活かして生きる ~放禅寺の寺便り~

娑婆世界を生きる智慧/おシャカ様・禅・坐禅・法理・道のこと

結論

2024年08月22日 | 随感

成(為)すべき事を只、一所懸命に務める、又は成(為)すべき事を成(為)すだけで足りるようにしていくということです。

 

他を認めてそれに因って「生き甲斐」を感じているのだったら、そういうものが無くなった場合は如何なるかということになります。

其れでは「真の生き甲斐」にはなりません。

 

他の何物をも期待せず、本当に自分が一人に成って「個」に成り切ることです。

他の為に生きるのではなくて、「自分の為に自分が本当に生きている」ということが「真の生き甲斐」です。

 

しかし、人間というものは、絶えず他との関係、例えば人との関係・ものとの関係など関わり合いの中に在るものですから、如何しても其れの方が本当のように思えるものなのです。

 

「自分の為の自分」という処に視点を置いて日常生活を営んで行けば「仏道(仏法)」を知(識)らないという人でも、「道(法)と一つに成る」という時が必ずあります。

 

人間というのは、最初から目的を持って生まれて来ているものではありません。

別の言葉で言えば生き甲斐だとか、他の為に働かなければならないだとか、というような目的を持ってこの世に生まれて来たのではないのです。

 

ある時期からいろんな知識に因って「そういうように生きて行かなければならない」とか「そういうように行くべきだ」とか、「人の為にどうか」というようなことを自分でも考え、人からも教えられてやってきたのです。

 

しかし、其れは後から作り上げられたものです。自分のものではありません。

ですから人間は如何しても最初の生まれた時に戻ってみる必要があるのです。


人の人生2

2024年04月19日 | 随感

過去を顧みて現在の誡めとするのはよい事です。

 

しかし何時までも取り返しのつかない過去に引っ掛かっていては愚の骨頂です。

 

また、先のことばかりに引きずられて行くのは誇大妄想です。

 

古歌に、「過去を思い 未来をここに引き寄せて 今現在を常闇(とこやみ)にする」とあります。

 

今日あっても過去です。今日あっても未来です。

 

否、過去も未来も「今日(即今)と成って現成(げんじょう)している」のです。

 

「今日なくして一生なし」。

 

今日を完全に送る人は「聖賢(せいけん)」です。

 

「地限り 場限り」と白隠禅師は何時もいわれました。

 

「その場その場を空しくするな」という意味です。


人の人生1

2024年04月16日 | 随感

人の人生は、若い人はこれから先が有(在)ると思っています。

 

老いたる人は過去の夢をたどって人生としています。

 

これは全く間違いだと思います。

 

「人の一生」は今日の積もったものです。

 

「今の積もったものが一生」ではないでしょうか。

 

例えば、「一千万円」は「一円」の積もったものです。

 

「一円」を欠いても「一千万円」にはなりません。

 

今なくして一生はありません。

 

過去は既に過ぎ去り、未来は未だ来たらず、です。

 

ですから「人生は今日(今)に在り」と、いわなければならないと思います。


格言6

2023年04月12日 | 随感

「解脱」に到るためには、誰のものでもない、その人自身の表現(行為)こそが非常に大切です。

 

地上に多くの人がいるのは、それぞれの人に異なった役割をしてもらうためであり、同じ表現(行為)を二度とする必要は全くありません。

 

外側に否定的なものが見える時には、自分の心の中にそれを「現象化させている否定的な波動」があるのです。


格言5

2023年04月10日 | 随感

意識の未発達の段階では、外の世界に現れている現象が、自分の想念に因って造り出しているものであるという事に気付かず、実体のあるものとして認識してしまいます。

 

それに翻弄されて不必要な混乱を招いている場合が非常に多くあります。

 

ひとりの人間(にんげん)の周囲の出来事は、その人の出している波動に因って現象化されています。

 

