活かして生きる ~山里の寺便り~

娑婆世界を生きる智慧/おシャカ様・禅・坐禅・法理・道のこと

一水四見の教え2

2016-08-31 04:35:00 | 仏教

「仏見(仏様の言われること)」 に随わない限りは、言い換えれば

自分というものを認める相対的な判断を失くさない限り

どのような見方をしても誤ってしまうというのが

「一水四見」 という教えです。

 

私たち衆生がいつまでも 「一水四見」 の考え方や見方をしていると

どんなに坐禅に一所懸命になっても 「惑業(わくごう)」 という

「事の是非を取り違えた料簡、即ち悪業」 が相続されていって

そこから逃れることが出来ません。

 

そして、他で得た知識でおシャカ様や歴代の覚者の法を

自分なりに解明しようとしたり、自分なりの判断から

「坐禅(法)を分かった」 とか 「坐禅はよいことだ」 と

思ったり語ったりするという間違いをおかしてしまいます。

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一水四見の教え1

2016-08-30 04:34:00 | 仏教

「一水四見(いっすい しけん)」 というのは 「水」 という字を

水界、天上界、人界(にんかい)、餓鬼界の四つの立場から

見るということです。

 

水界に住む魚に向かって

「水(この世)というのは、住み心地のいい所である」

と説けば、魚はそうだとうなずくでしょうが

「燃え盛る火だ」 と説けば “ウソ” になります。

 

立場を変えて、天上界で何不自由のない生活をしている

人にとって水(この世)は住み心地のよい所というより

まばゆいばかりに輝く宝石にみえるでしょう。

 

人界にいる人は、「水は水だ」 というでしょうし、

満足ということを知(識)らない餓鬼界にいる人にとっては

猛火の如くに見えるでしょう。

 

このように、水界に生活する者、天上界に生活する者、

人界に生活する者、餓鬼界に生活するものが

水をどのように説明してみても立場が変われば

みんな “ウソ” になってしまいます。

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あるべきようは2

2016-08-29 04:32:00 | 仏教

どうしても信じられないというのは

「原始時代の遺伝」 があるからです。

 

何か此の世に尊いものがあるだろうと

気が焦っているのです。

 

そして、「各々(おのおの)」、足ることを知(識)らないのです。

そこで 「坐禅の道」 が始まるのです。

 

仏様の通りに成り切ったら 「仏様の復活」 です。

仏様の時が別に仕舞って除けてあるのではありません。

 

そのまま 「今」 と成って来ているのです。

 

この坐禅は手段ではありません。

「目的」 です。

方法ではありません。

 

「坐禅そのもの」 が 「完全なもの(結果)に成っている」 のです。

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あるべきようは1

2016-08-28 04:32:00 | 

「正直」 ということは自分の持ち前のことを働かせば

よいのです。

 

「明恵上人(みょうえしょうにん)」 の遺訓 「あるべきようは」 の

この七字こそ 「南無阿弥陀仏」 にはるかに勝っています。

 

道歌に、

「この秋は 雨かあらしか知らねども 今日のつとめに 田草とるなり」

と。

 

只、田草を取るということがお百姓さんの 「あるべきようは」 なのです。

先のことはわかりません。

 

只、今日の勤めに 「あるべきようは」 に成り切っていくのです。

「あるべきようは」 の価値が判らないから 「不平」 を起こすのです。

 

「山高くして谷の低きを侮らぬ、谷低くして山の高きを羨まない」

いつも 「あるべきようは」 です。

 

そして、「一々(いちいち)大光明(だいこうみょう)」 を発しているのです。

 

そう申し上げても、私たち衆生は一挙一動がおシャカ様の姿である

ということは、中々認められないと思います。

 

おシャカ様が 「四十九年間」 お説きになったのもそれだからです。

 

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宿命論

2016-08-27 04:31:00 | 仏教

「因果の法則」 から良い種子を蒔いたものは良い実を

結んで来ます。

ですから、働かずには居られないわけです。

 

「偶然の結果」 というものはありません。

「必然の結果」 なのです。

 

ここにおいて 「宿命」 ということについて申し上げなければ

ならないのですが、この 「宿命論」 というものは最も恐るべき

弊害を与えているのです。

 

これを 「妄信」 すると 「修養」 も何も要らないことになります。

それは 「因果の法則」 が判らないからそういうことになるのです。

 

「前世の因」 によって今日弱い体を持って世の中に生まれて来たとします。

「過去」 に対しては暫く 「宿命」 として許してもよいですが

現在に於いて、衛生法を学び滋養物を摂って運動するという

「因の種子」 を蒔けば化して丈夫な体に成る事はあるとおもいます。

 

即ち、「宿命」 を動かすのは「因果の法則」なのです。

「因果」 というものは 「一刹那」 も休止するものではないからです。

 

「宿命論」 は世の中の進歩を害するものです。

 

昔、「外道の下」 に 「宿命論」 というものがあったのです。

総ての事柄に 「腰を掛ける」 ということは 「進歩」 を害するものです。

 

