活かして生きる ~放禅寺の寺便り~

娑婆世界を生きる智慧/おシャカ様・禅・坐禅・法理・道のこと

おシャカ様の徹底

2016年02月29日 | おシャカ様

「おシャカ様の徹底」 とは、どういうことかというと、

まず最初に、「此の物」 の発生した次元を誰も知りません。

 

別の言葉で言えば、物の出来上がりの次元というものを

知っている人は一人もいないのです。

これが先ず 「前提」 です。

 

ところが、その作り手も作られ手もなしに、「此の物」 が

生じ生まれてくるのです。

「こういう事実」 があって、私たち衆生は現在生きているのです。

 

思ったから生まれてきたのではないのです。

思ったから生まれたのではないという 「今の事実」 があるのに、

私たち衆生はそれを 「知らず」 にいたのを、たまたま、おシャカ様が

そういうことに気付かれて、それを徹底的に究明されたのです。

 

徹底的に究明されたということは、例えるならば、

肌を見たいために衣類をみんな脱いだのです。

素っ裸に成ったのです。

 

人間(にんげん)的などんな立派な材料をもって考えていても、

そういうものを全部かなぐり捨ててしまう。

すると、始めて本当に、最初の分からずに出来たというその根底にまで、

必ず落ちる(脱落する)に決まっているのです。

 

その世界までおシャカ様は落ち切られて(脱落して)、

初めて人間というものの 「本性」、「物の発生の根源」 を知られたのです。

 

そういう大きな問題を私達衆生に提示しているのが 「仏教の教え」 なのです。

 

 


おシャカ様のお示し2

2016年02月28日 | おシャカ様

自分で自分が生まれたということを知っているひとがあるでしょうか。

おそらく、ないのではないでしょうか。

ないのが、「必然」 なのです。

 

この必然として、自分で生まれたことを知らないものが、

知らないなりに、こうして出てきて、何も知らない世界で

「知らず」 に、はっきり生きているという 「今の事実」 があるのです。

 

こういう大きな問題に目を注がれた人がおシャカ様なのです。

おシャカ様のお示しというものは、そういう大きな教えであるということを

先ずは、知って頂きたいと思います。

 

おシャカ様は、自分というものは、本当にどうあるのだろうか、

どうあるのが本当の様子なのか、と疑問にされて、そして出家なさったのです。

そして六年間 「難行苦行(なんぎょう くぎょう)」 されたのです。

 

ところが、「難行苦行」 してみても、それは 「難行」 であり、「苦行」 であっただけで、

「何も得るところがなかった」 ということが、おシャカ様の 「難行苦行」 の結論だったのです。

 

そして、初めておシャカ様は気が付かれたのです。

おシャカ様は一体何に気が付かれたのでしょうか。

 

そのことを私は、「今の事実」、「今の自己の様子」 と皆様に提示しているのです。

 

一番必然で、一番当然のことであるはずなのに、何故、

「此の事(今の事実、今の自己の様子)」 を捨てていたのだろうか、

という事におシャカ様は気付かれて、それに徹底されたのです。

 


おシャカ様のお示し1

2016年02月27日 | おシャカ様

「仏教」 というものは、人間(にんげん)の都合で作り上げたような

教えではありません。

「私たち衆生の本質そのもの」 を、本当に知ってもらうという 「道」 です。

 

「今の事実」 は、私たち衆生の本質的なものを、そこにえぐり出して、

おシャカ様や歴代の祖師といわれる覚者と、同じ世界に、同じように

いきていることを 「立証」 しているのです。

 

「今の事実 (それほど確かなこと)」 を持っていながら、私たち衆生は、

どこかに 「道(法)」 を尋ねているのです。

そういうところに間違いがあるのです。

 

それを本当に正されたのが 「おシャカ様の教え(仏教)」 なのです。

おシャカ様は人類史上初めて、人間(にんげん)が人間を救い得る

ことの出来ることを見出されたのです。

 

そして、その 「救われた事実」 を伝えられました。

それを実行された人々(歴代の祖師といわれる人々)は、

必ず皆自分で、救われたということが、はっきり自分で頷けたのです。

 

「おシャカ様のお示し」 とは、そういう 「道」 であるということです。

 


最初の説法 4

2016年02月26日 | おシャカ様

「自我」 という様な存在は絶対にあるものではないのです。

「三世心 不可得」 というお示しがありますが、私たち衆生の心の状態

というものは、どこから起きて来るのか、絶対に分かりようがないのです。

 

