活かして生きる ~放禅寺の寺便り~

娑婆世界を生きる智慧/おシャカ様・禅・坐禅・法理・道のこと

差別(しゃべつ)について 5

2016年01月31日 | 法理

「一月(いちげつ) 普く 一切の水に現じ、一切の水月(すいげつ) 一月に摂(せっ)す」

というお示しがあります。

 

「一月」 というのは、「一性」 のことです。

先ずお互いの唯一法性(ほっしょう)を天上の月に例えて見れば、天上の一つの月というものは、普く地球上の水の上に現れます。

 

地球の上の水は何程あるか数えられるものではありません。

河にも谷にも海にもありますが、皆それに現れます。

 

露が一つあれば、その一つの露に現れ、露が千あれば、その千の露に月が現れるように一法性が 一切の性に通ずるのです。

此の 「一月」 というのは、「不変真如」 で、一心の体で、「一切の水に現ずる」 というのは、「隨縁真如」 です。

 

此の沢山の水に現れた月も天上の一月に外なりません。

畢竟 万水(ばんすい) の月影は天上の一月に摂せられるようなものです。

 

何でも同一仏性ですから、お互いに平等の心を持たなければなりません。

しかし、上(かみ)としては、下(しも)を憐み、下としては、上を敬する という風にしなければならないと示しているのです。

 

といって、無茶ではいけません。

悪平等というようなことでは、いけません。

 

仏の法は隨縁真如の時には、隨縁真如として差別(しゃべつ)しなくてはいけないのです。

悪平等ではいけないし、悪差別(あくしゃべつ)でもいけないのです。


差別(しゃべつ)について 4

2016年01月30日 | 法理

一切のものは、一つのものが分かれた様子です。

本当は、さべつ(しゃべつ) というものが、はっきり分からないと本当の平等というのは、分からないのです。

 

人の考えで、平等、差別(しゃべつ) を正す事が出来ると思うのは間違いです。

「法」 というのは、差別(しゃべつ) そのものを指しています。

 

差別(しゃべつ) には、必ず法則というものがあります。

その法則に従って行じていくのが、仏です。

 

仏というのは、「只(ただ) に成った人」 です。

只(ただ) に成った人というのは、「自分のなくなった人」 です。

 

私たち衆生の 「今」 というのは、「差別(時間)」 と 「平等(空間)」 が混じり合ったところです。

混じり合ったところというのは、「差別(時間)」 と 「平等(空間)」 がない世界をいいます。

考えると矛盾していますが、それを、「今」 と呼んでいるのです。


差別(しゃべつ)について 3

2016年01月29日 | 法理

「般若心経」 の中の 「色即是空」 の色というのは、差別(しゃべつ)、空というのは平等です。

現象的に見たものが、「色」 の世界です。

 

そして、色の他に空はないという事を直観的に感じてもらうために、「即(すなわち)」 という字が出てきます。

「即(すなわち)」 とは、「異ならず」 という意味です。

したがって、「色即是空」 とは、「色は空に異ならず」 という意味です。

 

私たち衆生の考えの中には 「これは差別(しゃべつ)、これは平等」 というものがあったとしても、物にはありません。

物は、そのもの、それだけで、差別(しゃべつ)でも平等でもありません。

 

「色即是空 空即是色」と は、差別(しゃべつ) も平等も 決められないという事です。

ところが、「決められない」 と、決めてしまうのが人の考えなのです。

 

どんなにしても、自分があるうちは、自分から考えというものが離れないものです。

だから、考えは考えの中で、考えによって無為にならないといけないのです。

 

ひとつのものが、ある時は平等になり、ある時は差別(しゃべつ) となり、決まったものはありません。

みんな縁によって結果が生じるという事です。


差別(しゃべつ)について 2

2016年01月28日 | 法理

差別(しゃべつ)とは、それぞれの法則です。

それを 「法」 とか 「道」 とか、言っているのです。

 

人の法則とは人の為に働くという事です。

山は高い、川は低い、火は熱い、氷は冷たい等々。

全部それぞれのものが、法則を持っているのです。

 

ですから、私たち衆生は、その法則 「差別(しゃべつ)」 のままに、安住(あんじゅう) して、「道(法)」 に従っていく事(平等)です。

 

おシャカ様の一見明星(いっけん みょうじょう )とは、一切のもの 「差別(しゃべつ)」 が

「道(法) そのもの(平等)」であった事に気付かれたのです。

すべての物が、差別(しゃべつ)と平等から成っているのです。


差別(しゃべつ)について 1

2016年01月27日 | 法理

差別(しゃべつ) とは仏教語です。

広辞苑には次のように記されています。

 

ア・ しゃべつ[差別] (シャ は呉音)

    ①(仏)万物の本体が平等であるのに対して、それぞれの個体が具体的な差異をもっていること

    ②相違、区別

    ③分別

イ・  しゃべつかい[差別界](仏) ↔ 平等界(仏)

    万物が差別(しゃべつ)のすがたをとっている現象世界

 

又、差別 (さべつ) について、

ウ・  さべつ[差別]

    ①差をつけて取り扱うこと、わけへだて

     正当な理由なく劣ったものとして不当に扱うこと

    ②区別すること、けじめ

エ・ さべつか[差別化]

