活かして生きる ~放禅寺の寺便り~

娑婆世界を生きる智慧/おシャカ様・禅・坐禅・法理・道のこと

法理 1

2015年03月31日 | 法理
「法理」とは、法の原理、法の道理という事です。

しかし、本来「法理」は蛇足です。

一応「法理」は聞いてもらって、「法理」は必要でなかったという事を知ってもらう為に指導者は話をするのです。


病人には薬が必要ですが、病人でない人には薬は不必要です。むしろ無い方が良いのです。

然し、病気でないのに病気と考える人には、薬を見せる必要があります。


「衆生本来仏なり」という言葉があります。

「今」それを信じたならば、おシャカ様の教えは不必要です。

然し、自我の為になかなか信じられないのです。

それで指導者は「法理」の薬を与えるのです。





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四つの誤認「常楽我浄(じょうらく がじょう)」

2015年03月30日 | 仏教
1、常.....無常とは一時として同じ状態が無いということです。いつも変化し続けているという事です。これを変化しているそのもの自体を無常と言っているのに、ものが最初にあって縁に因ってそれが変わっていくと考えることで、無常を常と思ってしまう誤認。

2、楽.....苦楽は本来無いのに、楽を求める誤認。

3、我.....自己は認めようがないのに、「無我に成りなさい」と言うと、何かしらそこに備わっている「我」というようなものが【ある】と思ってしまう誤認。

4、浄.....浄、不浄はないのに、“浄” はきれいな物、“不浄” は汚れたものと思ってしまう誤認。


これら四つの代表的な誤認によって、生死輪廻(しょうじ りんね) の苦を受けるのです。

これらは全部「自己という認めようがないもの(此の物)」を、【ある】と認める事によるものなのです。





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「覚者(仏陀)」の宣言

2015年03月29日 | おシャカ様
今から二千五百年以上前におシャカ様は、

「我と大地有情(世界のあらゆるもの)と同時に成道(悟りを得る)した」

と、はっきり宣言されました。


その内容の正しいことは弟子によって証明され、代々受け継がれ今に至っているのです。

それが私達の「今の様子」なのです。

これからではありません、自分と大地と、いつも成道しているという事です。

成道していないものは、一つもないというように、今から二千五百年以上前におシャカ様が宣言されたのです。


誰もがその事を信じられないと思います。

しかし、信じてもらわなければいけないという事なのです。

そういう事が「今」伝わってきている訳です。

ですから、私達一人一人がおシャカ様の宣言された内容の正しさを「証明」し、安心して「感謝と報恩の日常生活」を送るべきではないのでしょうか。


円覚経にも「始めて知る、衆生本来仏なることを」と、示されています。

修行して始めて知るのです。今はいつでも今です。

因と果の間に “スキマ” はありません。

おシャカ様が宣言された「事実と今」があるだけです。

ですから、「今」をはっきりと自分のものにする事が大切なのです。





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覚者 (仏陀)

2015年03月28日 | おシャカ様
例えば、海の彼方に理想郷があり、誰一人として人が住んでいないと言われているとします。

しかし、その理想郷に人が居るか居ないかは、実際にそこ迄行って見なければ分からない事です。

人から「無人の理想郷」があると聞かされても中々信じられません。

或いは只単に「そうなのか」と、信じる人が居るかもしれません。

しかし、それは単なる信仰に過ぎません。

自分が本当に見たものではありませんから、本当のものではありません。

そこで実際に自分で理想郷に渡ってみて、確かに誰一人として住んでいないという事を実証する事が必要なのです。


その事に対して、先に無人の理想郷を見届けて来た人が「あなたは確かに無人の理想郷を見届けて来ました、それは間違いありません」と証明を渡す、これが大事なのです。

そういう事がおシャカ様の示された「道 (法)」だけに残っているのです。


おシャカ様の教えの正しさは、弟子によって証明されました。

おシャカ様の場合、おシャカ様以前に「道 (法)」を証明出来る人は居ませんでした。

そこで、弟子がおシャカ様の教えの正しさを証明したのです。

ですから、私達も自らがおシャカ様の教えの正しさを見極めて自分自身が安心 (あんじん) を得、おシャカ様の教えの正しさを証明することが「大事」なのです。


「大事」とは広辞苑に拠れば、「大事」の(2) で〈一大事の略〉「出家して悟りを開くこと」と、はっきり記されています。



人類史上初めて「道 (法)」に目醒められ、師匠もなく修行されたおシャカ様。

私は、おシャカ様が「人から仏陀」に成られた御方ですので、この上なく尊敬しているのです。





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おシャカ様の慈しみ

2015年03月26日 | おシャカ様
人類が作り出した素晴らしい文明や文化の発達した現代においても、人間 (じんかん) は、不安、心配、恐怖からの解決の為に様々な思考を廻らしながら、生き続けています。

有史以来、人類で一番最初に真実の自己に目醒められた方がおシャカ様です。

そのおシャカ様が問題解決の為に示されたのが「道」なのです。


おシャカ様の教えは、自らが「覚者 (ブッダ)」と成り、因縁や縁起を【方便】として用い「道」を示されました。

すなわち、一切の有形、無形の世界は全て、因縁に因って生じ、また因縁に因って滅するものであると示されました。

更に因縁に因って形成されているものなので中心がなく、実体も無いと示されました。

そして、始終変化 (無常) していて、無始無終 (無我) であり、無相 (「相 (すがた)」の認めようがない) であると示されたのです。


しかし、我々「“自己の正体”を見極めていない凡人」は、【実体があるもの】と誤認し、執着を起こし、追い回す為に様々な苦悩が生じてしまうのです。


物事には全て法則があります。

この法則に随って、自分の考えを交えないで素直に法則そのものに任せていけば、人間 (じんかん) が、人間 (じんかん) らしく存在するのです。




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修行の道程 (みちのり)

