ここにおいて「おシャカ様の大慈大悲」の在る事を知(識)らなければなりません。
「法が滅びるぞ」というのは、「法を滅ぼしてはいけない」という意味が在るのです。
「弱いやつだ」とは、強くなれよという慈悲がこもっているのです。
「馬鹿だな」とは賢くなれという事です。
「滅盡するぞ、濁っているぞ」とは永久に成れよ、清く成れよという意味なのです。
これが即ち「正像末」の三時を立て「法滅盡経」を説いた「おシャカ様の真(深)意義」なのです。
ここにおいて「おシャカ様の大慈大悲」の在る事を知(識)らなければなりません。
「法が滅びるぞ」というのは、「法を滅ぼしてはいけない」という意味が在るのです。
「弱いやつだ」とは、強くなれよという慈悲がこもっているのです。
「馬鹿だな」とは賢くなれという事です。
「滅盡するぞ、濁っているぞ」とは永久に成れよ、清く成れよという意味なのです。
これが即ち「正像末」の三時を立て「法滅盡経」を説いた「おシャカ様の真(深)意義」なのです。
おシャカ様が「正像末」を説いたのは、私たち衆生の怠慢を戒め、裏面には私たち衆生の惰眠を覚ましたかったのです。
ですから「回向文(えこうもん)」にも「末法を正法にかえし、群生(ぐんじょう)を無生(むしょう)に導き給え」と在ります。
「法滅盡経(ほうめつじんきょう)」に依れば末法に入ると「法」は凡て滅盡すると在ります。
いまや仏教を研究するのはほとんど無駄のように見えてしまいます。
何故ならば「今」が「末法の真っ只中」だからです。
おシャカ様は「正、像、末(しょうぞうまつ)」の「三時」をお説きになりました。
「正」とは證(さとり)という事です。
おシャカ様入滅後も正しく證果を得る者も在り、行もありました。
これが「正法時」です。
正法千年、像法千年、末法万年というのが「大悲経」の説にあります。
「像法」とは、「像」は似るという意味です。
教在り、行在りで證果無く、「像似(ぞうじ)」の仏法が行われている時を「像法時」といいます。
「證果」の無い教行は本物ではありません。
似て非なる物であることを知(識)らねばなりません。
「末法」の「末」とは微(かす)かの意味です。
微末にして、ただ教在りて行無く、證果の無きを「末法時」といっているのです。
時に「正像末」在りといえども人は自在で在り無自性です。
「為せば何事も成し遂げるもの」です。
始めからいちいち、そういうふうにすっかり解脱した境界(きょうがい)に誰でもいるのですが「そんなことが」という気がするものです。
「そんなことが道なのか」と思うのです。
それだから困るのです。
「道」というものを遠いところに求めて理想を描くからです。
人間(にんげん)が理想を描いていると、如何にも立派そうですけれどもそれが「迷いの根」なのです。
それを知(識)らないのです。
ほとんどの人が如何すべきか、何処が本当なのかちっとも分らずに乱れ騒いでいるのです。
「仏教」というものは、そういうものの中心をきちんと今教えているのです。
おシャカ様はそういう「尊い道」を教えられたのです。
「仏道の教える道」は私たち衆生がこれから立派な者に成るのではないのです。
これから解脱するのではないのです。
私たち衆生は最初から解脱していたという事なのです。
私たち衆生は忘れているのです。
ですからそういう事に私たち衆生は気付いてみる事が大切なのです。
それは何故かというと、おシャカ様が「大悟(だいご)」された時に「一切の衆生は如来の智と徳と相とを全部具えているではないか」とおシャカ様ご自身がそのように宣言して居られるからです。
「仏道」で言う「「救われる」ということは、外の人を救うのではありません。
自分自身が自分自身を本当に救う道なのです。
それを教えられたのが「仏祖」です。
それですから「おシャカ様は尊い」のです。
「何とかして正覚(しょうがく)を得なければならない」という事、ただそれだけだったのではないでしょうか。
今の多くの坐禅をしている人達の問題は一切問題ではなかったと思います。
繰り返しになりますが、「何とかして、どうにかして正覚を得なければこの坐を立たない」というその「菩提心」だけなのではないでしょうか。
他の事はもう問題ではなかったと思われます。
そういうものが無くして、只、坐禅の手段や方法だけを問題にしている間は「それだけ」に過ぎません。
そこのところを、もう一度よく自分で「本当に道(法)を求める心構えに成っているかどうか」という事を考えて頂きたいと思います。
おシャカ様は坐る上に於いては指導者はいなかったのです。
ところが、今の多くの坐禅をする人たちは「どのように坐ったらいいのだろうか、どうしたらよいのだろうか」という事だけが問題になっているのです。
「どのような坐り方によって悟りを得られるのだろうか」という事だけが気になっているのです。
ですから、おシャカ様の坐禅と自分の坐禅とは全然違うという事に気が付いてもらわなければなりません。
おシャカ様は自己を苦しめることによって解脱が得られると思いましたけれども、そうではなかったことに気が付かれました。
そして自分が正しい解脱を得ることが出来なければ「この坐を立たない」という固い決心の元、(今でいえば坐禅ですけれども)坐られたということです。
おシャカ様は歴史の上では非常に立派な坐禅をしておられたように書かれていますが、「事実は身も心もボロボロ」になった様子であったに違いありません。
おシャカ様は夢から覚められた様子を四十九年間にわたり、説法して歩まれました。
それを後世の人たちが「仏の教え=仏教」と呼ぶようになったわけです。
当時のインドには九十六種もの宗教や哲学が在りましたが、それらの経典や思想などを一切邪魔扱いせず、ことごとく自らのものとして語られたので「八万四千の法門」が成り立ちました。
その法門(おシャカ様の教え)に従って私たち衆生も「宇宙のあらゆる事実(法、法則)」に「目醒める修行」を世さていただいているのです。
一体おシャカ様は何を悟られたのでしょうか。
実は長い間夢を見ていた事に気が付いたのです。
夜明けの明星は何時も時間を違えずに在り、それ迄もずっとご覧になって居られたに違わないのです。
けれども、在る日刹那に本当に「自他」を離れてご覧になったという事です。
おシャカ様は「生老病死」という、人生の根本苦から解放されなければ、安心(あんじん)は無いだろうと一生懸命に菩提樹の下で座って居られたのです。
それがたまたま「十二月八日の夜明けの明星」をご覧になって「なあんだ、迷ったり不安に思うものなど始めから無いではないか安心や悟りなどというものは最初から在りはしないのだ」という事に気が付かれたのです。
そういう夢から目覚められた人を「覚者」或るいは「仏」といい「悟りー解脱」といっています。
そうして初めておシャカ様は、気が付かれたのです。
おシャカ様は、一体何に気が付かれたのでしょうか。
その事を私は「今の事実・今の自己の様子」と、皆様に提示しているのです。
これこそ今までかつて人間の考えた事無い、手の付けた事の無い一番必然で、当然の事である筈なのに、何故「この事(今の事実、今の自己の様子)」を捨てていたのだろうか。
そういうような事に気が付かれ、それに徹底せられたのです。