何をしていてもどんなことを考えていてもすべて「道の中の生活」なのです。
ただ自分が気が付かないだけなのです。
別の言い方をすれば、今している事に気が付くか、気が付かないかというだけの事です。
何をしていてもどんなことを考えていてもすべて「道の中の生活」なのです。
ただ自分が気が付かないだけなのです。
別の言い方をすれば、今している事に気が付くか、気が付かないかというだけの事です。
「平常心が仏道ぞの物であるという事」をご理解して頂きたいために「平常心是道」という語録で説明します。
弟子「如何なるか 是れ道」 仏道とは何をいうのでしょうか?
南泉「平常心是れ道」 日常の生活が総て仏道である
弟子「還って趣向す可きや否や」 平常心が仏道その物である事を知(識)るにはどのように修行したらよろしいのでしょうか、と再問しました
南泉「向かわんと擬すれば即ち背く」 脚下を照顧してみなさい、足は既に地に着いているでないか 「道の中」にいるではないか 探し廻れば反って道から離れてしまうではないかと
弟子「擬せずんば 如何でか是れ道なることを知らん」 思慮分別を用いて段々と道に近寄らなければ初心者には如何して「平常心是道」がわかりますか、と。
南泉「道は知にも属せず、不知にも属せず知は是れ妄覚、不知は是れ無記 若し真に不擬の道に達せば なお大虚(たいきょ)廓然(かくねん)として洞豁(とうかく)なるが如し 豈(あに)強いて是非すべけんや」
道というものは知る事ではない、又、知らなくても良いというようなものでもない。
もし知ったという事があればこれは妄想である もし知らなくても良いという事であればどっち付かずである
目の前に有(在)る物を明らかに見なさいと答えました。
弟子「州(弟子)言下(ごんか)に頓悟(とんご)す」 平常心是道を自分のものとする事が出来たのです
しかし「平常心」というお言葉を聞く前は「平常心」ということを知(識)らなかったはずです。
知(識)らなかったという事は「分かる、分からない」に関係なく何時でも何処でも何をしていてもそういう状態に在ったという事なのです。
何時でも何処でも何をしていても「道」からはずれていない生活をしていたという事なのです。
「平常心」や「道」に意義付けや意味づけをしてはいけないのです。
おシャカ様や歴代の覚者といわれる方々は「平常心」をも離れることによって「覚者」なのであり、私たち衆生は「平常心」に拘束されることによって「衆生」なのです。
「平常心(へいじょうしん、びょうじょうしん)」というお言葉は、一般ではごく当たり前の事、あるいは何時もと少しも変わらない事のように理解されています。
その他に深い意味があるということは余り考えられていないようですが、仏道ではこの「平常心」こそが仏道修行の出発点であり終着点であるとしています。
別の言い方をすれば「平常心」というのは、私たち衆生の「一日の生活そのもの」です。
朝起きてから夜寝るまでの色々な活動のすべて、ごく当たり前の日常の生活ということです。
しかし、ここで「平常心」とことさら指摘すると、私たち衆生は今、自分の生活をしている状態をちらっと振り返ってみて「あ、これが、この今の状態が平常心か、これが仏道か」とすぐにそういう自分の様子を認識してしまうものです。
「大通智勝仏(だいつうちしょうぶつ)」は十劫(じゅうごう)もの長い間、坐禅をしたけれども仏法の神髄を究めることが出来なかったという話があります。
これも「心外に仏法を求めたから」だといえましょう。
このように余るところ無く、欠けるところも無いのが、私たち衆生の今の様子です。
此の事が如何しても自分で納得出来なければ「暫く暫く」です。
おシャカ様や歴代の覚者の教えに従って修行し、しかるべき指導者に「聞法(もんぽう)」をしなければならないのではないでしょうか。
その究極に「本来迷っていない」ということに気付く事が修行の要諦です。
「法」には「不明という法」が有(在)ります。
「迷妄という法」も有(在)ります。
「不透明、不鮮明、不確実というようなモヤモヤしてはっきりしない法」もあります。
これらは全部間違いなく「自分自心の今の様子」です。
それを「平常心是道(へいじょうしんぜどう、びょうじょうしんぜどう)」といいます。
ところが「そういうものは自分の求めているものとは違う、仏道というものは高邁なものだ」とか、そのほか自分のイメージした「これこそ仏道だ」という考えをもって修行すると「心外に法を求める」ことになってしまいます。
求めれば求めるほど修行すれば修行するほど隔たりが出来て、自分は北に向かって歩いているつもりが南の方に進んでいたということになってしまいます。
したがって総てを足りたと思っても増す事は無いし、足らないと思っても自心(自身の心)が減ることはありません。
別の言い方をすれば足りるといっても余らず、足らないと言っても欠けることの無い「不増不減」、「無碍(むげ)自在の一自心)」これらのことを究明するのが古仏の「宗乗」であり「法門」なのです。
「人は本来迷っていない」ということを知(識)って、自心(自身の心)の外に悟りを求めてはいけないのです。
この「迷っていない」と言うことを知(識)ることを「悟り」といっています。
迷いとか悟りというのは仮の名前で、その本体は「無自性(自性が無い)」であるということを実証(自分自身で証明)しなければなりません。
「心外無仏法(心の外に仏道も仏法も無い)(今の外に仏道、仏法は無いということ)」です。
おシャカ様の「法(道)ー歴代の覚者の教え」に従っていかなければ「法(道)」には到達しません。
しかし「法(道)」に到達したならば自分の「法(道)」なのです。
「仏法(仏の法)」ではないのです。
それぞれの人の「法(道)」なのです。
「今の自分以外」に「法(道、他)」を求めてはいけないということです。
本当に「六道輪廻の衆生」に成りさえすれば、何もそれから抜け出して声聞(しょうもん)、縁覚、菩薩、仏というような所へ行く必要はないということです。
「心外無仏法(しんげむぶっぽう)」とはどんな状態であっても、その状態しかないということです。
「自分の今の心の動き」が仏法(仏の法)その物なのです。
おシャカ様が人類で一番最初に気付かれましたので「仏法(仏の法)」といっていますが、仮に「Aさん」がそれに気が付いたならば「おシャカ様(仏)」と比べられない「Aさんの法その物」なのです。
ですから、「法(道)」というものは「自己の正体を見極めた人のもの」なのです。