活かして生きる ~放禅寺の寺便り~

娑婆世界を生きる智慧/おシャカ様・禅・坐禅・法理・道のこと

坐禅の効果1

2016年11月30日 | 坐禅

坐禅を修すると、能率が高まります。

何故かというと、「禅」 という字は

「示す偏に単という字」 が書いてあり

その仕事に単純に成るということが、「禅」 です。

 

あの大岡越前守という人も昔の白洲(しらす)に

出る前には 「坐禅」 をしてから出たということです。

 

「坐禅」 をすると、その坐っている間は仕事が

出来ないから能率が落ちる、とか、

「坐禅」 は世の中とは縁が遠いもののように

思っている人もあるかと思います。

 

決してそういうものではありません。

昔の話ですが、グンゼ産業の故川合信水氏は

熱心な坐禅修行者で職工の方にも 「坐禅」 を

勧めていたそうです。


昏沈の坐禅

2016年11月29日 | 坐禅

「昏沈(こんちん)」 というのは、よく仏教の概念で

いうところの 「空」 というようなところに

ドッカリと坐ってしまって、是もなく、非もなく、

悟りもなく、捨てるものもなく、使うものもなく

というような、もう 「ないないづくし」 で坐っている

ことをいいます。

 

ですから、「目的を持ってはいけません」

「自分の考えを起こしてはいけません」

と、道元禅師のお示しの中に自分をドップリと

のめり込ませてといいますか、浸かり込んで

形通りの坐禅をしている状態のことを

「昏沈の坐禅」 と言います。

 

「空」 に沈んでいるということです。

実際、ただひたすらに坐ればよろしいという

それは、「空に著する」 坐禅です。

 

静かな一面(平等)だけあって

「差別(しゃべつ)」 の面に出て、活動が出来ない

ということです。


坐禅の仕方

2016年11月28日 | 坐禅

坐禅が坐禅の仕方を教えてくれるのです。

自分の考えで、

「坐禅はどのようにしてすわったらいいのか、

どうやったらいいのか」

という様な考えを巡らしている間は

坐禅になっていないということです。

 

ですから、少々苦しくても、坐ることがつらくても

それを我慢して坐っていくうちに必ず

坐禅そのものが坐禅の仕方を教えてくれるものです。

 

公案功夫でも同じです。

一所懸命に公案を考える、そうすると考えているうちに

公案自体が、公案の解決の仕方というのを教えてくれます。

公案というのは、自分自身のことです。


ですから、そういう努力をせずに、考えばかり先に立てて

「考えればわかるんじゃなかろうか」 などという

そういうことで坐っていても、何の役にも立ちません。

 

坐禅の功夫でも同じです。

功夫をしながら、だんだん功夫の要領がわかってくるのです。

 

そういう努力をしないといけないと思います。


坐禅を忘れる(坐忘)

2016年11月27日 | 坐禅

今の多くの人の 「人間界の禅」 では、「禅」 という

大きな網の中に入ってしまって、どうしても

その網からのがれること、又は、這い出すことが

出来ない状態にあると思います。

 

その状態から抜け出すには 「禅」 をやめることです。

 

坐禅をやめて坐ってみていただきたく思います。

そうすれば直ちに抜け出すことが出来ます。

 

それが本当の坐禅なのです。

「坐禅を忘れる(坐忘)」 為に今自分は修行すると

思って頂きたく思います。

 

すべて分かったことも、分からないものもどんどん

捨てていくことです。

それが、「忘れていく」 ということなのです。


坐禅の要心

2016年11月26日 | 坐禅

皆さんそれぞれにご自分の仕事を持っておられる方

ばかりだと思います。

 

ですから、「仕事」 と 「禅」 というものが離れてしまっては

本当ではありません。

 

「仕事そのものが禅そのもの」 でありますから、

御自身の仕事の他に、「禅」 という距離(隔て)を

認めてはいけないのです。

 

禅らしきこと、坐禅らしきこと、修行らしきことを

一切忘れてしまって本当に御自身の仕事に打ち込む、

そのことと三昧に成る、それだけで良いのです。

 

それから今度は、仕事を終えられましたら、一日一回

必ず坐禅の時間を作ることです。

 

「坐禅の時間」 は、どんな事情があろうとも

仕事のことは一切忘れて、坐禅三昧に成る、

そのような態度で坐って頂きたく思います。

 

所謂仕事の時を 「動中の禅」、静かに坐る時を

「静中の禅」 といっています。

 

そのように 「両方の禅」 がかみ合っていくと、

仕事の面においても坐禅の面においても

非常に 「境涯」 が進むことは確実に自身に

「自覚」 出来るものです。


禅の修行の目的

2016年11月25日 | 

元より仏への信仰によって何かの手段・方法を講じて

救われるのではありません。

 

本来、救われた者と救われない者との

区別があってはなりません。

 

救われる以前と以後があってはおかしいことです。

自分で自分を救うのが、「仏の教え、禅の修行の目的」 です。

 