今(現在)から後に、初めて影を認識が認めて、そして、有るとか無いとか

いうだけなのです。

 

それ程に、「心」 は速い動き方をして、有ったり無かったりするものですから、

始末が付かないのです。

 

それが私たち衆生の「心の本性」 なのです。

それに教わって頂きたく思います。

 

「不垢不浄(ふく ふじょう)」 というお示しがありますが、

私たち衆生の 「眼(まなこ)」 は、どんなに汚いものを見ても

汚れるということはありません。

そしてどんなに美しいものを見ても奇麗になることはありません。

 

そういう様な生活をしながら、どれにも、一つも 「此の物」 は存在しません。

皆、跳び越えているのです。

皆、解脱しているのです。

「波羅提木叉(はらだい もくしゃ)」 なのです。

 

何時でも、大きなものに対しても、小さなものに対しても

「眼」は、「不増不減」 なのです。

これだけの 「眼」 で、こんな大きな環境を全部この中に入れて

別に支障はないのです。

 

自分の今の在り方というのは、そういうものです。

渾身、「法」 として出来上がっているのが私たち衆生の有り様なのです。

 

それを、しばらくそれに迷っているから 「衆生」 というのです。

ですから、その迷いが除かれたら 「衆生」 ではありません。

「仏」 です。

 


最初の説法 3

2016年02月25日 | おシャカ様

ですから、考え方で、後からその影を捕えて(理解して)そして、

その考え方で問題にすると、次から次へと 「人間的な考え方」 としての問題に

なってしまうのです。

 

そうすると、誤って 「此の物」 の必然性であり、大きな存在としての活動を

全部捨ててしまうことになってしまうのです。

 

そこに、「認識」 の認識作用というものの欠陥があるのです。

それで欠陥としては、「此の物」 は認識に於いて 「影を認める習慣」

があるものですから、その影を認めた習慣としての働き方をするのです。

 

しかし、ここで大切なことは、その認識の作用自体は自分の働きなのです。


そういう働きを持っている 「此の物」 が 「影を認める」、そして初めてそこに

「私(わたくし)」 という自我らしいものが、ある様な気がしたのです。

 

これを「錯覚」といいます。 「自覚」ではありません。

 

そういう気を起こさせたのが認識の作用の悪い方面なのです。

これに依って私たち衆生は 「自我」 がある様な気がしてしまうのです。


最初の説法 2

2016年02月24日 | おシャカ様

只、悲しいことには、五人のおシャカ様の弟子達は、

「自分の本質」 を見極めていないために

「六根・六境・六識」 との関係というものが、

必然性で、必然が必要に勝手放題に動くものですから

思いの心(意)を以って中々捕える(理解する)ことが出来なかったのです。

 

しかし、私たち衆生には 「認識(意識)という作用」 があるので、

その認識(意識)の作用によって

初めて捕え得る(理解する)ことが出来たのです。

しかし、それは 「影を捕えた(理解)」 のです。


現在動いて行って、了ったものを、後(過去)から現在に思い起こして、

そしてそれを捕えて(理解して)使えるものです。

又、反省が出来たり、修行が出来たりして、そういう意味においては非常に

都合がいいのです。

 

ところが、認識(意識)と言われるものは 「不思議」 に

「ものを認める、影を認める」 といった様な風で、その習慣に依って

私たち衆生が 「迷い」 を起こす方面があるのです。

 

それに私たち衆生は 「だまされる」 のです。

このことを、禅宗では 「瞞(まん)ぜられる」 といいます。


最初の説法 1

2016年02月23日 | おシャカ様

おシャカ様が一番最初に自分の五人の弟子に簡単に自分の悟った事実を

最初に示されたのが、「六根」・「六境(六塵)」・「六識」 です。

 

「六識」 とは、色・声(しょう)・香・味・触(そく)・法の 「六境(六塵)」 を知覚する

「眼識・耳識・鼻識・舌識・身識・意識」 の総称です。

また、第六識の略でもあります。

 

「六根」 とは、「六識を生ずる、六つの感官、即ち、

「眼(げん)・耳(に)・鼻・舌・身・意」 をいいます。

 

おシャカ様の最初のお示しは、当然だったと思います。

眼にも必ず、もの(色)があり、耳には必ず声があり、

鼻には必ず、香り(香)がし、舌には必ず味があり、

身体(身)には必ず、触覚(触)としてのいろいろな動きがあります。

意では、例えば私達衆生が机に向かえば机があります。

 

「六根」・「六境(六塵)」・「六識」 は、必然に只、

そうしかあり得ない様に出来ているのです。

「法」 として 「道」 としてです。

 