    他との違いを明確にして独自性を積極的に示すこと

 

※仏教語辞典では、

差別 (しゃべつ) 即平等

   差別 (しゃべつ) の当相 (ありのままのすがた) が、そのまま平等という理体本質であること

と、記されています。

 

 


人間(にんげん、じんかん)

2016年01月26日 | 法理

広辞苑によると 「人間(にんげん)」 の項で

①に 「人の住む所、世の中、世間、じんかん」 とあります。

 

又、新字源には、「漢文では原則として、人の意と区別して、(じんかん)と読む」 とあります。

即ち漢文では、

「人間到処有青山」 (じんかん いたるところ せんざんあり)

「人間萬事塞翁馬」 (じんかん ばんじ さいおうがうま)

とあります。 

 

「無門関」 の 「平常心是道」 (びょうじょうしん ぜどう) では、

「人間好時節」 (じんかんの こうじせつ) と、読みます。

 

私は旧稿 「衆生について」、「人間(此の物)の構造 1」 で論及しましたが、

私たちは元々一つの種があって、そこから生まれてきたものではありません。

ものの実体というのは、色々なものが集まって出来たものですから、元々あるはずがないのです。

 

「此の物」 というのが一番適切な表現だと思うのですが、

私たちは 「此の物」  を「人(にん、ひと)」 といいますが、「此の物」 は 「人」 ではありません。

「衆生」 なのです。

 

つまり、本来 「すべてのものと同じ」 なのです。

「人」 と認めようがないのです。

 

何故ならば、終始変化し続けているからです。

私たち衆生は六根の働きそのものがあるという事だけなのです。

 

六根の働きは、此の物の機能ではありません。

動植物と同じように働きそのものの状態だけがあるということです。

 

ですから、「人間(にんげん」 と 「人間(じんかん)」 の違いをはっきり認識して

「智慧」 を持ってこの 「娑婆世界」 を活かして生きて欲しいと思います。


不識 (ふしき)

2016年01月25日 | 法理

縁起 (因縁果)の 「法」 にしたがって、生滅と無常を繰り返しながら活動を続けている 「大宇宙の相(すがた)」 は、

「個」 の存在を認めることは出来ません (不識)。

「人間(じんかん)」 もまた、宇宙の活動体の中から生じた活動体ですから、「個」 即ち 「自我」 の存在を認めることは出来ません (不識)。

 

総ては 「自我」 の認識によって束縛や苦悩が生じるのです。

しかし、それらを認識する時間も空間も全く無い (空) が 「事実」 です。

 

その中にあって心の安らぎと自由を成就した覚者(本来の人)は、何時でも何処でも、一切衆生とともに

 「到彼岸(とうひがん)」 「究竟(くぎょう)の地」 に在って修行を続け、停滞することを知らないのです(不識)。

 

「知らぬが仏」 ということばがあります。

これも同じく 「不識」 です。

覚者の 「不識」 と同じでしょうか、異なるでしょうか。

覚者曰く 「不識(識らざる) 最も親切」 と。


分からないということ 4 「人の考え」

2016年01月24日 | 法理

分からないなら、分からないままに、分からない事に一切手をつけない事です。

分からないという事は、悪い事ではありません。

そこに、善悪を離れて「分からない」 という事実があるだけです。

 

「分からない」 というのは悪い事だ、分かる事が善い事だ、というのは、人の考えの上に立った事です。

ここでは、人の考えというものを離れる修行をしなければなりません。

 

本当に分かった、本当に知った、本当に見たという事は、分かったものがなくなった、知ったものがなくなった、見たものがなくなったという事でないといけないのです。

「知って知るものがない」 という事が、本当の智慧というものです。


分からないということ 3 「因果の道理」

2016年01月23日 | 法理

因果の道理というものを、よくわきまえていただきたく思います。

因果の道理とは何かというと、「分からないという真実」 が在るという事です。

 

「分からない」 という「今の自分の真実」 に徹する事です。

よく、「一生懸命になりなさい」 というのは、「分からない」 という事の外に、求めないようにという事です。

おシャカ様の教えは、「分からないものを分からない」 と、証明できる教えなのです。

 

分かることと、分からないことが、対照として考えられている間は、まだまだやるべき事が残っていると思って、精進していただきたく思います。

 


分からないということ 2 「人の計らい」

2016年01月22日 | 法理

「分かる、分からない」は、「人の計らい」です。

自分というものが本当になくならないと、「分かること」は計らいではない、「分からない」方がおかしいと考え違いをしてしまいやすいものです。

 

「分からない」という事ほど、善い事はないのです。

ですから、「分からない」という事に徹していただきたい。

徹するとは、善い事も悪い事もなくするという事です。

 

「分からないもの」を「分からない」ままにしておく、という事ではありません。

「分からないもの」を「分からない」と、どう自分自身で証明するかという事なのです。

 

具体的には、自分の思惑を差しはさまないで、「今の事実」に一切手を加えないで生活することです。

「そのままでよかった」と言う事は、修行(今の事実に徹する)して、始めて知るのです。

 

それを仏教では「新帰元(しんきげん)」 “新しく元に帰る” と言います。