その結果「正邪(せいじゃ)、善悪、我他彼此(がたぴし)」の二元相対に終始して、「自我の思惑そのものにこれらの真相を求めて解決していかなければならない事を知(識)らず、答を神仏に委ねるか縁に任す以外にない」という結論を立ててしまうのです。
このことが問題の決定的な解決に至らないという現状にさえ無関心なのです。
「思惑は思惑そのものが実相、即、無相である」故に、思惑以外のものに因って解決を求めても到底不可能なのです。
その結果「正邪(せいじゃ)、善悪、我他彼此(がたぴし)」の二元相対に終始して、「自我の思惑そのものにこれらの真相を求めて解決していかなければならない事を知(識)らず、答を神仏に委ねるか縁に任す以外にない」という結論を立ててしまうのです。
このことが問題の決定的な解決に至らないという現状にさえ無関心なのです。
「思惑は思惑そのものが実相、即、無相である」故に、思惑以外のものに因って解決を求めても到底不可能なのです。
私たち衆生はおシャカ様が「法(道)」を説いた教えの道理を学ぶことにより、迷いや葛藤の根源が自我の思惑への執着にあったことに気が付くことが出来ますが、ただ道理を学んだからといって自我の思惑の本質を「見性(けんしょう)」したという訳ではありません。
「自我」の言葉を耳にすれば直ちに善悪の二見が生じて「自我は悪いものだから、無心にならなければいけない」とか、執着を超えた神仏は尊いものだなどと思惑を起こすのが世の常です。
ヘラクレイトスはこの自説のために時の哲学者から批判を受けましたが、残念ながら、彼は仏教を知(識)りませんでした。
仏教に出会う「縁」が無かったということです。
しかし、仏教にぜんぜん縁が無い、縁が無いというより仏教の教えがある事を知(識)らなかったヘラクレイトスでも、「万物は流転している」という事だけは「理(理論)」として分かっていたのです。
もし、彼に仏教に出会う縁があれば、もう一歩踏み込んで、もう少し異なった新しい説が生み出されたかもしれません。
おシャカ様よりだいぶ後の人ですが、ギリシャの哲学者ヘラクレイトスが「万物(ばんぶつ)は流転(るてん)する、人も物も流転している」と言いました。
「仏道」にも同じ様に「無常」というお言葉がありますが、ヘラクレイトスの説には大きな問題があります。
どういう問題かというと、ヘラクレイトスの説は「すべての物が流転する」という事を「知(識)っている自分がある」ということです。
自分も一緒に流転していれば、流転していると言うことは分からないはずなのに、流転している事を知(識)っている自分があるのです。
つまり、自分だけは流転していない訳です。
このように、流転している物と流転していない物がある為に、ヘラクレイトスは万物といいながら自分を万物以外と認めてしまっているという事です。
自己の正体(因縁生)を見極めたならば、経典や祖録(文字)には用はありません。
経典の中に自己の正体(因縁生)を探すのではなく、経典の説明を借りて「自己の正体(因縁生)」を見極めるのです。
自己の正体(因縁生)を見極めたならば、見極めたという自分も忘れることです。
これが経典の「役割」です。
自分というものが基準になって道理を用いて「法(道)」がわかったとか、信じられたというところに何時までも居続けてはいけないという事です。
おシャカ様や歴代の覚者の教えに因って「自己の正体(因縁生)を見極めた」ならば、見極めたものも無くすように努力することが「大安心(だいあんじん)」を得る「法(道)」です。
真理を学ぶに当たっては、「指に因って月を見、見たら月も指も忘れる努力をする事」が大切です。
覚者が経典や祖録を残されたのも、「自己の正体(因縁生)を見極める事」を促すためです。
「縁」に随って自由に転々自在に動いて行くことが出来るのです。
これが「因縁の法」です。
事実、水と同様に今の私たち衆生の必要なあり方なのです。
必ず「この生活(活かして生きる生活)しか無いのです。
これがどう仕様もない「今の事実」です。
どう思ってもそれしかないのです。
そういう素晴らしい自分を本当に知(識)って頂きたいと思います。
これは私たち衆生が何処にいても、何をしていても、何時でも、どういう世界で生活(活動)するにしても、そういう「基本を知(識)っていれば楽に成る」のです。
「その人」に成って頂きたいと思います。
「水は方円の器(うつわ)に随う」というお示しがあります。
本来の意味は「人が水に成って器を自在にする」ということです。
水は方円の器に随うように見えていても「その水である今の自分」は方円の器に出入りして彼の形に縛られることなく色々な形に変わりながら、器を「自由」にするという意味です。
「この物(自分自身)」は元来、水に成っているものですから、どんな器に入ろうが直ぐにそれに入ってそれ相応に、それを取り扱いながら、それに少しも縛られていないのです。
時が過ぎれば何処へでも出て行くのです。
「その人」に成れば他人から叩かれたとしても、別に怒らなくてもよい人に成ります。
何故かというと、日の照らない時には寒いし、日が当たれば暖かいのです。
その事に変わりはないのです。
叩かれたら「ただ痛いのが痛かっただけ」で他に問題はないのです。
誰も否定出来ない「一番本当の事実(今の事実)」です。
ところが、後になってから「あの野郎なぐりやがった」と考えるのです。
「その考え」というものは、どういう事かというと「事実を観念で捉えた」のです。
人間の観念の上に事実を移しているのです。
別の言葉でいえば「事実から離れて観念で夢を見ている」のです。
人間が「錯覚」を起こして今、現実に悩まされているのです。
そういう事を「本当の人(その人)に成さしめるという道」が「おシャカ様の教え」なのです。
自分自身の真相とはそういう絶対性なのです。
このことは余りにも明瞭(簡単)過ぎるものですから多くの人は信じられないものなのです。
それでとかく他を「追っかけて(求めて)」いくようになるのです。
「この物(六境)自体」は始めから「その存在自体」が「法としての存在」なのです。
そいういう成立なのです。