活かして生きる ~放禅寺の寺便り~

娑婆世界を生きる智慧/おシャカ様・禅・坐禅・法理・道のこと

大信根3

2021年04月29日 | 法理

私たち衆生は父母の縁を借りて生まれて来ましたが、何時生まれた事も知(識)らない中に名前が付けられ、自我が芽生え、自我から我見が起きて、知らず識らずの中に「本来保たれている戒」が離れてしまう為に「戒」を相対化して見るようになるのです。

 

「戒」は「懺悔(ざんげ)」に因ってのみ保つ事が出来ます。

 

仏教でいう「懺悔し尽くした状態(理の懺悔)」というのは坐禅です。

 

坐禅の姿は「懺悔し尽くした様子」です。

 

言い換えれば「坐禅は坐禅なり」です。

 

「そのままが結果」であるということです。

 

私たち衆生は何時も「戒」が保たれています。

 

病気の時も敬いを相対的に見ないで静かに病床に臥す事に徹底すると「病気で在りながら病人には成りません」。

 

何故ならば、「病気自体が仏法」だからです。

 

同様に、生(しょう)には生としての法があり、死には死としての法が在り、法から離れた日常生活は存在しません。


大信根2

2021年04月27日 | 法理

全ての教えという所の物は、「月を標(しめ)す指だ」という事です。

 

ですから、その「月」に値する物事、目的とする物事、参禅の目的とする物事は「自己の解明」にあります。

 

即ち「自分自身を知(識)る」という事です。

 

おシャカ様は私たち衆生を「法身仏(ほっしんぶつ)だ」と言っています。

 

「今の坐っている一人一人の様子、様々な状態その物が既に理屈無しに仏である」ということです。

 

別の言葉で言えば、「私たち衆生は自由の者であり、何事にも括られて縛られている者では無い」という事です。

 

「そのことを先ず信じなさい」と、そう言っています。

 

それでないと「参禅」という者(事)は出来ません。

 

何故ならば、「今の自分以外の処に法というものを立てて距離(隔て)をおいて、そしてそれを認めてそれに近づこうとする修行」は間違いだからです。

 

「経律論」という様な学問的にそういう物が考えられ作られて来て、沢山の教えが「各宗派」に因って出来てきました。

 

しかし、それは、あくまでも「月を標(しめ)す指だ」という事です。


大信根1

2021年04月25日 | 法理

「自己に参じること」が真の参禅です。

ですから、おシャカ様が説かれた諸々の経典に参じる事でもなければ、歴代の覚者と言われる方々のお示しに参じるわけでもありません。


自己に参じるには、「大信根を具えなさい」ということです。


いったい何を信じるのかというと、おシャカ様は今から二千百余年前に非常にご苦労なさって悟りを開かれました。


その時言われたお言葉は、「般若心経」の一番最後に出て来る呪文(じゅもん)です。


「ガテー ガテー パラガテー パラサンガテー ボディスワハ」。


意訳すると「ついに自分は成し遂げた、確実に成し遂げた、しかも一切衆生と共に成し遂げた 万歳」という事です。


ですから二千百余年前に、「全ての物事は既に(求めている処の悟りというもの(事)が全て成し遂げられている状態である」という事を獅子吼(ししく)せられたのです。


ですから、おシャカ様のお示しに因って修行する者は、「まずそれ」を信じなければいけないという事です。

 


三つの要素

2021年04月23日 | 法理

修行には「大信根、大疑団、大奮志」という三つの要素があります。

 

第一に「大信根」ですが、「確かに自分自身は法身(ほっしん)そのものである、この物の他に他に物は無い」という事を深く信じる事です。

 

第二に「大疑団」ですが、「法としては確かにその通りでいまの自分の状態が事実であり、そのもの以外 事実は無いという事は自分ではよく分かるし、信じられるものです。

 

しかし、「人(にん)」としては、如何しても信じるだけ隔て(距離)があるということです。

 

そこで「疑いの塊」に成りなさいと言っているのです。

 

第三に「大奮志」です。

 

「人身(にんしん)受け難し」というお言葉が在りますが、一切衆生(あらゆる存在物)から比べれば人身というのはわずかの数しか在りません。

 

また、人間(にんげん)の世界に居るという状態はほんのわずかな時しか在りません。

 

ですから今のうちに急いで、「本来の自己」に巡り合うように「大奮志」を起こして下さいという事なのです。


活動

2021年04月21日 | 法理

「参同契(さんどうかい)」に「明暗各各(おのおの)相対(あいたい)して 比するに前後の歩(あゆみ)の如し」というお示しが在ります。

 

差別(しゃべつ)の上には直ぐ平等があり、平等の上には差別(しゃべつ)が在るのです。

 

このことを例えたお示しです。

 

前足と後足と歩みを分けますが、同じ一つの足です。

 

一つの体が前足と後足に分かれたのであって、体の上から言えば一つの足です。

 

ところが歩みは止まらないのです。

 

前足と思ったのが後足ではないですか。

 

活動は止まらないのです。

 

後足と思ったら前足に成っているのです。

 

それを明暗の常に相伴う事と形容したのです。

 

如何しても離すことは出来ない者(事)です。

 

進んで行くと、いわゆる、今の後足が前足に成り、前足が後足に成るのです。

 

前足と後足は離れてはいません。

 

何もかもその場、その場の「因果の法則」に因って進んでいるのです。

 

