活かして生きる ~山里の寺便り~

娑婆世界を生きる智慧/おシャカ様・禅・坐禅・法理・道のこと

涅槃寂静

2017-06-11 04:00:00 | おシャカ様

おシャカ様はある年の十二月八日に夜明けの明星を見て

「涅槃」に入られたのです。悟りを開かれたのです。

 

「ものと一体に成った」ということを「涅槃」といっています。

 

二千五百年前のおシャカ様のお言葉を拝借すれば

「今の私たち衆生の状態である、貪顚痴の煩悩の中に

いながらそのままが涅槃だ」といって居られます。

 

「大信根を持ち、大疑団に成り切りさえすれば今のままで

涅槃寂静(ねはんじゃくじょう)であることに気が付きますよ」

と、それが「おシャカ様の教え」なのです。

 

そういう教えを「成る程」と信じて、「それでは自分も実際に

やっていこう」と発心(ほっしん)して頂きたく思います。

 

これを「教外別伝(きょうげべつでん)の法」といっています。

 

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天上天下唯我独尊

2017-05-18 03:03:00 | おシャカ様

修行していく態度というのは、自分の考えというものを一応

忘れて頂かなければなりません。

 

何故ならば自分というものの考えは小さいからです。

 

「道(法)」を得ると今度は皆さんそれぞれの素晴らしい

考えをお持ちなのですから、そういうものを広く、大きく

深く広げていけるようになります。

 

「自分を無くす、無にする」という本来の意味は、考えないで

いいんだとか、考えてはいけないんだということではありません。

自分を大きくすることです。

 

おシャカ様のお言葉を拝借すれば「天上天唯我独尊(てんじょう)

てんげゆいがどくそん)」です。

 

このことは、おシャカ様だけが「天上天下唯我独尊」なのでは

ありません。

 

「自分を忘れた時(同時成道の時)」に、そういうお言葉を

発せられたのです。

 

ですから、すべての一人一人がみんな「天上天下唯我独尊」

なのです。

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教外別伝(きょうげべつでん)

2016-12-28 04:43:00 | おシャカ様

「教外別伝(きょうげべつでん)」 というお言葉があります。

「教えの外の教え」 ということです。

おシャカ様の教えというのは、すべて方便です。

 

したがって、

「今、なんとかしなければいけない、このままではいけない」

ということは、おシャカ様の教え、あるいは歴代の

覚者といわれる方々のお示しによって、そのお示しに従って

「その道を歩く」

ということ、そして

「一歩一歩月への距離を縮めていく」

ということです。

 

そうでないと、修行ではないことになります。そして、

「法も、道も忘れ、月も忘れすべて忘れる必要がある」

ということのために仏祖の教えというものは

あるわけです。

 

ほとんどの仏教教団の教えというものは、みんな

仏教を理解した概念の中からの教えに従って

成り立っています。

 

ですから 「教外別伝の法」 というものが、すっかり

忘れられてしまっている状態です。

「教外別伝」 は 「死語」 になってしまいつつあるということです。

 

それではいけないということで、一部では

「摂心(せっしん)」 〈 心をおさめる修行 〉

が行われています。

 

「このままでよかったんだ、これ以外に

法というものはないんだ」

という、そういうことに目醒めて頂きたく思います。

 

「今の自分のそのままに、様々な心の動きというものを

”成る程、そうか” とうなずくだけのこと」 です。


 

 

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修行の要訣2

2016-10-28 06:09:00 | おシャカ様

何故、この身の中に自分を支配している何かがあると思うのでしょうか。

その思いが、「自我」 なのです。

 

「自我の迷執」 という言葉の意味は、「自我があるという思いに迷わされている」

ということです。

 

何処を探してもそんなものがあるはずがないのに、「ある、ある」 と

有限なものにしてしまっているのです。

 

この有限な自我というものを、「忘れさえすれば(見極めれば)」、

縁起によって出来ているすべてのものと、全く一つに成ることが出来ます。

 

そのことを、おシャカ様は

「天地と我と同根、万物と我と一体」

と、はっきりとお示しになって居られます。

 

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修行の要訣1

2016-10-27 04:37:00 | おシャカ様

修行の要訣は 「自己を忘れる、自己の正体を見極める」 ことのみです。

自分という存在があると思っている間違いを、明確に、

「成る程、間違いだったか」 と、自分自身で納得することです。

 

私たち衆生のほとんどが、この身の中に自分を支配している

何かがあるように思っています。

しかし、この身の中に中心になるものは、何もありません。

 

即ち、人をも含めてすべてのものは 「地・水・火・風」 という

四大によって形成されているということです。

 

