活かして生きる ~放禅寺の寺便り~

娑婆世界を生きる智慧/おシャカ様・禅・坐禅・法理・道のこと

縁起の法2

2017年02月28日 | 法理

私たち衆生の出生をみても「無目的」に生まれて来ています。

「不知不識生」にです。

 

なんの意味付けも意義付けもなく、こうして話をし、坐り、

食べ、笑ったり、泣いたりしています。

 

完全に「そのことがそのことで消滅」しながら「生活(活動)」

しているのです。

 

過去も現在も未来もそうです。

ですから言ってみれば、その時その事が結果としてそれ以外

どうすることも出来ないこととして行われているということです。

 

ですから遠くの方に、遠くの未来とかに目的を持ったり

意義付け意味付けしたりすることは、あってはならない

ことなのです。


縁起の法1

2017年02月27日 | 法理

仏教は常々申し上げているように「縁起の法」です。

人の作ったものではありません。

 

「縁」に因ってすべてのものが形作られ、そしてまた、

それが「縁」に因って消滅し、形作られ、消滅し、形作られて

たまたま私たち衆生はこういう現象の世界にいるわけです。

 

しかし、このことは「偶然」ではなく「必然」なのです。

この「現象の世界」というものには、意義付けも意味付けも、

絶対とか相対とか、一切そういう「理屈めいたもの」はありません。

 

「自分もまた(法)のひとつであり、(法)そのものである」

ということを、よく承知していただかないと何か大事なこと、

大切なことが自分以外のところにあるように思われてしまいます。

 


因縁の法を考える2

2017年02月26日 | 法理

ところが、「自由」をもう一つ飛び越えてみれば、

今度はどんな約束(規則)の世界へ放り出されても

何も別に問題はありません。

 

これが「大切」なのです。

みんな「自由」というと、勝手放題なことが「自由」だと

ばかり思っています。そうではありません。

 

どんな世界に入っても「平気」でいられれば何の「心の動揺」も

なければ「矛盾」も起きてこないのです。

 

しかし、「何か自分」に一つの特殊な考えを持っていると

それがすぐに中心になるから、こんなつまらないことは

嫌だということが出て来るのです。

 

そうするとそれが「苦悩、煩悩」を起こすのです。

それさえなければ「問題」はないのです。

ですから、私たち衆生が「自分の真相」を本当に知(識)れば

楽になります。

 

そこで、「今の因縁」というのは相集まって組み立てられた

ものですから、「其の物」は暫定的にある時間、ある空間という

「ものの約束(規則)の範囲(因縁の法)」に留まっているのが

「物の存在」ということになるだけのことなのです。


因縁の法を考える1

2017年02月25日 | 法理

「因縁」というのは、凡てのものは寄り集まって唯

組み立てられただけのことなのです。

 

別の言葉で言えば、あらゆる条件が唯重なり合って

凡てが出来上がっているだけのことなのです。

 

ですから、その中に永続的な「私(わたし)が」という

固定的な変わらないものだというようなものは、一つも

存在しないのです。

しかし、このことだけが「不変」なのです。


ですから、私たち衆生がどういう世界へ入って行っても

その約束(規則)の世界からいえば、「無条件」であり、

「無条件同士」の組み立てられたものですから、元来

約束(規則)のないものなのです。

 

約束(規則)がないものですから、「自由」であるという

ことです。

 

しかし、ここで「自由」であるということに「問題」が

あるのです。

 

それはどういうことかというと、「自由」であるというと

先ず大半の人がそれでは何をしてもよいではないか、

勝手放題のことをしても差し支えないものじゃないか

ということをまず先に考えるものです。

 

これが「我見」であり、おシャカ様も昔は有ったのです。


やるべきこと

2017年02月24日 | 法理

今、様々な音が聞こえてきます。

一体どこから入って、どこに消えていくと思いますか?

 

こういう音も全て「因縁生」です。

「因縁生」はどこから来るのでしょうか?


実はそれも「因縁生」から出て、「因縁生」で終わっている

ものなのです。

 

宇宙はいくつあるのか分かりません。

分からないということは大切なことなのです。

分かることと、分からないことが対照として考えられている間は

まだまだ、やるべきことが残っていると思って精進して頂きたい

と思います。

 

開悟した瞬間というのはすべてがなくなります。

過去も現在も未来もありません。

「悟りを得た」などということは、碩滴もありません。

当たり前のことさえなくなって、あるのは「一事実」だけです。

 

そのことを理としてご承知おき願って、毎日の私たち衆生の

働きのままで十分足りる人に成って頂きたく思います。


如是我聞

2017年02月23日 | 法理

宇宙の全ての生滅は、誰が造ったものでもありません。

因縁生によって消滅を繰り返すものには実体がないからです。

 