「坐禅」 というのは、自分で自分を救うことの実践、即ち、

「真実の自己に目醒めること」 以外の何ものでもありません。

 

真実の自己そのものが生活をしているのならば

そのような不満足、不安、迷い、焦燥というようなものは

失くなるはずのものです。


只(ただ)坐る

2016年11月24日 | 坐禅

「禅」 というものの修行が、何かの目的の為の

手段や方法になってしまっては大変な誤りです。

 

よくいう禅の指導者の 「只(ただ)坐りなさい」 という

お言葉は、「結果から見たお言葉」 です。

 

従って、これから修行をする人が、自ら 「只」 という

枠組みの中に入って、只坐っていては、これは

「禅」 でもありませんし、「仏道」 でもありません。

 

その 「只」 を一度忘れてみる必要があるわけです。

 

今、私たち衆生の目の前に見えるもの、あるいは

聞こえ来るものは、すべて 「只」 というような

在り方のものではないのではないでしょうか。


従って、「只」 という枠組みを外すことによって

本来の 「只」 という状態に戻るわけです。






不断坐禅

2016年11月23日 | 坐禅

白隠禅師は、「動中の功夫は静中(じょうちゅう)の功夫に

まさること百千萬億倍す」 と。

 

「静中の功夫」 で、とかく昏沈・散乱に陥りやすいものです。

役立たずになりやすいのです。

 

「行(ぎょう)もまた禅、坐もまた禅、

語黙動静体安然(ごもくどうじょうたいあんねん)」 と

来なければならないのです。

 

これを、「不断坐禅」 といいます。

いわゆる正念(しょうねん)相続の試験です。

 

とは言え、「静中の功夫」 を捨てるわけにはいきません。

「動静共に純工(じゅんく)」 ならねばなりません。

 

ですから、坐時は坐時に入り、行時(ぎょうじ)は行時に入り、

臥時は臥時に入り、食事は食事に入り、語時は語時に入り、

作務の時は作務に入って、

「是れ如何(いかん)」 と、一所懸命に務めるのです。

 

命懸けでやっていくことです。

一切時を修行時に回向するのです。

 

このようにして時節到り来すれば向こうからやって来ます。

こちらの智慧は何もいらないのです。

 

「智慧が出る」 と、「本性」 が引っ込んでしまいます。

ですから、、「智慧」 をなくするのが「修行の秘訣」なのです。

 

「智慧」 をなくすると 「真智」 が出て来ます。

これを道元禅師のお言葉をお借りすれば、

「萬法(まんぼう)来って我れを證するなり」 というのです。


坐禅は習禅には非ず2

2016年11月22日 | 道元禅師

「雑り物(まじりもの)のない結果」はどうなるかというと

そこに人格というものが出て来るのです。

 

坐禅ばかりに成ったら自分というものはありません。

自分というものがなくなれば、

「一切の物が自分と同化せざるを得ない」

のです。

 

例えば隣家の人が私の眼の中に入っています。

私が隣家の人の眼の中にも入っているのです。

 

それは何故かというと

「自分というものがないから」

です。

 

自分というものに何時の頃からか認めたから

坐禅に因って、その「自分」というものを

同化(殺す)するのです。

 

それから後は自分というものがありませんから

「向こうが自分と同じものに成ってしまう」

のです。

 

「自分」 というものを考えるから

「相手」 というものが生じてしまうのです。

 

「自分」 というものがなくなれば隔て(距離)が

とれて打っ通しです。

 

そういう自覚が起こらざるを得ないのです。

坐禅をするとその境界(きょうがい) が

得られるのですが、口では説明することは

出来ません。

 

ですから、自分と自分で冷暖自知をしなければ

ならないのです。

 

そこまで来るには若干の時間がかかります。

それがなかなか生易しいものではありません。

 

「その物それ」 がわからないので、

十年、二十年、三十年かかった人もあるのです。

 


坐禅は習禅には非ず1

2016年11月21日 | 道元禅師

「禅」 を行じることは、好いとわかっても、

それが何故好いかということになると

わからないものです。

 

それは、「禅の本質」 が分からないから、

十年やっても二十年やっても

何のことか分からないのです。

 

妄想が増すばかりなのです。

それで道元禅師は 「禅の定義」 をはっきりと

述べて居られます。

 

「いわゆる坐禅は習禅には非ず

唯(た)だ これ安楽の法門なり

菩提を究盡するの修證なり」

と。

 

「習禅」 とは、悟るのに時間を隔てて

先きに求めることをいいます。

 

「禅(坐禅)」 そのものが仏なのです

先きに求めたら 「禅(坐禅)」 は死んでしまいます。

 

それで、「坐禅は習禅には非ず」 と言ったのです。

ただ度胸がすわるようにとか、病気を治すというような

小さい目的の為に行う 「禅(坐禅)」 は、皆

「習禅」 なのです。

 

坐禅をする時は 「只、坐禅ばかりに成る」

必要があります。

 

「只」 とは雑(まじ)り物のないことです。

これを 「祇(只)管打坐(しかんたざ)」 といっています。