活かして生きる ~放禅寺の寺便り~

娑婆世界を生きる智慧/おシャカ様・禅・坐禅・法理・道のこと

不戯論(ふけろん)

2017年04月30日 | 仏教

「不戯論(ふけろん)」とは戯論せず、というものです。

 

人間(にんげん)は四角張って、あまり窮屈になるのも

堪えられないものです。

 

時として軽く面白い冗談くらいはたまにはよいと思いますが、

心の乱れぬように心を修めて置かなければなりません。

 

「戯論」について古人が言っています。

須らく知るべし、一切の教門は方便にあらざるはなし、若し

執争を起こせば通じて「戯論」に帰す と。

 

「執争」とは、執着して争いを起こすということです。

 

それは通じて「戯論」というものであると、それは次曰く、

己を是として他を非とす 其の浮詞(ふし)異論は皆、

「戯論」に同じ、故に是を「戯論」という と。

 

「是(これ)」とは総じて仏教を聴いたり見たりするに、

就いては、根本から見ないと間違うという戒めです。


釈迦牟尼仏とは

2017年04月29日 | 仏教

「釈迦」は翻訳して、「能仁(のうにん)」といいます。

是は姓です。

 

「牟尼」は翻訳して、「寂黙(じゃくもく)」といいます。

即ち字名(あざな)です。

 

「釈迦牟尼」とは即ち、姓と字名です。

 

「仏」は「仏陀耶(ぶっだや)」で翻訳すると「智者、覚者」

といいます。

 

私はいつも「釈迦牟尼仏」とは申し上げずに、親しみを込めて

「おシャカ様」と表現させていただいております。

 


言語道断とは2

2017年04月28日 | 

「言語道断」とは、一切の言語のままであるのです。

「言語是なり」です。

 

言うまま、「縁起の法門」です。

そのまま、「脱落」であるのです。

 

見ようと思うのが「迷い」です。

「生死の種」です。

 

覚者曰く、

「夢中の有無は悉く夢、覚めて後の有無は悉くこれ覚」

と。


言語道断とは1

2017年04月27日 | 

「言語道断(ごんごどうだん)」とは仏教語でもあります。

広辞苑に拠れば「言語(げんご)で説明する道の絶えた意。

仏教の奥深い真理は言葉で表現することが出来ないことをいう」

とあります。

 

「言語道断」に続くお言葉で「心行所滅(しんぎょうしょめつ)」

があります。

 

禅学大辞典に拠れば、「分別意識のはたらきのなくなること」

とあります。

 

道元禅師は正法眼蔵の中で、

「もし言語道断心行所滅を論ぜば一切の治生(ちしょう)産業

みな言語道断も心行所滅なり。言語道断とは一切の言語をいふ」

と、お示しになって居られます。


三つの弱点3

2017年04月26日 | 仏教

先般、臨終の時「三つの弱点(愛着)」が起こることを論じました。

私たち衆生は「三つの弱点(愛着)」を持っているから苦しいのです。

 

それをどうして安心して死ねるか、その結果を先に出したのが「苦」で、

先ずこれでおどかしたのです。

 

「集」は煩悩のことで、「苦」の元(本)は実に煩悩にあるのです。

それさえ除けば安楽に死ねるのです。

 

それが「滅道」です。

その死を「安楽瞑(あんらくめい)」するには、「妄想、煩悩」を

滅すればよいから「滅」という「結果」を先に出してあるのです。

 

それを満足させるには、「道」という修行があるのです。

やはり「果」を見せて、それならやってみよう、となるから

「因即修行」を後に回してあるのです。

 

「道」に依ってやればそういう「妄想、煩悩」を滅することが出来ます。

「苦」が「楽」になるのです。

そうしたら何時死んでもいいという「信念」が起こって来るのです。


三つの弱点2

2017年04月25日 | 仏教

「時は金なり」という時代は過ぎました。

エマーソン曰く、「時は生命なり」と。

 

「金」は又得られますが、失った「時」は再び得ることは

出来ません。

 

「時」は「生命」を刻んでいるのですから、この真理を判らないで

過ごしていては日々生命を殺していることになるのです。

 

それでは仏教でいう所の「殺生罪」であり、「大破戒」なのです。

 

今、皆さんを「未熟な方」と見させて下さい。そうでなければ

話が出来ないからです。

 

「未熟な方」には「結果」を先に見せるというのが仏教の鉄則です。

仏弟子の声聞(しょうもん)・縁覚(えんがく)のうち、「声聞」には、

「苦集滅道(くじゅうめつどう)」ということをおシャカ様は説きました。

 