おシャカ様の教えは実体がありません。

実体のないものがどうして今日まで伝わったかというと

おシャカ様の最初の弟子の「阿難尊者(あなんそんじゃ)」が

記憶力が抜群で、おシャカ様の四十九年の説法を一言一句

(いちげんいっく)すべて暗記し、それを書き留められたからです。

 

それが経典に成ったので、大切なお経の冒頭には必ず

「如是我聞(にょぜがもん)〈かくの如く我れ聞く〉」という

お言葉があるのです。

 

私たち衆生も、いつまでも「如是我聞」で終わってしまっていては

いけないのです。

実際に、「今の事実」そのものに成ることが、修行の要訣です。


因縁生とは3

2017年02月22日 | 法理

全ては「因縁生(ものには実体がない)」です。

「因縁生」、どこから来るのかというと、それは

「因縁生」から出て「因縁生」で終わっているものなのです。

 

おシャカ様は人類で初めて「因縁生(ものには実体がない)」に

目醒められて、すべてに自由になられたのです。

 

それを「道」と言い、その方の説かれた「法(道)」を

「仏法(仏道)」と呼んでいるのです。

 

ですから、「法(道)」は誰のものでもありません。

「因縁生」に目醒められた人のものだということです。

 

「迷い」や「不安」の根源とは何か。

「迷い」や「不安」に成ってみることです。

 

それ以外に、「迷い」や「不安」を解消する方法は

ありません。


因縁生とは2

2017年02月21日 | 法理

私たち衆生は、自分を悩ましたり困らせているのは、

何か自分以外のものから「縁」を与えられて、それによって

腹を立てたり、感情の起伏が激しくなっているとしか考えられない

ものです。

 

しかし、実はそういうものは全部自分自身が造っている

ということなのです。「因果一如」なのです。

 

したがって、「自分自身」が「自分の問題」として解決

しない限りは、絶対に怒りの心や善悪の心がなくなるもの

ではありません。

 

自分で認めて、認めたものによって自分自身がさまざまな

「感情」を起こしているのです。

 

ですから、「修行」によって自分自身で見極めていく必要が

あるのです。

そうでないと、「安心(あんじん)」は有り得ません。

 

「すべてワンマンショーをしている」というのは、そういうことです。

自分と自分以外のものを別にしてみると仏道の「道」には

なりません。

 

一般に「柳は緑、花は紅」という禅語がありますが、

柳が緑になる以前、花が紅になる以前の状態が必ずある

ということです。

 

そういうことを知っていただかなければなりません。

 

 


因縁生とは1

2017年02月20日 | 法理

私たち衆生の目の前に、因縁によってさまざまなかたちの

ものが現出しています。

これを「因縁生」といいます。

 

又、あるいは形のないものでは「心の働き」など

「因縁生」によって現れた事象のことを「差別(しゃべつ)」

といっています。

 

すべてが「因縁生」のものですから、ある「縁」により

男性になり女性になり、さまざまな耳目によって現れて

来ているのです。

 

「法」としては、平等と差別(しゃべつ)というのは

一体になっているのです。

 

しかし、今の私たち衆生は、「人(にん)」としては、いつでも

どこでも「縁」とひとつになっているのですが、そういう状態を

自分では知ることは出来ません。

これを「不識」といいます。

 

何故なのでしょうか。

たとえば「花」を見たとします。

最初に観た瞬間は自分の好みに合う合わない、美しい美しくない

などという「感情」は一切出て来ません。

 

「花があるという認識」だけです。

ところがその瞬間に、「この花はあまり美しくない」とか

「この花はきれいだ」という「花という見たそのままの対象物」

とは全く関係のないところに「分別心」を生じさせてしまうのです。

 

ですから、「自分の問題」として、そういう「心」を起こした

ということです。


そして、「この心」は目の前の「花(相手)」を取り除いても、

自分の中に好きだ、嫌いだ、美しい、美しくないという

「感情」になっていつまでも残っているのです。



2015/9/18 因縁生


不昧因果4

2017年02月19日 | 法理

「死を成功」と見る宗教は仏教以外にはありません。

「死の時」に極楽を求めるということは矛盾なのです。

「死そのものは死なない」のです。

 

道元禅師は、

「この生死はすなはち仏の御いのちなり、これをいとひ

すてんとすれば すなはち仏の御いのちをうしなはん

とするなり」

と、戒めて居られます。

 

道元禅師の歌に

「面白や 散る紅葉ばも咲く花も おのづからなる 

法(のり)のみ姿」

と。

 

死は宇宙間の活動にして死なくんば生なし、病人が健康に

復するのは病人が死するからです。

 

野蛮が死ぬから文明が生まれるのです。

要は人生観の極致は、境遇は真理なり、それぞれに安住して

心を動かさざること大山の如く、ただ適材を適所に用い

努力すればそれでよいのです。

 

「禅」の二字は、「単を示す」の二字から成り立っています。

努力とは「単に成る」ことです。

単に成って「努力」することです。

努力ばかりに成って己れを忘ずる標準が「坐禅」なのです。