活かして生きる ~放禅寺の寺便り~

娑婆世界を生きる智慧/おシャカ様・禅・坐禅・法理・道のこと

人間(にんげん)の構造3

2023年11月29日 | 法理

次に精神の作用は「受・想・行・識」の四つから成り立っている心の働きです。

 

①受  向こうから受け込んで来る全ての物の感覚です。

②想  想像して是非善悪を判断する作用です。

③行  これは活動です。次々に起こしていく意識の作用です。

④識  「分別(ふんべつとは仏教語です)」する作用です。

 

私たち衆生は六根の働きその物が有(在)るという事だけなのです。

 

ですからその事は何ら「自己と認めるべき何物も無い事」なのです。

 

六根の働きは人間(此の物)の機能ではありません。

 

動植物と同じように「働きその物の状態だけが在る」という事なのです。


人間(にんげん)の構造2

2023年11月27日 | 法理

人間の構成から考えてみると、六根という「眼(げん)・耳(に)・鼻(び)・舌(ぜつ)・身(しん)・意〈こころ〉」という働きがあります。

 

その六根の受け皿として六境という「色(しき)・声(しょう)・香・味・触(そく)」があります。

 

一般的には五根といい、感覚を生ずる「視・聴・嗅・味・触」をいいます。

 

仏教では五根といい、感覚を生ずる「眼・耳・鼻・舌・身」をいいます。


人間(にんげん)の構造1

2023年11月25日 | 法理

人間の構造は例えば分けていえば、「肉体と精神」という事です。

 

肉体を仏教では色(しき)といい、「地水火風」という「四大(しだい)」で構成されています。

 

①地  固いもの、即ち骨肉です

②水  湿気を含んだもの、即ち血液です

③火  熱を含んだもの、即ち熱です。

④風  動くもの、即ち呼吸です。

 

これらの四大が因縁和合して「人間や物(万物)」を形成しているのです。


人間(にんげん)の体2

2023年11月20日 | 法理

人間の体は全てがそういうように集まって来ていますから、自分の生まれた事も、自分の死ぬことも分からないのは当然の事なのです。

 

人間の「意(こころ)」の働きもまた、分別する道具ではありません。

 

「それだけのものでしかない」という事です。

 

人間の体は「何に因って好きだ、嫌いだ、美味しい、美味しくないというものが働いているのだろうか」と問題になっていかなければならないのです。

 


人間(にんげん)の体1

2023年11月18日 | 法理

人間(にんげん)の体は「五根」という「眼(げん)・耳(に)・鼻(び)・舌(ぜつ)・身(しん)」に因って認知された対境としての「五境」即ち「色(しき)・声(しょう)・香(こう)・味(み)・触(そく)」という道具立てで構成されています。

 

みんな器機・機能で構成されていますから「そのもの自体」には考える力は有(在)りません。

 

例えば眼で物を見ると言いますが、眼は分別する道具ではありません。

 

機能の働きには分別するものは持って居りません。

 

例えば舌の上に辛い物を乗せても、舌には辛いという事を分別する道具ではありませんから「舌自体」は辛いとは言いません。

 

そういうように人間(にんげん)の体というのは全部道具と同じようにそれぞれにはそれぞれの働きが無いのです。


六根無作為(ろっこんむさい)

2023年11月16日 | 法理

例えば音は耳から自然(じねん)に入って来るだけで、聞こうと思って聞いている人間(にんげん)は誰一人いません。

 

「人間(にんげん)の体」にはみんなそういう自然(じねん)の働きが有(在)るという事です。

 

「物を見なさい、嗅ぎなさい、味わいなさい、歩きなさい、考えなさい」と命令を出す人はいません。

 

誰も居なくても「人間(にんげん)の体」はきちんと働きのままに迷わず、しかも規則正しく何の間違いも無く出来る、そういう働きが有(在)るのです。

 

この事を仏教では「六根無作為(ろっこんむさい)」といいます。


「人の世」について3

2023年11月14日 | 法理

「今」仮に「人の世(迷いの世界)」に「正しいもの、真実のものが存在するのであろうか」という考えを起こしたとします。

 

そうすると「何か正しいもの、真実のものが存在するのではないだろうか」と、また、その「ものの見方、考え方」を対象として「ものの見方、考え方を起こす」という事を知(識)っておいて頂きたいと思います。

 

「意識(認識)」とは働きです。

 

「人(この物自体)」の中に有(在)るものではありません。

 

「人(この物自体)」というものは、自分が認めた「存在(所産)」なのです。


「人の世」について2

2023年11月12日 | 法理

「真(しん・まこと)」というのは「今の自分の状態」です。

 

仮にそれがどんな状態であってもそれは「真実」なのです。

 

ただ、自分がそれを「真実」だと気が付かない為に「他に求めてしまう」のです。

 

今の状態の他に真実というものはあるはずが在りません。

 

ものの見方、考え方を取り除きさえすればそこには「真」だけしか在りません。

 

ですからものの見方、考え方さえ止めさえすれば「真」を求めようと思わなくても自ずから「真」が現前しているわけです。


「人の世」について1

2023年11月10日 | 法理

「人の世」とは「迷いの世界」ということです。

 

「分かる分からない、信じる信じられない、正しい正しくない、合う合わない、善い悪い、好き嫌い、許す許さない等々」です。

 

「ありとあらゆる存在はそれはそれとして存在しているだけで在り続けている」のです。

 

「存在そのもの」は何物でもありません。

 

自分は何様でも何者でもありません。

 

ですから自分がありとあらゆるものとの「結び目」を無くするように努めていくのが修行の要点なのです。


一所懸命に坐るとは

2023年11月04日 | 坐禅

「一所懸命に坐って下さい」ということは「今の事実(坐禅)に手を付けてはいけない」という意味です。

 

「じっと今の事実(坐禅)を守りなさい、一切解決の方法を見出してはいけない」ということを言っている訳です。

 

「今の事実(坐禅)の状態」にどれだけ任せ切れる」かが問題なのです。

 

別の言葉で言えば、「じっとそこで坐禅そのものに成りつぶれる」という事を「一所懸命に坐る」というのです。