それを、「無為」 といいます。

人間(にんげん)が何もどうもしたのではありません。

そういう風に最初から出来上がっているのです。

 

現在のこの生活をしている事実のまま、手付かずにそのままで

「涅槃」 の境地なのです。

 

他に行き場も何も無いのです。

これだけで凡てが終わるように出来ているのです。

それをしっかり知っていただきたいと思います。

 

 


道元禅師のお示し 2

2016年02月22日 | 道元禅師

おシャカ様、道元禅師は 「仏智見」 を開かれて、私達衆生の 「本性」 をお示しになられたのです。

それですから、私たち衆生は 「現実の存在そのもの」 が、只本当に、自分でそれに対して

「ああ、そうか、これで宜かったのか」 ということに気が付ければよいのです。

 

日常生活において、そこら辺りを歩いてみれば、一切のものが(種々雑多な事が)

「千変万化(せんぺんばんか)」 極まりないものが、皆 眼に入り、耳に入りしながら

どうしたのでも、こうしたのでもないのに、有ったり無かったり、それっきりです。

 

その通りに私たち衆生が、今からどうにかしなければならない必要が無い様に出来ています。

その心を私達衆生は知る必要があるのです。

 

私達衆生はすでに、「解脱の人」 なのです。

そんなにうまく出来上がっているのに、何で、考え方で 「此の物」 を 「私」 して、

そして 「此の物」 をどうにかしなければならないと言って、

作り事をするのでしょうか。

 

ですから、「仏法」 というものは、人間(にんげん)が余りにも自分勝手な 「悪戯(いたずら)」 をすることを止めなさい、ということなのです。

 


道元禅師のお示し 1

2016年02月21日 | 道元禅師

道元禅師の御著書 「普勧坐禅儀(ふかんざぜんぎ)」 の冒頭に

「道本(もと)円通(えんずう) 爭(いかで)か修證を假(か)らん」

という、お示しがあります。

 

この 「道」 といわれるものは、元来これから作り事をするものではないというお示しです。

私たち衆生は、作る必要のないものを、今から作ろうとしているのです。

そういう処に根本的な誤りがあるのです。

 

それは、あの 「本来本法性(ほんらい ほんぽっしょう) 天然自性身(てんねん じしょうしん)」

というお示しに疑問を持たれた道元禅師が、御自身で大悟して御覧になって、

その上から始めて申された言葉です。

 

それですから、「道本」 というのも、私たち衆生自身その人が既に 「道」 であるということなのです。

「道」 以外の存在ではないのですよというお示しなのです。

 

おシャカ様も大悟せられて、「華厳(けごん)経」 の中で、

「奇なる哉、奇なる哉、我今普く一切衆生を見るに

如来の智慧、徳相、皆具足す、唯妄想執着を以っての故に證得せず」

と、宣言されて居ります。

 

「此の物」 の何処かを掴まえてどうにかしようとしても、絶対に不可能なのです。

そういうことが出来るものでないように 「此の物」 自身は出来ているのです。

その状態を道元禅師は 「道本円通」 と言われたのです。

 

ですから、「 爭か修證を假らん」 というのは、修養してどうのこうのという様な問題ではないと

言われたのです。

 


般若心経 弁解(べんげ)

2016年02月20日 | 般若心経

「色不異空 空不異色  (しきふいくう くうふいしき)

  色即是空 空即是色  (しきそくぜくう くうそくぜしき)

    受想行識 亦復如是」 (じゅそうぎょうしき やくぶにょぜ)

 

「色不異空 空不異色」 とは、物は物ながら空であり、

空は空ながら物であると説いて一つのものを二つに見る我見に随って説いているのです。

 

「色即是空 空即是色」 とは、次に元来色空とも人を離れたる実相であることを説いているのです。

「受想行識 亦復如是」 とは、受想行識も実体は無いものであると説いているのです。

 

そして、再び舎利弗(しゃりほつ)を呼び、「因縁所生の法」 なるが故に、

次に 「受想行識」  「六根(色・声・香・味・触・法)」  「六識(眼識・耳識・鼻識・舌識・身識・意識)」

の 「十八界」 もかくの如く空なりと細説しているのが、

「舎利子 是諸空相 不生不滅 不垢不浄 不増不減 是故空中 無色無受想行識

無眼鼻耳舌身意 無色声(しょう)香、味、触(そく)、法 無眼界乃至(ないし)無意識界」

なのです。

 

これらは人の見解(けんげ)の入る隙間のないことを説いているのです。