何もしていない様に見えても、いつもニコニコして暮らしている人の方が、世の中には貢献しています。

 

何ということもない、日常の生活のひとつひとつに正しく関わっていくことが、人間(にんげん)の究極の望みの目的にとって最も大きな効果があり、しかもその人にとって最短の進歩を与えてくれます。


格言4

2023年04月08日 | 随感

「法」をもとめるどんな努力も「最後まで続けた人」だけが、「解脱」に到るのです。

 

人間(にんげん)が地上に肉体を持っているという事実は、人間の数だけそれぞれの人生を通して「修行方法」が用意されているという意味です。

 

私たち衆生は原則としては「真理」を自分自身の内側に向けて求めるべきであり、外側の誰かに対して求めてもそれを得ることは出来ません。

 

しかし、その一方でどんな人でも最初は「迷いの真っ只中にある自我意識の状態」から始めなければならないのです。

 

「人を呪わば穴二つ」というお言葉がありますが、否定的な想念を誰かに向けたようなときは確実に自分が害を受けることになります。

 

これは「カルマの法則」です。


格言3

2023年04月06日 | 随感

どのような宗教集団であっても「自分意識の人間(にんげん)」が関わっている限り、その教義や活動に多かれ少なかれ問題が生じてしまいます。

 

私たち衆生は人間(にんげん)としてのおシャカ様という「人格(個性)」を考えてはいけないし、又そのような「人格(個性)」も想像してはいけないのです。

 

何故ならば、こうした考えが「法(真理)」を識るうえで私たち衆生の目を覆うからです。

 

誰かに追随することは易しいです。

その人物が大きければ大きいほど、追随するのは容易となります。

 

しかし、それは「本人の解脱」にとっては妨げとなります。

何故なら、「追随する者(その人物)」は、決して「解脱」するものではあり得ないからです。

 

「追随と随身の識別」ははっきりしなければなりません。


格言2

2023年04月04日 | 随感

必ず来る最後をふだんから考えている人は、生きるとはどういうことか、最後はどう締めくくるべきかの覚悟が出来ています。

 

死は自分の思いを越えたところで起きるので、自分の思い通りにはいきません。

生き方は自分の思いの範囲内で充実させることが出来ます。

 

ですから、結果を気にせず、しかも死は視野に入れながら思い通りに出来る範囲の事を思い通りにすればいいのであって、あとは「おまかせ」です。

 

「人事を尽くして天命を待つ」のではなく、「天命に任せて人事を尽くす」のです。

 

「有難(うなん)」とは、人の生を受くるは難く、限りある身の今、生命ありは有り難し。


格言1

2023年04月02日 | 随感

人の為 と書いて「 偽(にせ)」と読みます。

また、人の夢 と書いて 儚(はかない)と読みます。

 

運動 とは 運を動かすこと、つまり行動すること。

出会いは人の心を広げてくれるし、別れは人の心を深くしてくれます。

 

「人の役割」とは、老いる姿、死にゆく姿をあるがままに後継者に「見せる、残す、伝える」ことです。

 

命が残されているという事は、今何歳であろうと、まだまだしなければならないという事があるをいう事。

 

「忍」とは心の上に刃(やいば)を載せて生きていくこと。

 

我々の人生というものは、生きて死ぬまでの「間」でしかないのです。

 

「健康」は人生を豊かに生きる「手段」であるはずなのに、いつの間にかそれが「目的」になってしまっているようです。


農耕民族と狩猟民族2

2022年06月07日 | 随感

日本は「島国」である事に因って、「女性性」の特性である「助け合う心」と「団結力」は、特に戦後欧米諸国、特にアメリカに比べて、「女性性」としての意識があり、外敵(征服しようと画策する民族)から守られて来たと思います。

 

日本は逆に言えば、「島国」と云う「逃げ場の無い場所」なので、お互いが助け合わなければ生き長らえる事が困難だったのではないかと思います。