活かして生きる ~放禅寺の寺便り~

娑婆世界を生きる智慧/おシャカ様・禅・坐禅・法理・道のこと

現実世界について 1

2015年01月31日 | 法理
元々この現実世界には「善」や「悪」と呼ばれるもの自体が存在しておらず、そこにあるのは立ち位置の違いだけ。

争いは正義がぶつかり合うときに起きる。


聖戦は善として存在が可能なのか。

理屈は立派であっても行い出でねば悪なり。


外国人も日本人もない、外国外国と隔てる心悪なり。


善を思い、死を思うは、死をつくり、生をつくり出すことなり。

過去・現在・未来なくただ存在するものが、生まれに生まれつつある。ただ生まれゆき栄えゆくのみなり。


人間は善と悪の両面に通じ、両面に生活することになる。

そこに人間としての尊さとかなしさが生じてくる。


人間は地上的物質に制限され、物質の約束に従わなければならない。

そこに時間を生じ、距離を生じ、これを破ることは出来ない。

世界観について

2015年01月27日 | 法理
一般に我々は三次元(立体) の世界に存在していると言われる。

我々が存在している現実世界は、三次元世界に「個々人の時間軸」を加えた四次元世界であり、

さらに、四次元世界に「集団の時間軸」を加えた五次元世界に存在している。


人間だけが「思い」「想念」によって時間の流れを変化させることができる。

音信不通になるということは、自分と相手との「思い」が違ってきたからだ。


この世の中すべてが同じ時間軸で動いているというのは錯覚である。

なぜなら個人個人で持っている時間軸というのは別だからだ。

未来というものは一つではなく、その人の想念によってその人の人生が決まる。

その想念によって、次に行くべき未来というものを自分で引き寄せるのだ。

仏教と神道(しんとう)

