「不垢不浄(ふくふじょう)」というお示しがありますが私たち衆生の「眼」は
どんなに汚いものを見ても「眼」が汚れるということはありません。
そしてどんなに立派なものを見ても「眼」が綺麗になることもありません。
そういう様な日常生活をしながら何れにも一つも「此の物(自分自身)」は
存在しないのです。
「此の物(自分自身)」は皆跳び越えているのです。皆解脱しているのです。
「波羅提木叉(はらだいもくしゃ)」なのです。
「別別解脱(いちいちの解脱)」なのです。
「不垢不浄(ふくふじょう)」というお示しがありますが私たち衆生の「眼」は
どんなに汚いものを見ても「眼」が汚れるということはありません。
そしてどんなに立派なものを見ても「眼」が綺麗になることもありません。
そういう様な日常生活をしながら何れにも一つも「此の物(自分自身)」は
存在しないのです。
「此の物(自分自身)」は皆跳び越えているのです。皆解脱しているのです。
「波羅提木叉(はらだいもくしゃ)」なのです。
「別別解脱(いちいちの解脱)」なのです。
ですから、「自我という存在」は絶対に有(在)るものではないのです。
「三世心不可得」というお示しがありますが、私たち衆生の心の状態という
ものは何処から起きて来るのか絶対に「分からない」のです。
今(現在)から後に始めて「影を意識(認識)が認めて(理解して)有(在)るとか
無いとかというだけ」なのです。
それ程に「意(心)」は速い動き方をして有ったり無かったりするものですから
始末に負えないのです。
それが私たち衆生の「意(心)の本性」なのです。
しかし、そこで大切なことはその「意識(認識)」の作用自体は此の物(自分自身)の
働きだ」ということです。
只そういう働きを持っている此の物(自分自身)が影を認め(理解し)そして
初めてそこに「私(わたくし)」という自我らしいものが有(在)る様な気が
したのです。
これを「錯覚」といいます。
「自覚」ではありません。
そういう気を起こさせたのが「意識(認識)の作用」の悪い方面なのです。
ですからこれに因って私たち衆生は「自我」が有(在)るような気がして
しまうのです。
ですから、考え方で後からその影を理解して、そしてその考え方で物事を
問題にすると、次から次へと「人間的な考え方」としての問題に定着して
しまうのです。
そうすると、「此の物」の必然性であり、大きな存在としての活動を全部
捨ててしまうことになってしまうのです。
そこに「意識(認識)の作用」というものの欠陥(特徴)が有(在)るのです。
それで欠陥(特徴)としては「此の物」は「意識(認識)の作用」において
影を認める(理解する)習慣が有(在)るので「その影を認めた(理解した)
習慣としての働き方」をするのです。
元を探れば一つのものが分かれているだけなのです。
それが分からないのは「自我の働き」のためにさまざまな「隔て(距離)」を
自分が作っているからなのです。
このように「分かれている(異なっている)状態」を「差別(しゃべつ)」と
いっています。
ですから世の中のありとあらゆるものは「みんな一つのもの(平等)」です
けれども、同じものは一つもない「差別(しゃべつ)」ということなのです。
「声(しょう)」についても、大きな声(こえ)もあれば、小さくて耳をすまさな
ければ聞こえないような(こえ)もあります。
それから非常に綺麗な声(こえ)もあれば、そうでない声(こえ)もあるような
状態ですけれども聞く方は耳一つではないでしょうか。
ですから「眼」を開けばすべてのものが見えるし、聞こうと思わなくても
一切のものが聞こえて来ます。
しかも、「自分という考え」を用いなければ鳥の声は鳥の声として、犬の声は
犬の声として間違いなく、そのものそのものの様子がきちんと眼には見え、
耳には聞こえて来る訳です。
しかもその相手がさまざま異なっているけれどもみんな「一つ(同じ)」では
ないでしょうか。
これを「全異全同」といいます。
「六根(眼・耳・鼻・舌・身・意)」から入るさまざまな様子を「六境または六塵」
といっています。
「六境(六塵)」とは「色声香味触法(しきしょうこうみそくほう)」のことです。
又、「六識(眼識・耳識・鼻識・舌識・身識・意識)」の対称となる六つの
境界を「六境」といい、又心を汚す六識の対象として「六塵」ともいっているのです。
ここで言う「色(しき)」とは、すべての物質をいっています。
さまざまな物質が色々(いろいろ)に形を変えている訳です。
ところが、そんなに様々な物質の異なった様子が見えるのですが「見る眼(まなこ)」は
一つではないでしょうか。
私たち衆生は「意識(認識)」という作用が「有(在)ります」。
その「意識(認識)」という作用に因って物事を初めて理解する事が出来る
のですが、しかし、それは「影を理解している」のです。
何故ならば現在動いて行って」了ったものを後(過去)から現在に思い起こして、そしてそれを
理解しているだけだからです。
「意識(認識)」といわれるものは「不思議」に「ものを認める(影を理解する)」
といったその習慣によって(これも法の働きなのですが)私たち衆生は
「迷い(錯覚)を起こすので。
「六根、六境(六塵)、六識」は必然に只従うしか有り得ないように出来ているのです。
「法として道として」です。
それを「無為」といいます。
そういうふうに最初から出来上がっているのです。
「現在のこの日常生活を営んでいる事実のまま(手付かず)にそのまま(その身)」
が「涅槃の境地」なのです。
他に行き場も何もないのです。
これだけですべてが終わるように最初から出来上がっているのです。
これが「今の事実、今の自己の様子」なのです。
私たち衆生は「六根、六境(六塵)、六識の関係」というものが必然性で必要に
都合がよいように動くものですから「意(思いの心)」を以てなかなか理解する
ことが出来ないのです。
おシャカ様が自分の悟った事実を最初に示されたのが「六根、六境(六塵)、六識」です。
「六識」とは「眼識・耳識・鼻識・舌識・身識・意識」の総称です。
また「第六意識」の略でもあります。
「六根」とは、六識を生ずる六つの感官です。
即ち「眼・耳・鼻・舌・身・意(げんにびぜっしんい)」をいいます。
「六根」から入る様々な様子を「六境(六塵)」といいます。
即ち「六境(六塵)」とは、「色声香味触法(しきしょうこうみそくほう)」
のことです。
ですから眼には必ず(色)があり、耳には必ず声があり、鼻には必ず香り(香)がし、
舌には必ず味がし、身体(身)には必ず触覚(触)あり、意(心)には必ず私たち衆生が
机に向かえば机(法)があるのです。