活かして生きる ~放禅寺の寺便り~

娑婆世界を生きる智慧/おシャカ様・禅・坐禅・法理・道のこと

ただ坐れる人2

2017年03月02日 | 法理

私たち衆生は結果として、いつでも「今の結果」にあるわけです。

ところが「求心(ぐしん)」、つまり求め心がなかなか無くならない

ために、「今の結果に安住出来ない」のです。

安心してその中にいられないのです。


結果というものに「善悪」はありません。

善くても悪くても結果です。

 

結果は今で言えば証拠ということになります。

その証拠に自分自身が任せることが出来ないということです。

 

「須弥山(しゅみせん)の如く結果に任す」、

そういう境涯になるために、しばらく「ただ」という言葉を

借りて修行をし、「ただに成る」べく、努力するということです。

 

しかし、それが全てではありません。

昔の方々が、「このように修行をしたらあまり苦しまずに坐る

ことが出来ますよ」ということから、たまたま「祇(只)管打坐」

「公案功夫」という、そういう「方法・手段」を残していかれたのです。

 

私たち衆生は、しばらくその手段・方法を借りて修行するのです。