それを「相(そう)」といいます。

「相」を認めてはいけないのです。

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人身得ること難し

2016-08-26 04:26:00 | 経典

「人身(にんしん) 得(う)ること 難(かた)し、仏法 値(お)うこと 希(ま)れなり」

というお示しが、道元禅師の正法眼蔵にあります。

 

人間(にんげん) に生まれてこないと、同じことを同じように行っても

それが何のことか分からないから救われないのです。

 

ところが人間はそういうことを知(識)ることが出来るのです。

知識があるし思う力があるからです。

 

すべてのものを観察することが出来るから、正誤の方向を

見分けることが出来るし、自分で行うことが出来るのです。

 

そして自分で 「自覚」 することが出来るのです。

そこに人間として生まれて来た由縁があります。

 

「仏法」 というものは、創り手はいないし、創られた者も

いないのです。

知らず識らずに出来たのです。

 

その知らず識らずに出来た(生じた)ということ自体が

創り手も創られ手もない 「因縁の関係、不知不識生」 において

「法」 が 「法」 として作用したのです。

 

ですから 「此の物(自分自身)は作用体」 なのです。

 

「此の物(自分自身)」 は 「法」 として 「人間(にんげん)」 といわれる

構造としての「因果関係においての産物」なのです。

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月を標す指2

2016-08-25 04:31:00 | 仏教

「月というのは自分自身である」 ということを認識して

頂きたく思います。

 

「教えというレールの上」 を走っている間は決して

「法」 というものはわかりません。

 

「法」 は他にある訳ではありません。

何故ならば 「私たち衆生一人一人が “法” そのものである」 からです。

 

「自己の正体」 を見極めない限りは、色々な教えの中で

右往左往してしまうものです。

 

私たち衆生の 「日常生活そのもの」 がそのものに成れば

本当の修行に成るということです。


「法」 を識らずに、「教え」 だけを知っている為に修行の

方向間違いが生じてしまうのです。

 

 

 

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月を標す指1

2016-08-24 04:29:00 | 仏教

諸々の差別(しゃべつ)の事象を形のある、ないに限らず

「法」 といっています。

 

「ものの本質」 というものは、時間的には空間的にも

同一のもの(平等)であり、因果の法則に従って

「差別(しゃべつ)の相」 が出て来ているということです。

 

これは、おシャカ様以前からそうであったということです。

このことを仏教では 「自然(じねん)」 といっています。

 

人類で初めておシャカ様は 「すべて自我から生み出されたものであった」

ということに気が付かれたのです。

 

ですから、「自我を滅すること」 を色々とお示しになったということなのです。

そういうすべての教えは 「月を標(しめ)す指 (標月指)」 といわれています。

 

しかし、月を見ることよりも 「指の詮索」 に生涯をかけてしまう人が

います。

 

たまたま、月を見ることを教えられても、遥か彼方の月というものを

標されるので、これは 「真に法を求めようとする人」 にとっては、

大変大きな誤りを教えられているということになってしまうのです。

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問題意識5

2016-08-23 04:26:00 | 法理

昔の方はご自分でつくり出した問題を 「問題意識」 として

それを 「坐禅」 にしていたのです。

 

ですから、皆それぞれ違った問題意識を持っていつでも

「問題意識」 に成り切れているかどうかということが問題なのです。

 

自分というものを忘れて、本当にいつも問題意識に徹する

そういう姿勢を貫いていってほしいと思います。

 

禅は「自分のことを自分で解決していく道」 です。

 

自分の法を自分で探す姿勢で取り組んでいかないと

距離(隔て)が出来てしまいます。

 

どんな些細な問題でも結構ですから、「問題意識」 を持って

「問題意識に成り切って生活していくこと」 です。

 

そのような修行を 「禅の修行」 といっています。

 

しっかりとした御自身の目標を定めて、自分の問題意識といつも

取り組んで行けば間違いのない修行が出来ると思います。

 

「これが禅だ」 というものはありません。

 

「自分の心意識の働き」 が、「禅に成るか成らないか」

というだけのことです。

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問題意識4

2016-08-22 04:27:00 | 法理

一人しかいない自分が、その時その時によって

移り変わっているのです。

 

ですから、「原因」 により、「縁」 により、その結果として、

様々な状態がそこに生じてくるわけです。

 

一つのものがある時は平等になり、ある時は差別(しゃべつ)となり、

決まったものはありません。

みんな 「縁」 によって 「結果」 が生じるということです。

 

克明に分けて言えば、「因の中に縁と果がある」 といわれています。

それほど超スピードで私たち衆生の考えはいつも流れているのです。

 

流れを止めているのは、自分がつくり出す 「自我意識」 というものだけです。

 

本当に 「これが我(われ)だ」 といって定めることの出来ないようなものを

自分自身でつかまえてしまうのです。

 

とても考えられないようなことをちゃんと考えて立派に

「こういう考えがある」 といっているのです。

誰もがそうなのです。

 

ですから、「考えがなくなりました」 というのも考えなのです。

 

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