活かして生きる ~放禅寺の寺便り~

娑婆世界を生きる智慧/おシャカ様・禅・坐禅・法理・道のこと

日本人について3

2021年08月30日 | 随感

⑤「島国」だからこそ形成された日本人の素晴らしい意識

それぞれの国や地域などを基に、女性性の民族と男性性の民族とに分類することは出来ても、単純に農耕民族と狩猟民族とに分類することは出来ません。

しかし、日本人にそれが出来るのは「島国」によって形成された民族としての意識であり、それを指し示すのは、海に因って「外敵(征服しようと画策する民族)」から守られてきたということであり、逆に言えば逃げ場のない場所なので助け合わなければ生き抜いてこられなかったと思います。

このような意識を持っている民族は世界中を見渡してもあまりないと思いますが、日本人はその少ない民族の代表格に位置するものだと思っています。

そのため男性性の国々の方からは、日本人は自己主張が弱く、表現も曖昧であることから「本当に何を考えているのか分からない!」と悪口を言われることも少なくありません。

けれどもそれは、「男性と女性の物の見方、捉え方」の違いのようなものであって、必ずしもその指摘が的を射ているとは思っていません。

むしろそれこそが女性国家であり、同時に農耕民族が主体となって構成されている国家である事の証であるような気がしてなりません。

 

⑥日本人の果たすべき役割り

男性性のアメリカや中国が中心になって動かしているマネー経済を基本とした「縦」社会。

その男性性の国家との間で、日本は、「馬と騎手」の関係を構築し、愛と知性を活かした女性性の「横」に広がる社会を創る中心となっていかなくてはならないように感じています。


日本人について2

2021年08月28日 | 随感

④農耕民族と狩猟民族(女性性と男性性)

大きな自然災害が起きた時や、政治の横暴で生活が不安定になった時、「食べ物を確保」することが基本になります。

その思考パターンには、農耕民族(一般的には女性性が強く、集団を好む草食系)と狩猟民族(一般的には男性性が強く、核家族を好む肉食系)との大きな違いが出ます。

どちらの民族も飢餓寸前になった時には、大半が利己に走り、他から奪ってでも食べ物を確保しようとしますがその以前までの行動は全く違っています。

 

農耕民族は基本的に備蓄することを思慮し、食べ物が残りわずかになってもそれを出来る限り平等に分配しようとします。

それに対して狩猟民族は「力が全て」なので、食べ物を備蓄することは考えず、略奪して独り占めしようとする行動に出やすく、基本的には家族の事は考えても他の事を思いやる気持ちには至らないように感じます。

 

日本は代表的な「農耕民族」です。

ここで勘違いして頂きたくないのが、狩猟民族に比べて農耕民族の方が優れているとか、農耕民族は全て女性性の社会で、狩猟民族は男性性の社会であるという思い込みはしないでください。

 

これはあくまで大別して考えればそういうように考えられているということです。


日本人について1

2021年08月26日 | 随感

①初めに

人間一人一人、意識を向上させ「人間は自然(じねん)の一部分」でしかないことを認識し、自然(じねん)を大切にする心を育む必要があります。

 

②世界の現象

人間が動物である以上、自然(しぜん)破壊や、爆発的な人口増加などの原因の大半が、発展途上国と呼ばれている地域に限られています。

それを改善するため最初に解決しなければならないのが「食料問題」です。

問題なのはその食糧の配分先が先進国と呼ばれる国々とそれ以外の国々とで、大きな差があるということです。

これには「人間の欲(お金儲け)」が絡むので、改善しようとすると常に国難がつきまとうことになります。

無秩序な焼畑農業や森林伐採などで「公害と異常気象」が発生することになり、自分類の危機も叫ばれるようになりました。

 

③人間は本来「地球の管理者」

人間たちは自分の都合や欲望のために戦争を起こし、殺人と略奪の歴史を繰り返してきました。

その中で資源をほしいままに手に入れ、発展する過程で邪魔と思われる人間や動物を殺し、自然(しぜん)破壊としながらも今も生きています。

哀しい事に地球上に存在していた多くの種(しゅ)を絶滅の危機に追いやったのも人間です。

それに飽き足らず、遺伝子を操作して見た目は分からないものの、今まで存在しなかった新しい種(しゅ)を生み出しています。

人間が存在する本来の意義である「地球上の管理者」としての位置付けに気が付かなくてはならない時期に来ているように感じます。

人間にある程度の領域まで、満たされた理性が本能に勝る状態にならなければ「宗教」の出番はないのかもしれません。

また、本当に意味での他をいたわる思いが生まれにくいものかもしれません。

 


区切りに5

2021年08月24日 | 法理

今」という言葉は在っても実体はありません。

 

ですから「今」という言葉を使って、実体のない「今」というものを自分のものにする以外にありません。

 

「自分の名前」というものは、後から付けられたのであって「自分の象徴」にすぎません。

 

自分の考えで分かったとか分からないとおいのは、同じ心の中の問題なのです。

 

自分で自分の考えを巡らして善い方に善い方にと自分を向上していこう、というようなことは実は間違いです。

 

あるけれども実体がないということが、人(ひと)をも含めて万物(ばんもつ)の様子です。

 

道歌に曰く、

「為せば成る 為さねば成らぬ 成るものを 成らぬは人の 為さぬなりけり」

「書きおくも 夢のうちなる 記しかな 覚めてのちには 問う人もなし」

 