この初めの「苦集滅道」の「苦」というのは「結果」です。

人間(にんげん)は苦しいものです。

「死に行く支度」をしているものです。

 

大金持ちでも、その富をもってしても「一分間の生命」を購うことは

出来ません。

 

死んでしまうと何も無くなってしまうというのは、実に馬鹿馬鹿しい

ことではありませんか。

 

ところが、世界の人は皆そうなのです。

医者から「あなたはもう駄目ですよ」と言われたら、金の力は何の

効果もなく、苦心惨憺、汗で仕上げた富は何の役にも立ちません。


三つの弱点1

2017年04月24日 | 仏教

人間(にんげん)の執着はいつから始まったかというと、

父と母の因縁によって、私たち衆生が母のおなかの中に

「胎生(たくせい)」、「託生(たくしょう)」した時から

「生」への「執着」というものが入ります。

 

これは、自分とか自分じゃないとかということに関わりなく、

働きとして「執着」というものがあるのです。

 

そういうものをずっと「胎内」でかたちづくってきて、そして

そのままのものが誕生して出て来るというわけです。

 

このことを仏教では「業因(ごういん)」といっています。

「不知生(ふちしょう)」なのです。

 

私たち衆生は「三つの弱点(惜愛、自体愛、当生愛)」を持って

います。

これが「苦の根源」になっているわけです。


生きている今の現実には、誰もがまだそういうことはあまり考えないで

生活しているだけなのです。


智慧2

2017年04月23日 | 

ここに最も悲しむべきは、古人が種々の「智慧の見解(けんげ)」

を書いておいたことです。

 

「老婆心切」で書かれたのですが、見る眼の具わった人が見る、

あるいは、取る力量(りきりょう)のある者がとるのはよいの

ですが、「その地に致らない」で手に入れ損なうと人を傷つける

ばかりです。

 

実に危険千万です。

これというのは、「真の指導者」がいないからです。

 

「小成(しょうじょう)」に甘んじてはいけないのです。

私たち衆生は「願心」振り立てて、「熱烈の心」を起こさなければ

なりません。

 

「転(うた)た悟れば  転た捨てよ」です。


智慧1

2017年04月22日 | 

白隠禅師は「智慧」の為に余程まごついた御方でした。

元来、白隠禅師は常に「智慧」の多い御方だったのです。

 

「何事も三年たてばやれるが、そうはいかぬは坐禅ばかりだ」

と。

 

少し得るところがあると、「魔が差す」ものです。

自分が人より優れたように見えたり、人が「馬鹿」に見えたり

することです。

 

これは「自分の定力(じょうりき)」を認めているからです。

これは皆「禅病」です。

 

おシャカ様はこれを、「見(けん)」といっています。

三祖大師も、

「真を求むるを用ひざれ 唯(た)だ須らく見(けん)を

息(や)むべし」

と言っています。

 

「見」とはものを認めることです。

「智慧の第一に起こる」のは、「何もないという見(けん)」です。

これを「法空の見」と言います。

 

その後に「平等・差別(しゃべつ)の見」です。

「真平等」とか「新差別(しんしゃべつ)」です。

 

また、「正偏不二(しょうへん ふに)」

「現成公案(げんじょう こうあん)」

「当体即是(とうたい そくぜ)」

などと認めるものです。

 

これが所謂「魔」なのです。

「善境界(ぜんきょうがい)」も「魔」なのです。

「盛衰(せいすい)」のある人です。


三つの愛着

2017年04月21日 | 仏教

死ぬ前に「三つの愛着」が起きると仏教の論書のなかに

説かれています。

誰一人として、この考えから離れられないというのです。

 

その第一番目に「惜愛(せきあい)」というのが出て来ると

いわれています。

 

病床にありながらまだ「自分自身」というものを考える余裕が

あるということで、いわゆる自分以外の周囲のものに対して

「愛着」を起こす「愛」です。

 

財産とか名誉とかそういうものを惜しむ愛を「惜愛」と言っています。

 

ところが体がだんだん衰弱してくると、もうそういうものを必要と

しない次の執着が出て来ます。

 

それが第二番目の「自体愛(じたいあい)」というものです。

何とかして自分の体だけを保っていけばそれでいいという考えです。

 

「お金はいくらでも出すから、おれの命を助けてくれ」と医者にせがむ

執着です。

 

第三番目が「当生愛(とうしょうあい)」です。

これから死んだら先はどうなるか、それが分からなくて心配になって

くるのです。

 

地獄・極楽といっても、平生に信仰がないから分からないのです。

全くお先真っ暗なのです。

 

それが「当生愛」という愛着です。

これはひとつの執着なのです。