「いつも天地一枚」なのです。
「理(理屈、平等)」は「事(事実、差別)」によって證明され
「事(事実、差別)」ばかりが独り立つものではないのです。
「理即事」「事即理」ということをわからなければ世の中は治まりません。
凡ての現象は水の上の波の様なものです。
水を離れて波はありません。
「本体は同じ」なのです。
「本体」はいつも「無事」でなくてはなりません。
「いつも天地一枚」なのです。
「理(理屈、平等)」は「事(事実、差別)」によって證明され
「事(事実、差別)」ばかりが独り立つものではないのです。
「理即事」「事即理」ということをわからなければ世の中は治まりません。
凡ての現象は水の上の波の様なものです。
水を離れて波はありません。
「本体は同じ」なのです。
「本体」はいつも「無事」でなくてはなりません。
いやしくも「事(差別)」というものが存すれば必ず「理(平等)」という
ものが伴うものなのです。
例えば、「地」が在れば「天」がこれを蓋うし、「天」が在れば「地」が
これを載せるのです。
「道」はわずかの間も離れることはありません。
「離れるべきは道にあらず」なのです。
「事柄、物柄」というお言葉があります。
「事柄」とは、物にはことごとく「差別(しゃべつ)」があるのです。
それを「事(じ)」といいます。
いろいろ様々に「因縁」が異なっているので一つとして同じものはありません。
皆、異なって相まって世の中に活動し、進化していくことが出来るのです。
「坐禅」をすると全く一つに成ります。
「坐禅」ばかりになります。
自己を認めようがないのです。
「相手」がなくなってしまうのです。
問題は一体誰を相手にするかということです。
自己が自己を努ることが出来るのでしょうか。
よくよく考えて頂きたいと思います。
「元来ひとつのもの」なのです。
いろいろな因縁によっていろいろ異なっているばかりなのです。
「一朝成る程と合点がいった時」、何事も愛せざるを得ないのです。
わざわざ愛するというのではありません。
全く一つのものの別れですので「自然(じねん)に」愛せざるを得ないのです。
しかしながら、悪いことを勧めるのではありません。
勧めるのではないですが、そういうことはしないように何処までも
「生き如来」にならなければならないのです。
「生き如来」の有難いのはどういうことかというと、「精神が清らか」なのです。
精神さえ立派ならそれで人にも信用され、世の中に長い生命を保って、
天に恥じず地に恥じず、悠々たる生涯を送ることが出来るのです。
世の中は事柄によっては「物の軽重」ということがあって、重きを採って
軽きは捨てるのです。
人を使うもそうです。
人に長所の採る所が有ったらそれを取り、悪い短い所は捨てて採らないことです。
そうしないと、人は悪い方から採るというと使う者がなくなってしまいます。
この癖がある、彼の癖があるといっていたら、もう、人というものは癖の無い者は
ないのです。
「無くて七癖」といいますから、その良い方を取るのが宜しいのです。
孔子の教えに「人の一善を見て百非を見ず」というお言葉があります。
人の百非を見ずというのは、人には百の難があるのです。
百の悪いことがあっても一つの善いことを見れば、その百の悪いことは
構わない、孔子はそうでした。
人にどういう悪いことがあっても、一つの善いことがあればそれで沢山だと
いっているのです。
「聖人(せいじん)」は皆そうです。
これを混沌の持っている本質を他の人の考えに因って、余分な手を加えた
為にすべてのものを壊してしまったという、非常に良い譬え話です。
「本質、そのもの、本来のもの」ということは、全く他のものの手伝いとか
手助け、あるいは支えということを必要としないものです。
自ら目醒めて誇るべき何ものもなく、又、混沌とした状態にあっても
憂うべきものは何もないということです。
「混沌のまま」に秩序が保たれていなければならないということが
「混沌描眉」の深意です。
中国の書物の中に「混沌描眉(こんとんがび)――〈混沌に眉を描く〉」
という話があります。
「混沌」というのは、人の名前です。
「混沌」は卵のような顔の人で、目も鼻も口も無く、人(にんげん)にあるべき
「七つの穴」がありませんでした。
その「混沌」に大変世話になった二人の人がいました。
その二人は「何を以って混沌に返礼をしたら良いか」と相談した結果、
「混沌には七つの穴が無いから、混沌を人間のような顔にしてあげよう」
と、いうことになりました。
そこで毎日一つずつ穴をあけて、一週間目に七つの穴を作った訳です。
数日経って、その二人の友人が「混沌はさぞかし人間のような顔になって
ものがよく見え、よく聞こえ、よく味わえ、さぞかし喜んでくれているだろう」
と混沌の家を訪ねると、全くその期待とは正反対で混沌はみじめにも死んでいた
という話です。
問題は明確な言葉で「納得のいく説明を加える」ということであり、
あたかも「問題の本質が分かったかのような錯覚を持つ」ことです。
「言葉の説明」を「今の事実」と取り違えないようにしたいものです。
指導者はよく「白紙でありなさい」と指導されます。
その深意は「今の事実に一切手を加えなければそのままで白紙たりうる」
ということです。