不尽


区切りに4

2021年08月22日 | 法理

そのままとは、有りのままということです。

 

このままで善かったということです。

 

誰一人として同じ人生を送る人はいません。

 

病気とは自分をクリーニングするサインのようなものです。

 

解釈や意味意義を付けて納得するという作業は潜在意識(記憶)に操作されているのです。

 

大切なことは、分かろうとしないことです。

 

手放すことです。

 

私たち衆生は、「六根(眼・耳・鼻・舌・身・意)」で応じられる世界を現実として生きています。

 

しかし、その世界は「私」の中にあるフィルムが映し出した映画のようなものです。

 

ですから、スクリーンに映し出された映像はフィルムの投影にすぎないのです。

 

問題というのは「人(ひと)」というものを土台にした考え方です。

 

もともと「人」と認めるものは存在しませんから「有(在)る」と思っているのは、間違いなのです。

 

間違いの上に立った考え方というものは全て間違いなのです。


区切りに3

2021年08月20日 | 法理

禅語で「馬鹿」とは「不喞瑠(ふしつりゅう)の漢」といっています。

 

あらゆる出来事は、内側にある波動や想念が現象化してくるものである以上、自分で原因を造らなければ、決して害を被ることがないというのが「自然(じねん)の摂理」です。

 

仏教ではこの事を「身口意(しんくい)の三業(さんごう)」といいます。

 

たとえ誰かから否定的な想念を向けれらたとしても、当人にその否定的な波動を受信する要素が全く無ければ、決して害をこうむることがない「自然の摂理」です。

 

ひとりの人間の周囲の出来事は、その人の出している波動に因って現象化されているのです。

 


区切りに2

2021年08月18日 | 法理

「娑婆世界(自分の思い通りにはならない世界)」での私たち衆生の修行は、「内秘外現(ないひげげん)の羅漢」にら成らなくてはならないのです。

 

「内秘」とは内に「大願成就(だいがんじょうじゅ)」の「大行(だいぎょう)」と秘するということです。

 

「外現」とは外に於いては、声聞(しょうもん)の相を現するということです。

 

本当に「馬鹿」のように成って修行するということです。

 

「宝鏡三昧」という経文で言えば「潜行密用(せんこうみつよう)は、愚のごとく魯のごとし」ということです。

 

「潜行」とは際立たないということです。

 

一体何をしているのか分からないということです。

 

「修行の臭味」がないということです。

 

凡(ぼん)とも、聖(しょう)とも分からないということです。

 

「作用(しごと)」に行き詰まることがなく、追い払うものがないということです。


区切りに1

2021年08月16日 | 法理

外側からくる情報は、それが書物であれ、人の意見であれ、あるいはインスピレーションのようなかたちをとって心に生じたものにしても、決して鵜吞みにせず、それまでに得たあらゆる知識や直感を総動員して、その時点で自分の到着できる高い意識状態において内側から「識別」することが大切です。

 

そしてもし確かめる事が出来ないものであれば、その問題については「判らない」という事を明確にすべきです。

 

「解脱」に至る以前の人間にとっては、進化に応じた自由意思を行使できる範囲がある反面、「自然(じねん)法則」に因って「法」からズレた分だけ「カルマ」が生じ、その混乱の体験に因って自他共に成長していくという二重の仕組みが生じるように成っています。

 

おシャカ様から観れば、私たち衆生が「現象世界」の中で、一刻も早く真理(本来の面目)に目醒めるか、それとも多くの時間を費やして「迷妄の限りを尽くすドラマ」を演じるのかは、その人の「自由意思」に任されているのです。

 

「仏は無為(一切為さず)」なのです。

 

そこで、「慈悲の菩薩」が出現したのです。


道友に向けて

2021年08月14日 | 法理

仏教徒であるとか、仏教とでないということに全く関わりなく、一人一人が際限のない大きな自分(自己)に目醒めて「大安心(だいあんじん)」を得ていただくためには「道」を歩くことが必要です。

 

これが「仏道 すなわち活かして生きる道」です。

 

宗教というのはたびたび申し上げておりますが、「宗(源)の教え」と書きます。

 

「宗(源)」というのは、万物の本質です。

 

宇宙のあらゆるものは「実相は無相である」ということです。

 

「法性(ほっしょう)」に目醒めたお方をおシャカ様とか、如来とかお呼びしています。

 

その法に目醒める「道」を示した教えが仏教なのです。

 

仏教は教えを伝える人も、そしてその教えを聞く人も、ともに「仏教そのもの」なのです。

 

これを「法が法を伝える」といいます。

 

したがって、それぞれの異なった思想や宗教を持った人でも、「仏教という自己の参究の教え」を実践していけば本来の大きな自己(自分)に目醒めて、それまでの宗教、学問、体験、文化、思想、知識等というようなものを、本当に大きく「活かして(生かして)使う」ことが出来るようになります。


活かして生きる道6

2021年08月12日 | 法理

何千何万という数の「宗教(教え)」があると思います。

 

それぞれ皆さん「その宗教(教え)」を信じて(守って)行じられていると思います。

 

私はそういう事を否定するものではありません。

 

私はそれぞれの信じる「宗教(教え)」の中で、今私が提示しているような「活かして生きる道」を取り入れて頂ければ、みんな「道に一つに成る」と思います。

 

そして皆さんがそれぞれの「宗教の教え」に因って本当に平和な自由の人に成れるということです。

 

どうか「充実した日常生活」を送って頂きたいと思います。

 

不尽