活かして生きる ~放禅寺の寺便り~

娑婆世界を生きる智慧/おシャカ様・禅・坐禅・法理・道のこと

今の世について3

2017年06月30日 | 随感

既存の認識体系や価値観では、今の高度にして複雑に

絡み合った諸問題の末端を扱うだけで、総合的に満足の

行くように解答してくれません。

 

様々の宗教のほとんどは「死に易くしてくれる」だけで

「今の事実」「今の自分自身の様子」の存在を扱ってくれません。

 

「死」がこれほどあらゆるものを通じて如実に働きかけている

時代はありません。

 

世紀末的症状として笑って済ます訳にはいきません。

 

 


今の世について2

2017年06月29日 | 随感

こういう異常事態が生む危機感の中では、自然(じねん)の

成り行きとして、各人が「死」を自覚し、「死」の観点から

自己の存在に意識的な関心を向けるようになります。

 

「死」は、幅広い層の持つ日常的な問題となってきました。

 

現代ほど「死」について多く語られ、「死」が重大な

意味合いを帯びている時はありません。

 

といっても、「死の本質」が追究されているかというと、

そうでもありません。

 

私たち衆生の関心事は、”自分が死ぬか否か”という極めて

実際的な「生の結末への恐怖」という次元で足踏みしてしまい

そこから、もう一歩が出来ないのです。


今の世について1

2017年06月28日 | 随感

「今の世」ほど、私たち衆生の置かれている環境は、

「死」のイメージに満ち溢れているものはありません。

 

核戦争の可能性、核武装の競争、東西両陣営の対立、

開発途上国の貧困と食糧問題、自然破壊、環境汚染、

エネルギー問題、犯罪率の上昇、麻薬、老人問題、

安楽死、癌、エイズ等々の不治の病、臓器移植、

格差社会、経済、移民、介護、福祉、人権、民族対立、

自然災害、株価の動向、等々と、次々に私たち衆生の

抱えている問題点を挙げていってもきりのないほど

あらゆる領域で、存在論的危機感が結集しています。

 

人類が、自然(じねん)を支配し始めたところに文明が

生じ、同時に人間(にんげん)と自然(じねん)との

離反が始まりました。

 

人類の繁栄という一面的な観点から、自然(じねん)の

征服を行い、飽くなき文明の促進の結果、今の異常事態に

到ったわけです。


宗教の教えの根本2

2017年06月27日 | 法理

宇宙に存在するものはすべて、

「山は高く、川は低く、水は冷たく、火は熱い、、、等々」

というように「法則」があります。

 

この「法則」に従って人類で初めてものの根源(真理)を

見極められたお方を、おシャカ様(仏)と言います。

 

そのおシャカ様が、

「こうすれば、必ず真理に行き着きますから皆さん

頑張りなさい」

と、結果(悟り)を示してお説きになったのが、

「法(経典)」なのです。

 

 


宗教の教えの根本1

2017年06月26日 | 法理

「宗教」の「宗」という字には、根源とか、一番大事な事とか、

一番尊いことという意味があります。


従って、宇宙を含めて存在するすべての根源を見極める

(実相を見定める)ことが、洋の東西を問わず、「宗教」の

一番の大事です。

 

ですから、是非善悪や、好悪(こうお)という人間(にんげん)

の思考の上にたった追求では到底及ぶことは出来ません。

 

人でも宇宙でも存在するすべての根源が見極められない限りは

一切のものの実相はわかりません。

 

それを見つけ出すことが、いわゆる「宗教の教えの根本」という

ことです。


精進2

2017年06月25日 | 法理

「因果の道理歴然(れきねん)として私なし」

という道元禅師のお言葉があります。

 

「今の様子」はその通りの結果として出ていることです。

 

ですから、「良い悪い」という私たち衆生の判断をくっつけて

みてはいけないのです。

 

多くの方々は「道に転ぜられて(使われて)」います。

 

「道を転じていく(使っていく)力」が少し足りないと

思います。

 

「志」と「根気」を持って「精進」していって頂きたく

思います。


精進1

2017年06月24日 | 法理

このごろでは「精進する、一所懸命に成る」とか、

「がんばる、努力する」というようなことは、どうも

間違えて受け取られているような気がしてなりません。

 

それは小さいうちから、家庭での教育、その他様々な

教育を受けての影響もあるでしょう。

 

出来るだけ努力とか精進ということをしなくても、

楽な方法を見つけ出して、そして自分の思う様な事を

早く結果として見たいというような、そういう傾向に

一面ではあるからではないでしょうか。

 

しかし、おシャカ様を始めとして歴代の覚者といわれる

方々が非常に御苦労なさって「法」を後世に残されたが

故に、私たち衆生は今、こうして修行(坐禅)ということが

出来るわけです。

 

どうかこのことは忘れないで頂きたく思います。


自分の考え2

2017年06月23日 | 

指導してくださるお方の話を聞いて、そのように実行して

いくという、そういう姿勢にならないと「法」というものは

なかなか実らないものです。

 

実ってからあとは、今度は今まで培ってきた自分の知識が

より大きく一般の人のために使えるわけです。

 

今しばらく修行の間は、どこかにしまっておいてください。

 

これは何千年の昔も今も、自分の考えを捨てない限りは、

「法」を求めていく上においては過去の話ではありません。

 

今のこととして聞いて、一層精進をしていただきたいと思います。


自分の考え1

2017年06月22日 | 

確固たる自分の考えを持っている人がいます。

あるいは、長い間培ってきた自分の思想、信条、教え

というものを持っていて、それを放すことが出来ない人がいます。

 

それを持ったまま指導者に「法」を尋ねられても自分の考えと

話をしてくださる指導者の言葉とは大変違うものです。

 

ですから「なんとかして、指導者の話を自分の考えでもって

理解しよう、あるいは自分の考えの中に溶け込ませよう」と、

努力をされます。

 

それはそれでよろしいとはおもいますが、もう一歩、法を求める

お方においては、自分の考えを捨ててしばらく修行の間は自分の

考えを出さないでいただきたいものです。

 

その辺については、道元禅師の「学道用心集」にくわしくお示しに

なって居られます。


成就

2017年06月21日 | 

慈明(じみょう)という和尚さんは、眠くなると

自分の股に錐(きり)を刺して、一所懸命に坐ったそうです。

 

「私が頼りにするものは、坐禅のほかにありません」

と、こういうことだったんだと思います。

 

だから、眠ってはいられなかったのです。

 

慈明和尚さんは「眠ることも坐禅」であるということは

分かっていてもそんなことはしなかったのです。

 

「眠るのも坐禅だ、腹が減れば飯を食うのも坐禅だ」

みんなそんなことは知(識)っています。

 

しかし慈明和尚さんは、それをせず(知っていることを使わず)

に、眠くなれば股に錐を刺して一所懸命に坐られたのです。

 

おシャカ様を始めとして歴代の覚者といわれる方々は皆

そうして御苦労なさったのです。

 

頼るものは「坐禅」だけ、そのことがなければ絶対に

「道」というものは「成就」しないのです。