活かして生きる ~放禅寺の寺便り~

娑婆世界を生きる智慧/おシャカ様・禅・坐禅・法理・道のこと

疑煩悩1

2017年10月31日 | 仏教

阿難尊者(あなんそんじゃ)というお方は二十年間おシャカ様に

お仕えになったお方ですから「おシャカ様の生まれ変わり」くらいに

言われておりました。

 

おシャカ様のお言葉は全部自分のものにして修行されていたのです。

しかし、二十年おシャカ様の説法と同じことを言い、同じ生活を

していた阿難尊者ですが、おシャカ様御在世中にはどんなにしても

自分の本性(ほんしょう)を見つけ出すことが出来ませんでした。


そこで、おシャカ様の跡をお取りに成った摩訶迦葉尊者(まかかしょう

そんじゃ)に付いて、さらに二十年研鑽をなさり、そして「法」を

お継ぎになったお方です。

 

 


疑いそのまま2

2017年10月30日 | 

仏法から見れば一切の生物(有形、無形を問わず)は

「そのまま成仏」しているのです。

 

そこのところを天桂禅師は、

「汝ガ心ノ白糸ハ、本ヨリ結ビテモナケレバ 解ケタルニモアラズ」

と。

 

「思惑がとれた時が解脱」です。

ほどけたというのは間違っているのです。

 

初めからくくられていなかったのです。

それに気が付けばよいのです。

 

何も難しいことはありません。

「山川草木悉皆成仏(さんせんそうもく しっかいじょうぶつ)」です。

 

「只いま」です。

外にないと「決定(けつじょう)」せよ、です。

 

「茶の湯とは  只湯を沸かし茶をたてて  只一口に 飲むばかりなり」と。

茶の湯の根元はそこにあるのです。


疑いそのまま1

2017年10月29日 | 

「アー分からない」という思想があると思います。

その「アー分からない」というものは一体何であるか、

何ものがあるか、「アー分からない」という「疑いそのまま」に

徹底するのです。

 

これを分かる方が少ないのです。

「大疑の下に大悟あり」です。

 

「疑い」というものが世の中に存在しています。

天桂禅師は「疑いは大菩提心なり」とおっしゃっています。

 

道元禅師のお言葉に、「仏道を論ずれば一切現成(げんじょう)」

とあります。

 

「疑いそのまま、只ここ」です。

ですから、その疑いを直に返照してみれば、もとより疑うものには

自性がないのです。


煩い悩む6

2017年10月28日 | 法理

考え方を整理するには、どんなことが出て来ても、どういうことが

あっても六根の機能の、機能としての作用のみに任せることです。

 

「止める」ということは、「六根まかせにする」ということです。

 

「私」というものが、「六根」を使わないことです。

 

元来そういうふうに出来ているのです。


煩い悩む5

2017年10月27日 | 法理

考え方を離れてすべての物は、あったりなかったりするのです。

始めからあったりなかったり「自然(じねん)」に、そういうふうに

出来ていること自体、最初から「人間(にんげん)」の考え方のような

存在ではない「事実」で構成されているということなのです。

 

「環境」もそうなのです。

ですから、物は目に、声は耳に入るようになっているのです。


人が入れようとしたものでも、拒否するのでもないのに

「必然」にそうあるのです。


煩い悩む4

2017年10月26日 | 法理

何故そういうことが言えるのかというと、「此の物(自分自身)」は

最初に発生したことを「知らない(識らない)」からです。

 

「知らず識らずに出て来たものが、知らず識らずに今こうして

存在しているのです」

 

「不知不識生」なのです。

 

「これが全体の様子、本質」なのです。


煩い悩む3

2017年10月25日 | 法理

この「自我」というものが、一般には「ある」と誰もが思って

いますが、「ある」のではないのです。

 

「子供の時分(物心が付いた時分)」に、不知不識に「私」と

思えたのです。

 

自分で「私」と思えた「自覚」がないにもかかわらず、

「自然(しぜん)」に「私」という観念(自己の認識作用)」が、

「自我」を形成したのです。

 

「此の物(自分自身)」を考え方の世界で処理してはいけないのです。

 

何故かというと、「此の物(私自身)」はすでに考え方から一切

離れてしまっていますから、ただ一切の物があったりなかったり

するだけなのです。


煩い悩む1

2017年10月23日 | 法理

「煩い悩む」とは文字通りに「煩悩(ぼんのう)」という

ことですが、そういうことが何処から起きるかというと

(私は今、机に向かって原稿を書いていますが)

「これ(机)」なら「これ(机)」に向かった時に、ただ

それだけだったら「悩む」ものがないのです。

 

「これ(机)」に対して「考えを巡らし始まる」と、そこから

「煩悩」といわれるのです。

「悩む」のです。

 

その前は悩みようがないのです。

悩む材料が無いのです。

「判断、批判」の仕様がないのです。


不生4

2017年10月22日 | 仏教

蜀山人の歌に、

「この世をば どりゃお暇(いとま)に 線香の

煙と共に ハイ左様なら」

と死ぬことを一向に頓着しない模様が何処までも偉いと思います。

 

滞らないのが仏です。

凝ったら駄目なのです。

 

生きている処に凝っていないから何時でも死ねるのです。

死ぬということに凝っていないから何時でも生まれるのです。