活かして生きる ~放禅寺の寺便り~

娑婆世界を生きる智慧/おシャカ様・禅・坐禅・法理・道のこと

存在者1

2022年01月30日 | 法理

この身体も精神生活も「五官(視覚・聴覚・臭覚・味覚・触覚)」の働きという者(事)も全て、約束(規則)を超えている存在者です。

 

あらゆる物を超え切って、存在しているのです。

 

何も知らなくても、この物(身体)は過不足無く、一杯一杯に生活しているのです。

 

私たち衆生が何の様に思っても、何の様に考えてもそういう事に関係無く、否でも応でもそれがそのまま直に、私たち衆生の生活なのです。

 

この事が、おシャカ様の教えなのです。

 

この事が「今の事実を体得された上の教え」です。

 

「それを私たち衆生に、そのまま(五官のまま)そういう大きな働きをする、存在者それ自身である」という事を、おシャカ様は教えられたのです。


生かして生きる2

2022年01月28日 | 法理

自由と安心(あんじん)を得られぬまま、このままが道であると、高尚な事を言っても何の役にも立ちません。

 

日常生活の全てが何か目的を持った生活の様に、感じられるのですが実はそうではありません。

 

成るべくして成った状態が、今の結果・事実です。

 

ですから其その結果(事実)も、無相でなくてはなりません。

 

道の人に到達する事です。

 

真に(道の人)と成って頂きたいと思います。

 

日常生活の全てを道に見立てて頂きたく思います。


活かして生きる1

2022年01月26日 | 法理

「活かして生きる」とは、「只、生かして生きる事」であり、「法(道)」は「活かして生きる」と云う添え物が付いてはいけないのです。

 

全ては法「道」であると云う道理からすれば、「一木一草(いちもくいっそう)」にも、相「姿」が有(在)ってはいけないと云う事です。

 

即ち本当の「相(姿)」は「相(姿)」が無いと云う事です。

 

「無相を覚知する為の道」は、一般に言われている「目的を持った道」とは、大いに其の内容を異にします。

 

何故ならば「道は、道人(どうにん)でなければ行持(ぎょうじ)られない」からです。


宗教の時代・こころの時代

2022年01月24日 | 随感

二十一世紀は、宗教の時代・こころの時代と云われて居りますが、架空の神や仏を理想として求めるのではなく、「現実の自己の有様を探究して行く事」です。

 

それは「科学的」にもです。

 

そうすれば「煩悩三毒(貪瞋痴)のそのまま」が、求めていた神や仏の相(姿)で在った事に、必ず目覚める事も実証する事も出来ます。

 

私は「現実」を考え「未来」を思う時、「仏法(仏法)」を如何に伝える事が出来るのか、自分に向かって問題提起しています。


真理2

2022年01月22日 | 法理

仏教の教えの根本は、実相無相(じっそうはむそうなり)です。

 

「無相」とは、相(姿・形)が無いと言う事です。

 

「無の相」と言う事です。

 

ですから私「人」と言う魂「霊」即ち実体は、認めようにも認めようが無いのです。

 

ですから私たち衆生は、素直に其のまま受け入(容)れれば善いのです。


真理1

2022年01月20日 | 法理

真理とは、元々自然(じねん)界実相を指し示すお言葉です。

 

自然(じねん)と読む場合は、仏教語です。

 

法「道」は、何時でも何処でも何をしていても、自分が自分を認識する以前から、事実として存在しています。

 

此の事を私は皆さんに「今の事実」と呼んで提示しています。

 

おシャカ様の教えは、「おシャカ様と言う人」が創作した教えではありません。

 

おシャカ様の教えは、「おシャカ様の思想」から生まれた教えでもありません。


信心脱落脱落身心11

2022年01月18日 | 法理

「大悟18遍、小悟其の数を知らず」と云うお言葉が有(在)ります。

 

そう云う事を聞かされて何回も何回も悟らなければ、本当の悟りが得られない様に思いますが、それは一方から言いますと、ちょっと変化が有(在)ったのです。

 

その変化は小さいのと大きいの違いであって、矢張り底抜けでは無くて、途中辺のあり方なのです。

 

本当の悟りと言う物は、「終わり初物」と、有る様に一回限りのものです。

 

それはどうしてかと言いますと、見たいと思っていた物を一回見たら、もうそれで疑惑は起きないのです。

 

「事実を見た」のですから。

 

ところがそれに疑惑が起きるのでしたら、それは本当に見たのでは無くて、何処か見損いなのです。

 

何かが在ったのです。

 

それですから、そういう様な物を、悟りとか見性とか云ってごっちゃにするので、それで色々に、悟りと云う物に批判が出るのです。


身心脱落脱落身心10

2022年01月16日 | 法理

法身としての自己に徹した「真の忘自己、身心脱落」にも拘わらず、再び悟りを得た人を認める事は、「自分が未だ残っている、自我が死に切っていない大死一番が出来ていない」と、云う事なのです。

 

この大きな誤りを知らないので、元来自己無きを知りながら、誤って自己の見を生じ、「悟りの病」にこの身心を法の如くに、血涙を以って修行するも、自在に成らないと嘆く人がいます。

 

この事は、皆この「一大事を明らめず身心脱落と脱落身心の違いを知らない為」です。


身心脱落脱脱落身心9

2022年01月14日 | その他

ですから「眼横鼻直なることを認得して仏法無し」と。

 

又「参学の大事ここに了(おわ)りぬと」明確に述べられているのです。

 

「身心脱落」してもう一つの「脱落身心」をした様子と云うのが、「波羅提木叉(はらだいもくしゃ)」と云う「個々の脱落」と云う事なのです。

 

お釈迦さまも「遺教経(ゆいきょうぎょう)の中で、はっきりと述べられて居ります


信心脱落脱落身心8

2022年01月12日 | 法理

道元禅師のお言葉には「この故に万法ともに我にあらざる時節まどひなく悟りなく、諸仏なく衆生なく生なく死なし」と。

 

これが「忘自己の実現」です。

 

これに於いて始めて「本源自性天真仏、本来の面目」が、実現するのです。

 

道元禅師の師である如浄禅師と道元禅師の有(在)り方を見るに、忘自己の一刹那から自覚を得る時の一刹那、自己が先に起こるか、法が先に起こるかに依り、此の一刹那に声聞に成るか本来の面目と成るか危機一髪の処が有(在)るのです。

 

如浄禅師が「一々(いちいち)が自己の見解(けんげ)を離れた様子ではないか」と、直下(じきげ)に本来面目自体を示されました。

 

ここに於いて如浄禅師が明眼(めいがん)の師 成るが故に、此の危機一髪の処を示されたのです。

 

これに因って道元禅師もこの危機から脱する事が出来たのです。

 

如浄禅師の明眼の重大性を深く感じられる処です。

 

幸いに道元禅師は悟後の修行と云う訓練の、用がないまでに「大悟(だいご)徹底」せられたのです。