2015年03月25日 | 仏教
道の修行は「自己の正体」を見極めた後からのものです。

「起承転結」という教えがあります。

「起」とは、問題意識を持つ事です。

「承」とは、その問題を自分の問題として思索する事です。

「転」とは、問題のポイントが確認出来たら、実際に修行する事です。

「結」とは、結果 (目的地) に至る事です。そこで始めて「元に還る (このままでよかった)」事が理解出来るのです。

「自分自身が (道) そのものである事」の自覚を得て始めて道の修行に【入れる】のです。

これをおシャカ様の教えでは、「信解行證入 (しん げ ぎょう しょう にゅう)」 と、はっきり示しておられます。





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因果の道理

2015年03月24日 | 仏教
「道」というのは、特別なものではありません。

「自己の正体」を見極めて、何ら誇るべき何ものもなく、どんな状態にあっても憂うべきものは何もない事を承知しておいて頂きたいと思います。

「今の自分の様子」はすでに【結果】です。

この「結果」は、必ず過去において「かく成るべき原因」を作っているのです。

一秒前、一日前、十年前も過去です。

今という結果は【即】将来の原因になっています。

将来は、今の延長です。

【因果の道理には、人の介在を差し挟む事は出来ないのです】


いわゆる因縁に安心して任せて生活する事、それが活かして生きる「道」なのです。

具体的には、日常生活において「そのものの為にそのものを行う」、「その事でその事が終わるようにする」事です。

そこに、【一切の意味付けや意義付けを行わない】事です。


因果一如 (いんがいちにょ) という言葉があります。

原因と結果は一つだという事です。





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因果論 2

2015年03月23日 | 仏教
私達の状態は、もう既にいつでも結果だけに安住している状態なのです。

一例を挙げると、「色々な仕事をしたけれど、結果として失敗に終わった」という人がいます。

そういう結果になったという事は、必ずそういう原因を作っている訳です。


必ず因果の道理にあった結果が出てくる訳ですから、失敗してもこれは【道理に合った失敗】であって、別に驚いたり悲しんだりするべき事ではありません。

ですから、【失敗のまま満足をする】事が出来ないといけない訳です。


成功する場合でも同じ事が言えます。

成功するという事は、それだけの道理に叶って成功した訳ですから、これも喜ぶべき事ではありません。


ごくごく当然の事ですけれど、とかく失敗した場合と比べて非常に喜ぶものです。

それは、本当から言えば【人間のわがまま】です。





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因果論 1

2015年03月22日 | 仏教
「過去の因を知らんと欲せば、現在の果を見よ」 という言葉があります。

過去にどういう因縁があったかということを知ろうと思う人は、今の結果を見てごらんなさいという事です。

必ず過去の原因によって、今の自分の状態が現れているという事です。

そして現在の事が既に原因になって将来の結果を生む訳です。


私達は、息をに吐いたままでは居られません。必ず吸わなければ死んでしまいます。

ですから、【私達の命は、吐く息と吸う息の間にだけある】ということです。

したがって【人間(にんげん) は、いつでも新しく生まれ変わっている】訳です。


私達は、習慣でどうしても「此の物 (自分自身) 」を無条件で認めがちです。

何故ならば「ものが “ある” 」という考えのなかに生まれてきたので、 “ない” ということは普通では考えられないのです。


人が認識を起こして認めることの出来る時間というのは、必ず過去の過ぎた事、まだ来ない未来の事だけなのです。

人間は、相対的な二つの考えを同時に考える事は出来ません。

ですから、ものを比較して見る (善悪を比較して見る) という事は、本来不可能なことです。


ところが、「ない」ものを「ある」と認める「我見 (がけん)」というものが中心になって、善悪を比較して見る習慣性がついてしまっています。

その為、人の考えとして、悪いものをなくしてしまえば、あとは善いものだけが残るだろうという考えになりがちです。

ところが、対照として善悪がある訳で、【悪いものがなくなれば、当然対照になる善もありません】。

一方がなくなれば、片方もなくならないといけない訳です。


おシャカ様の教えというのは全て「結果」からものを見て説いています。

ですから【結果に至らない者】が、おシャカ様の教えだけ見て【分かった、分からない】という事は本当はあり得ない事です。





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人の世 6 ~六道輪廻 2 ~

2015年03月21日 | 仏教
私達は、今日一日の間でも六つの世界をとめどもなく廻っています。

現実に私達は、この六つの世界のどこかに住しているということです。

人間界の衆生になって、わずかの間に縁に応じて色々な事を考えます。

考える度に、「地獄、餓鬼、畜生、修羅界」を絶えず輪廻して行く訳です。


何故そのように、一箇所に止まって居られないのかというと、「実体がない」からです。「無常」だからです。


おシャカ様の教えは運命論とか宿命論とは全く異なったものです。

この「六道輪廻」を固定した考えで認めてしまうと次のように言い出す人が現れると思います。

「前世は地獄界に居たが、今世は人間界に生まれて来た」

「今世は人間界に居るが、来世は悪業によって地獄界に落ちるだろ」


「此の身の機能が止まった状態を死だ」

「此の身が生じる以前が前世だ」

「此の身のなくなった以後を来世だ」

等々。


しかし、六道輪廻とはそういうものではありません。

此の身が生じる以前が前世であり、此の身が亡くなった後を来世というのではありません。



おシャカ様の言う「生死 (しょうじ)」とは、「此の物の変化の様子」、つまり「無常」という事です。


ですから、一念が消滅する事を「死」といい、又次の一念が生じる事を「生」というのです。

結論から言えば、私達 (衆生) は、いつでも「生死」を繰り返し続けているのです。




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