「道」と名の付くものはことごとく「自分を滅する」一つの方法として有(在)る訳です。
確かにそういう「道」に因って「自分を滅すること」は出来ると思います。
「道」とはそういうものですけれども、肝心の「指導者」が少ないと思います。
それが、私が「末法」を深く感じるところなのです。
その為に、「道」は有(在)ってもどのようにして「道」に到達するのかという「方法や手段」が教えられていないという、非常に寂しい事情が有(在)ります。
古人曰く、”人の不幸は早く人の師となるより甚だしきはなし” と。
自分が腑に落ちていないのに、それが自分のもののように、”真実であるかのように” 話すことは注意が必要です。
自分が実感していないことを知ったふりをしないことです。
知識が智慧に成っていない「無知の知」では駄目なのです。