活かして生きる ~放禅寺の寺便り~

娑婆世界を生きる智慧/おシャカ様・禅・坐禅・法理・道のこと

三つの考え方3

2019年01月31日 | 法理

仏教は「仏の教え」と書きます。

「教え」というのは実体が有(在)ってそれを色々と説明したものだと思い

がちです。


分かってみれば「理そのものも理ではなくそのものである」ということに

気が付きますが、そこまで行かないうちはどうしても教えや説明を真実で

あるかの如くに思い込んでしまうものです。


そして、その結果としておシャカ様や歴代の覚者といわれるお方の教えの

なかに真実の物を探ろうとするから真実に至ることが出来ないのです。


おシャカ様や歴代の覚者といわれるお方の教えというのは、「考え以前に

有(在)る法(道)」を説明されたことですから私たち衆生は先ず「法(道)」

を求める様に努めなければならないのです。


このことは、物の道理としてよく知(識)っておかなければなりません。


三つの考え方2

2019年01月30日 | 法理

つまり「自分の意識の領域の中」でAからBに場所を変えるような考え方

に陥りやすい一面が有(在)るということを、よく気を付けなければなりま

せん。


これらは全て「意識の範疇」に自我を立てて自分の考え方を右へ持って行

ったり左へ持って行ったりすることに終始しているだけです。


私たち衆生の求めている、或いはおシャカ様を始め歴代の覚者といわれる

お方の教えというのは「意識以前のこと、言い換えれば人間(にんげん)

以前の事をお示しになっている」ということです。




三つの考え方1

2019年01月29日 | 法理

「法(道)」に関して、私たち衆生が誤りやすい「三つの考え方」について

考えたいと思います。


一つ目は「今の自分の考え方はどうも本当ではないようだ」と、自分の

考え方を転換しなければならないのではないかという考え方、つまり、

「意識の転換」です。


二つ目は「自分の従来の考え方には、多少の誤りが有(在)ったように

思うからこれからは正法(しょうぼう)に従って考え方を改めていこう」と

いうように自分の得た知識や信念、信条の改革を求める考え方、つまり、

「思想の改革」です。


三つ目は「従来の物差しや尺度を修正しなければならない」という考え方

つまり、「尺度の修正」です。


蘇東坡の詩4

2019年01月28日 | 法理

ここで問題にしなければならないことが有(在)るのです。


「平常心(びょうじょうしん)」ということが仏道の極地(仏法のぎりぎりの

ところ) なのかということです。


確かに、「平常心」の他に「仏道(仏教)、禅」の目指すところは有(在)り

ませんが「平常心」というものを認めて「成る程、これが平常心だったの

かと考える」とそれは間違いなのです。


このことを「破還郷(はげんきょう)...故郷に還ることを破る」と表現した

覚者が居られます。


「そこに腰を据えてはいけない」ということです。


別の言葉で言えば「平常心是道の道筋」がそこに有(在)ると認めたならば

それは間違いだということです。


「平常心是道が仏道(仏法)の究極である」には違いないですけれども、

「仏教全体」でいえば「実相は無相なり」でないといけないのです。


そこが私たち衆生の還るべき家なのです。


葬儀に於いては「新帰元(しんきげん)...新しく元に帰る」といっています。

つまり、「何もないところ」です。




蘇東坡の詩3

2019年01月27日 | 法理

「到り得 還り来れば別事なし」とは、ついに思いがかなって行って来た

けれども、廬山だ浙江だといってもどこにでもある景色じゃないかという

ことです。


禅門で言えば「平常心是道(びょうじょうしんぜどう)」ということです。


今の私たち衆生の毎日行っていることと、何ら特別なものではなかったの

です。


求め心を持って一度は行かなければならないと思っていたにもかかわらず

「別事なし」とは、他のことではなかったということです。



蘇東坡の詩2

2019年01月26日 | 法理

「未だ到らざれば」とは、自分も一度そういう所へ行って、この眼で景色

のいい状態を自分のものにしてみたい、何とかそこに一度行ってみたい

という意味です。


「千般の恨み消せず」とは、どうにかしてそれを見てみたいと、しょっち

ゅう気にかかって消えないということです。


「廬山と浙江」だけは、自分の心中から離れないということで、今の私

たち衆生の様子をいっているのです。


畢竟(ひっきょう)、「求心(ぐしん)」と同じことです。


蘇東坡の詩1

2019年01月25日 | 法理

有名な、蘇東坡居士(そとうばこじ)の詩を紹介します。


廬山(ろざん) は煙雨(えんう)  浙江(せっこう) は潮(うしお)

未だ到らざれば 千般(せんぱん)の恨(うら) み消(しょう) せず

到り得(え) 還(かえ)り来れば 別事なし  廬山は煙雨  浙江は潮


「廬山は煙雨」とは、私たち衆生に言い換えれば、本来の自己に

目醒めるとか、見性とか悟りとか自己を忘じるということを廬山

という景勝地の景色を借りて、ここで語っているのです。


「浙江は潮」とは、ある月になると、浙江省の海水が逆流するという

話があるそうですが、これも景色が素晴らしいところを私たち衆生に

言い換えれば、涅槃、極楽、仏法のぎりぎりのところと考えて頂ければ

よろしいと思います。


自分の法3

2019年01月24日 | 法理

「威儀即仏法、作務是宗旨(いぎそくぶっぽう さむこれしゅうし)」も

お坊さんだけに限られたものではありません。


「威儀即仏法」とは、みんなそれぞれの職業をもっている人のことです。

「作務是宗旨」とは、それぞれの決まりの中の生活をしているということ

です。


これがお坊さんだけのものであるかのように説き示されていることも

大きな間違いです。


ですから、出家の人、そうでない人にかかわらず必ず「修證(修行と悟り)」

は出来るということです。


自分の法2

2019年01月23日 | 法理

それでは、” 何故おシャカ様の法、あるいは道元禅師の法を求めなければ

ならないのか” ということになります。


求めるのではありません。

そういうお方のお話を「承って(それを入り口として)」、人人の分上

ゆたかにそなわっているところの「自分の法」を把握することです。


「私は、おシャカ様や道元禅師のようにはなれないよ」という考えを持つ

のは間違いです。


何故ならば「法」というものは比べることが出来ないものだからです。

「自分の法に自分が目醒める」のです。


「分上ゆたかに」というのですからそれぞれの人そのものです。

小さい人は小さい、大きい人は大きい、それが「この法は人人の分上

ゆたかにそなはれり」ということです。


自分の法1

2019年01月22日 | 法理

「この法は人人(にんにん)の分上ゆたかにそなはれり」という、道元

禅師のお示しがあります。


「法」というのは、何も知(識)らない、一切為さざるところにおいて、

はっきりと物が見える、聞こえる、味わえるという、「六根(眼・耳・鼻・

舌・身・意)」の働きのままのことです。


自分のなかで、何かを知(識)るというようなことがなくてもすべてが

きちんとわかります。


初めて見るものも、初めて聞くものも、初めて味わうものも、きちんと

わかるということです。


そういうことを「この法は人人の分上ゆたかにそなはれり」といっている

のです。


ですから、それぞれの人がみんなその人の法、ではありませんか。