既存の認識体系や価値観では、今の高度にして複雑に
絡み合った諸問題の末端を扱うだけで、総合的に満足の
行くように解答してくれません。
様々の宗教のほとんどは「死に易くしてくれる」だけで
「今の事実」「今の自分自身の様子」の存在を扱ってくれません。
「死」がこれほどあらゆるものを通じて如実に働きかけている
時代はありません。
世紀末的症状として笑って済ます訳にはいきません。
既存の認識体系や価値観では、今の高度にして複雑に
絡み合った諸問題の末端を扱うだけで、総合的に満足の
行くように解答してくれません。
様々の宗教のほとんどは「死に易くしてくれる」だけで
「今の事実」「今の自分自身の様子」の存在を扱ってくれません。
「死」がこれほどあらゆるものを通じて如実に働きかけている
時代はありません。
世紀末的症状として笑って済ます訳にはいきません。
こういう異常事態が生む危機感の中では、自然(じねん)の
成り行きとして、各人が「死」を自覚し、「死」の観点から
自己の存在に意識的な関心を向けるようになります。
「死」は、幅広い層の持つ日常的な問題となってきました。
現代ほど「死」について多く語られ、「死」が重大な
意味合いを帯びている時はありません。
といっても、「死の本質」が追究されているかというと、
そうでもありません。
私たち衆生の関心事は、”自分が死ぬか否か”という極めて
実際的な「生の結末への恐怖」という次元で足踏みしてしまい
そこから、もう一歩が出来ないのです。
「今の世」ほど、私たち衆生の置かれている環境は、
「死」のイメージに満ち溢れているものはありません。
核戦争の可能性、核武装の競争、東西両陣営の対立、
開発途上国の貧困と食糧問題、自然破壊、環境汚染、
エネルギー問題、犯罪率の上昇、麻薬、老人問題、
安楽死、癌、エイズ等々の不治の病、臓器移植、
格差社会、経済、移民、介護、福祉、人権、民族対立、
自然災害、株価の動向、等々と、次々に私たち衆生の
抱えている問題点を挙げていってもきりのないほど
あらゆる領域で、存在論的危機感が結集しています。
人類が、自然(じねん)を支配し始めたところに文明が
生じ、同時に人間(にんげん)と自然(じねん)との
離反が始まりました。
人類の繁栄という一面的な観点から、自然(じねん)の
征服を行い、飽くなき文明の促進の結果、今の異常事態に
到ったわけです。
宇宙に存在するものはすべて、
「山は高く、川は低く、水は冷たく、火は熱い、、、等々」
というように「法則」があります。
この「法則」に従って人類で初めてものの根源(真理)を
見極められたお方を、おシャカ様(仏)と言います。
そのおシャカ様が、
「こうすれば、必ず真理に行き着きますから皆さん
頑張りなさい」
と、結果(悟り)を示してお説きになったのが、
「法(経典)」なのです。
「宗教」の「宗」という字には、根源とか、一番大事な事とか、
一番尊いことという意味があります。
従って、宇宙を含めて存在するすべての根源を見極める
(実相を見定める)ことが、洋の東西を問わず、「宗教」の
一番の大事です。
ですから、是非善悪や、好悪(こうお)という人間(にんげん)
の思考の上にたった追求では到底及ぶことは出来ません。
人でも宇宙でも存在するすべての根源が見極められない限りは
一切のものの実相はわかりません。
それを見つけ出すことが、いわゆる「宗教の教えの根本」という
ことです。
「因果の道理歴然(れきねん)として私なし」
という道元禅師のお言葉があります。
「今の様子」はその通りの結果として出ていることです。
ですから、「良い悪い」という私たち衆生の判断をくっつけて
みてはいけないのです。
多くの方々は「道に転ぜられて(使われて)」います。
「道を転じていく(使っていく)力」が少し足りないと
思います。
「志」と「根気」を持って「精進」していって頂きたく
思います。
このごろでは「精進する、一所懸命に成る」とか、
「がんばる、努力する」というようなことは、どうも
間違えて受け取られているような気がしてなりません。
それは小さいうちから、家庭での教育、その他様々な
教育を受けての影響もあるでしょう。
出来るだけ努力とか精進ということをしなくても、
楽な方法を見つけ出して、そして自分の思う様な事を
早く結果として見たいというような、そういう傾向に
一面ではあるからではないでしょうか。
しかし、おシャカ様を始めとして歴代の覚者といわれる
方々が非常に御苦労なさって「法」を後世に残されたが
故に、私たち衆生は今、こうして修行(坐禅)ということが
出来るわけです。
どうかこのことは忘れないで頂きたく思います。
指導してくださるお方の話を聞いて、そのように実行して
いくという、そういう姿勢にならないと「法」というものは
なかなか実らないものです。
実ってからあとは、今度は今まで培ってきた自分の知識が
より大きく一般の人のために使えるわけです。
今しばらく修行の間は、どこかにしまっておいてください。
これは何千年の昔も今も、自分の考えを捨てない限りは、
「法」を求めていく上においては過去の話ではありません。
今のこととして聞いて、一層精進をしていただきたいと思います。
確固たる自分の考えを持っている人がいます。
あるいは、長い間培ってきた自分の思想、信条、教え
というものを持っていて、それを放すことが出来ない人がいます。
それを持ったまま指導者に「法」を尋ねられても自分の考えと
話をしてくださる指導者の言葉とは大変違うものです。
ですから「なんとかして、指導者の話を自分の考えでもって
理解しよう、あるいは自分の考えの中に溶け込ませよう」と、
努力をされます。
それはそれでよろしいとはおもいますが、もう一歩、法を求める
お方においては、自分の考えを捨ててしばらく修行の間は自分の
考えを出さないでいただきたいものです。
その辺については、道元禅師の「学道用心集」にくわしくお示しに
なって居られます。
慈明(じみょう)という和尚さんは、眠くなると
自分の股に錐(きり)を刺して、一所懸命に坐ったそうです。
「私が頼りにするものは、坐禅のほかにありません」
と、こういうことだったんだと思います。
だから、眠ってはいられなかったのです。
慈明和尚さんは「眠ることも坐禅」であるということは
分かっていてもそんなことはしなかったのです。
「眠るのも坐禅だ、腹が減れば飯を食うのも坐禅だ」
みんなそんなことは知(識)っています。
しかし慈明和尚さんは、それをせず(知っていることを使わず)
に、眠くなれば股に錐を刺して一所懸命に坐られたのです。
おシャカ様を始めとして歴代の覚者といわれる方々は皆
そうして御苦労なさったのです。
頼るものは「坐禅」だけ、そのことがなければ絶対に
「道」というものは「成就」しないのです。