もちろん、「地・水・火・風」 という四大もまたそれぞれの因縁によって

出来ていますから、人をも含めてすべてのものに 「私(我)」 という

中心を認めることは出来ません。

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修行の目標

2016-10-24 00:30:32 | おシャカ様

おシャカ様は四十九年の説法において、

「私を信じなさい」

ということは一言も仰って居りません。

 

おシャカ様が常に言われたことは、

「法を信じなさい (法灯明)、自分自身を信じなさい (自灯明)」

ということだけです。

 

このことを 「成る程、そうだ」 と、“信決定(しんけつじょう)” しなければならないのです。

そうしないと、「修行の目標(道は自己の正体を見極めること)」 になりません。

 

しかし、現実には 「目標」 をおシャカ様の教えや、その他の中に求めて

しまうので、中々そうはならないのです。

 

「信じる」 ということは、「信」 が残っていてはいけないのです。

「信じる」 ということは、自分があって信じる訳です。

 

本当に何かが信じられたのであれば、「信」 というものがなくならないと

いけないのです。

「信」 というものが離れないといけないのです。

 

そのことはよく知っておいてもらいたいと思います。

 

「信じる・疑い」 というのは、あくまで 「人の考えの中」 のものです。

そういう 「信じる・疑い」 のなくなった状態を、「道」 とか、「法」 とか、

「今」 とか、「今の事実」 とか、「今の自己の様子」 とか言っている訳です。

 

 

 

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おシャカ様の智慧5

2016-05-26 04:35:00 | おシャカ様

「此の物(自分自身)」 は 「空」 のようなもので、何もない処と同じです。

「此の物(自分自身)」 は全く 「自我」 のないものです。

「何も知(識)らない」 のです。


何も知(識)らないのに、話せば聞こえて、前のことが無くなって

いくらでも無限に展開します。

「此の物(自分自身)」 は限りない活動者なのです。


そういう 「自分の本質」 というものが 「今の事実(様子)」 なのです。しかも、

「円(まどか)なること太虚(たいきょ)に同じ、欠くることなく余ることなし」

とのお示しがあります。


如何なる大きな景色でも一飲みにし、如何なる針のような小さな世界にでも

容易と生活(活動)が出来るのです。

それが、私たち衆生の 「自己の様子」 なのです。


どうしてそうならなくてはならないのでしょうか。


しかも小さいものにも、大きなものにも一つに成って少しもずれが無いということです。

何時も 「実質的」 にきちんとした生活(活動)が誰にでも出来ているのです。


それが 「今の私たち衆生の本来の姿」です。

これを得るには 「坐禅」 に依る外はありません。

これが、「おシャカ様の智慧」 です。


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おシャカ様の智慧4

2016-05-25 05:11:00 | おシャカ様

「今の瞬間」を「今の瞬間」にいて、その時に、「次の瞬間」に

この自己の上に何が起こってくるかを予期(予測)出来るでしょうか。

 

考え方としては、これが済んだらこうしたりああしたいという、そういう予測は

あるのですが、それは「観念としての予測」です。

 

「事実(今の事実、現実)はそのような予測をつけていつも思いもよらないこと

(今、外で外の車の音が聞こえます)が起きると  「ころっと」 そうなってしまいます。


「此の物(自分自身)」は「 自我無き存在者 」なのです。

そういう素晴らしい自由な「自分の真相」を本当に徹見して頂きたいと思います。

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おシャカ様の智慧3

2016-05-24 03:05:00 | おシャカ様

おおよそ人間(にんげん)は、「人間同士」として「自我」というものを

認めています。

そのような「自我を認めた世界」へ「自我を認めない人」が出現して

そして、「皆の本質を皆知(識)られた」のです。

 

私と同じ生活を同じように皆生活していながら、苦労をするということは

どういうことなのか、それは「“私が”という先入観念に取り付かれて

「事実(今の事実、現実)」がはっきりしないから苦労しているのですよ」と、

そういう事をおシャカ様ははっきりとお示しになったのです。


「此の物(身体)」に永続的な実体はありません。

私たち衆生の生活としての実質的な生活といえば「今の事実、今の瞬間」

にしかありません。

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おシャカ様の智慧2

2016-05-23 03:19:00 | おシャカ様

おシャカ様は何を中心に捨てられたのでしょうか。

 

おシャカ様は、「私が、という観念」 を中心にして凡てを見ること、それだけが今までの

修行だったのです。

 

しかし、それではどんなにしても 「解決」 がつかなかったのです。

 

「この問題(自己とは何か、真実とは何か)」 の解決がつかなければ

どうしようもないではないかと思い、そこで、「私が、という観念的な取扱い」 を

凡て手放されたのです。


手放してみたら何時の間にか本当に 「自我心」 というものの無い世界に

入っていたことに気が付かれたのです。


それに気付いてみたら、今まで人間(にんげん)が 「自我」 を

認めていた為に余計な苦労をしていたことに気が付かれたのです。

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