そして私たち衆生は「活動」する為に生まれて来ているのですから「活動さえすれば宜しい」のです。

 

「活動」は何でも宜しいのです。

 

只、自分に適した「活動」をすれば宜しいのです。

 

それを択(えら)ぶから「不幸」が起こるのです。


身口意(しんくい)の坐禅2

2021年04月19日 | 坐禅

商売をしている方は「毎度有難うございます」と、挨拶されると思います。

 

このことが商売をしている方の「口の坐禅」です。

 

その他に「法も道も禅も」あるはずがありません。

 

それに成り切り成り切りしている訳です。

 

禅を知(識)らないひとでも、必ずそうなのです。

 

禅とか法とか、道とか功夫とか、そういう物を知(識)ると「そうしていることが禅なのだな」とか、「これで善いんだ」というようなものが必ず出て来て、「禅病に近い状態」になってしまうのです。

 

あるいは、三度の食事をすると思います、このことはみんな「口の坐禅」なのです。

 

一所懸命に口を開けて食事を頂くことは「食事三昧」に成っているはずです。

 

仕事をしていれば、その立場立場にあたって「ああしたらいいのか、こうしたら如何だろうか」と計画を巡らします。

 

「こころくばり」を漢字で書くと「心配」に成ります。

 

このことは全部「意の坐禅」です。

 

そうしてみると、行住坐臥 身口意の三業、煩悩と言われているものは全部「禅である」ということに成るのです。


身口意(しんくい)の坐禅1

2021年04月17日 | 坐禅

坐禅と言うのは「行住坐臥(ぎょうじゅうざが)=私たち衆生の日々の生活そのもの」です。

 

平常心是道(へいじょうしんぜどう・びょうじょうしんぜどう)」であり、「身口意(しんくい)の三業(さんごう)」は即ち、「身と口と意(こころ)の煩悩」も坐禅なのです。

 

「菩薩は煩悩を以って悟りと為す、凡夫は悟りを因って煩悩と為す」というお言葉が在ります。

 

同じものですが「自分が空に成ってからと、空になる以前」というのは、それだけの相違が出て来るということです。

 

有名な趙州(じょうしゅう)禅師は、「昔は十二時(時間)に使われていたが実際自分が目醒めてみると、十二時を使うようになった」と語っています。

 

「身口意の坐禅」ですが、「身業、口業(くごう)、意業という三業』が在りますが、今こうして静かに心に起滅する物を一切相手にせず、邪魔にせずして坐っている様子が「身の坐禅」です。

 

作務(仕事)も身の坐禅です。

 

ただそれを禅と名付けないだけの話で、坐禅を知(識)らない人でも知(識)っている人でも、みんな坐禅を行じているのです。

 

知(識)らずに「禅の真っ只中に居る」という事です。


天地一枚

2021年04月15日 | 法理

上を見てはいけません。

 

上を見ても上は無いのです。

 

下を見てはいけません。

 

下を見ても下は無いのです。

 

上も下も、皆、全自己の「有時(うじ)」なのです。

 

道元禅師は「有時」について、「時すでに これ 有(う)なり、有 みな時なり」とはっきりお示しになっておられます。

 

只、身の程を知(識)らなければなりません。

 

「人人(にんにん)の分上 豊かなり」です。

 

比較するから苦しむのです。

 

「天地一枚の者(事)」に比較の立て様が無いのです。

 

道歌に曰く、

「菰(こも)きても やつれがほなき 水仙花」

「うつむくは その掟なり 百合の花」


果満円成

2021年04月13日 | 法理

どうしても私たち衆生は、「真の満足が得られないのだろうか」、と言ってそれを何時も思うものです。

 

「自己を認めた上から今の自分を眺めている」のでどうしても「真の満足」が得られないのです。

 

そこで「自己という物が元来無いものであるという真相に一度徹しなければ、その解決ということがつかないもの」なのです。

 

「坐禅は、ただそれさえ行じていれば、唯務(ゆいむ)として必ず解決がつく」のです。

 

どうして解決がつくのかと言うと、「坐禅そのもの自体がそのものの実証」だからです。

 

既にみなさんの「結果」です。

 

このことを「果満円成(かまんえんじょう)」と言います。

 

果満円成と言うと、何かこれから「果」を円満せしめなければならないと思うものです。

 

そういう事に為るから余計にいけないのです。

 

そうではありません。

 

一々(いちいち)が果満円成なのです。

 

「波羅提木叉(はらだいもくしゃ)=一々の解脱」と同じ事です。

 

人間(にんげん)は何もかもその果満円成の様子に対して、どうしても変な考えを起こすから(手を付けるから)それでうまくいかないのです。


自受用三昧

2021年04月11日 | 法理

私たち衆生は日常生活において、外に出ようと思えば、只、そのまま立って知(識)らないうちに行くと思います。

 

これが「一切為さず」です。

 

足がどう運んだのか知(識)りません。

 

それほどちゃんと行われている真相があるのです。

 

このことを「自受用三昧(じじゅゆうざんまい)に安住している」と言います。

 

「自受用」とは、誰もが自分自身を自分自身で何時でも使っているのです。

 

それに因ってのみ、日常生活を送っているのです。

 

ただ、それを知(識)らないでいるだけなのです。

 

いつも行じられている「仏祖深妙の行(ぎょう)」というものは、私たちに在っても欠けず、仏祖に在っても増さず、「永久不変」です。

 

そういう大きな道を、「仏道」というものは皆教えているのです。