2015年01月25日 | 道のこと
仏教とは、「人間の世界の中で人がどういうふうに生きていったらいいのだろう」という人間に特化した教えである。

仏教では自然界にあって人を中心に、人に限定した生き方や教えというものを説いている。

神道では人間も基本的には「自然の一部である」との考えである。


仏教と神道では、まず中心とするものが違うので物事を見る視点が変わってくる。

仏教では壮大な輪廻転生の死生観をもたらしたが、神道では「黄泉の国」という概念であり死者の赴く処だというシンプルな世界観である。

神道には仏教のような教えというものがない。「古事記」や「日本書紀」のような「史書」という形で伝わってきている。

神道をどうやって実生活に活かすのかといったとき、神道における “教え” というものは強くはなかった。


聖徳太子は人を中心に、自然界のなかの人に限定した生き方や考えを強く押し出した仏教を採り入れた。

神道では後に神仏習合・本地垂迹等の思想が出現する。

一般的な宗教について

2015年01月22日 | 道のこと
動物としての人間の本能に「貪欲さ」「強欲さ」というものがある。

それを知っていた先人たちは人間の動物としての本能を理性で抑え、自分自身を律するために宗教を創った。

宗教(信仰とは別のもの) の教義に共通しているのは「快楽に溺れてはいけない」ということ。

宗教本来の目的は神の教え(真理) から目を背けず、禁欲的・克己的にそれを体現していくことであった。


本来の宗教についての道人のお言葉

1、宗教に教祖は要らない

2、世を捨て、肉を離れて天国近しとするは邪教なり

3・宗教に生きて、宗教に囚われるでないぞ、仕事が宗教なり

4・神から出た教えなら、他の教えも協力して共に進まねばならない

5・教派や教義に囚われるのは邪の教えなり

6・死後のみ説く宗教はゼロの宗教なり

7・理窟の信仰に囚われるは邪道なり

8・水の流れも宗教なり、宗教は生活なり、生活は宗教なり、裏と表なり

9・体験ないところに宗教はない

10・戒律する宗教は亡びる

11・誠の宗教には戒律はない

12・他の宗教に走ってはいけないという宗教もそれだけのもの

13・この世に自分の物という物は何一つない

14・我(が)が無くては成らず、在っては成らない道理

15・戒律あるところに必ず影を生じ、暗を生み出し、カスの残る

道について 1

2015年01月17日 | 道のこと

真理を理解するのが早道です。そうすれば確信となります。

天には天の道、地には地の道、人には人の道があります。
同じ道ではありますが違います。

道は自分で歩まなければなりません。食べ物は自分の口で噛まねばなりません。

楽しくないのは道ではありません。

「この道は道なき道なり、時なき道なり」


道はいくらでもありますが、どの道を通ってもよいというのは間違いです。

道は自分で開くもの、人頼りではいけません。

この道は己が自分で自ずから(おのずから) 成るものです。

道【おしえ】は宗教【おしえ】ではありません。

道【みち】なのです。


道【みち】とは我々に神仏が満ち満ちることです。

道はその人その人に応じて如何様にでも展け行くものです。

教えではならない、道でなくてはならない。

道は永遠なり。教えはみな方便なり。

道でなくてはならない。

もう、これでよいという事無しの道。


道は口で説くものではない。

行ずるものなり。

教えは説くものなり。


道なき道。喜びが道である。

道は無数あり。但し内容は一つなり。

己(おのれ) を活かし、他人(ひと) も活かすのが天の道。


再生への道 (活かして生きる)

2015年01月16日 | 道のこと
現在の自分が再生への道を志すと、たくさん存在する過去や未来の自分にその想いが伝わる。

そうすると過去や未来の自分たちが、現在の自分に何が足りて何が不足しているのかを教えてくれるようになる。

そして今の自分が望む未来へと繋がるパラレルワールド(同時多次元宇宙) に乗り換えられるように助言と協力をしてくれる。

これらの助言のうち過去の自分からのものは反省を基とした思いや過去の記憶として現在の自分に伝わる。

又、未来からの助言はインスピレーションという形で現在の自分に伝わる。

決して特殊な人達だけの不思議なおはなしというわけでなく、誰にでも感知できることだ。


昨今、よく目にし耳にすることだが、望む未来に近づくために大切なことは「自分を好きになること」と「笑い」。

自分をちょっとでも好きになったり、大切に思うことでポッと灯った小さな明かりを目印に過去や未来の自分が助けてくれる。

だから自分で好きにならなくては駄目なのだ。

輝くような笑顔という言葉があるではないか。


「人々は行き先不明の切符を手にしながら、そのつど列車を乗り換えて未来に向かって進んで行く」


“人は人でしか磨くことは出来ない”

四苦八苦について

2015年01月09日 | 仏教
娑婆世界で生活を営む上で必ず体験するのが四苦八苦ではないでしょうか。

四苦とは根本苦とも言われますが

生 老 病 死 (しょう ろう びょう し) のことです。

1-生苦......娑婆世界で生活を営む訳ですが、活かして生きる智慧(知恵) がなければ苦のままです。

2-老苦......だれでも肉体は老います、しかし心までは老いさせないでください。

3-病苦......必ず誰でも病(やまい) は生じます、しかし病気(びょうき) には自分からしないでください 。

4-死苦......死期を悟ることは出来ても、自分が生まれた瞬間を識らないように死の瞬間も、誰も識りません。



さらに次の苦を加えて八苦といいます。

5-愛別離苦(あいべつりく)......誰もがいずれ愛する人と別れなければなりません。しかも最も苦しい別れは愛する自分自身と別れなければならないことです。

6-怨憎会苦(おんぞうえく)......どんなに自分が正しいことをしていても、他人から妬みや憎しみを受ける苦しみです。

7-求不得苦(ぐふとっく)......求めても求めても安心が得られない苦しみです。

8-五蘊盛苦(ごおんじょうく)......生身の肉体や繊細な心から受ける苦しみです。

そこで、おシャカ様は世の無常を説き、各人に自覚をうながしたのです。

娑婆(しゃば) について

2015年01月07日 | 仏教

元来佛教語で梵語の音訳です。

忍土・忍界と訳します。


昨今この世が娑婆世界(しゃばせかい)であるという認識が希薄なような気がします。


娑婆世界とは自分の思うままにはならない世界、一時(ひととき) として耐え忍ばねば生きていけない世界ということです。

ですから私達はこの娑婆世界にあって、生活を営む上は活かして生きるしか道はないのです。

 

 


活かして生きる

2015年01月05日 | 道のこと
活かして生きる

生活..... この言葉を訓読して理解する人は少ないかと思います。


生 レ 活.....漢文のように活かして生きると読めば、果たして私を含めてどれだけの人がこの言葉通りに実行しているかと思うと少々心もとない気がします。


何事も活かさなければ自由自在に活用出来ないのではないか?

そんな思いから皆さんと共に活かして生きる術 ( すべ )を考えていきたいと思っています。