている訳です。



四つの真理2

2019年08月25日 | 仏教

「苦の根源」を除くには、一体どうしたらいいのでしょうか。

そのことについて、おシャカ様は「四つの真理」を示して居られます。


「四諦(したい)という苦、集、滅、道」です。


日本では「貪顚痴(とんじんち)」、即ち貪りと怒りと愚痴です。

これを「煩悩」と言っています。


「苦集滅道(くじゅうめつどう)」の「苦・集」のことですが、よそへ行くと

必ずしも貪顚痴のみが「煩悩」ではないというようにも説明されています。


しかし、ここは日本ですので貪顚痴を「煩悩」として説明させて頂ければ

この集まって来ている「苦集(煩悩)」を取り除きさえすれば、人は安楽に

なるということを「道理」として分かって頂けると思います。



不思議3

2019年08月24日 | 仏教

「仏教」というのは、私たち衆生がすでにきちんとした、迷えないような

「基本体」であることを知ってもらう教えです。


ほかに尋ねることはないのです。こんなに確かなことが他にどこにあるで

しょうか。


「仏教」とは、今ここに在る物を在る物によって自分で「立証(実証)」

出来る道です。


一番手付かずで全部道具が揃っているのです。

迷う道具も揃っていますが、悟る道具も皆揃っているのです。


ですから「この道具立て(六根)」のまんまに行ずれば「自然(じねん)」に

自分で「自覚」が出来る様になっているのです。

 


不思議2

2019年08月23日 | 仏教

私たち衆生は、自分が自分であることに間違いないのに、私が一番不思議

なのは、多くの人が自分自身のことが自分自身で信じられないということです。


信じたいけれども信じられないのではないでしょうか。


こんなに確かな「六根(眼・耳・鼻・舌・身・意)」が自分にあって、自分で

使いつつあるほど確かな自分であるのに、これをどうして自分で信じて生活

出来ないのでしょうか。「活かして生きていけない」のでしょうか。


ですから、「本当の自分とは」と、何処かへ尋ねて行こうとするのです。


どうしたら「本当の自分」が見つかるんだろうと思ってとんでもない方向に

進んで行こうとするのです。


それは、それをはっきり指示する教え(指導者)がないからです。

 


聞思修6

2019年08月20日 | 仏教

もし、これからも引き続きおシャカ様(仏)の道を究めようとされる方は

世間の法を眺めて「世間の法も仏道も一緒だ」というような考えを持たずに、

おシャカ様(仏様)のおっしゃる言葉の中から、自分が十分理解をして判断

するように努力をしていただかないと、本当に労多くして効なしになって

しまいます。


一所懸命努力しても半分はおシャカ様(仏)の法、半分は世間の法ということに

なると、自分自身がいちばん困った存在になるということをよく考えて励んで

頂きたいと思います。