私たち衆生の目の前に、因縁によってさまざまなかたちの
ものが現出しています。
これを「因縁生」といいます。
又、あるいは形のないものでは「心の働き」など
「因縁生」によって現れた事象のことを「差別(しゃべつ)」
といっています。
すべてが「因縁生」のものですから、ある「縁」により
男性になり女性になり、さまざまな耳目によって現れて
来ているのです。
「法」としては、平等と差別(しゃべつ)というのは
一体になっているのです。
しかし、今の私たち衆生は、「人(にん)」としては、いつでも
どこでも「縁」とひとつになっているのですが、そういう状態を
自分では知ることは出来ません。
これを「不識」といいます。
何故なのでしょうか。
たとえば「花」を見たとします。
最初に観た瞬間は自分の好みに合う合わない、美しい美しくない
などという「感情」は一切出て来ません。
「花があるという認識」だけです。
ところがその瞬間に、「この花はあまり美しくない」とか
「この花はきれいだ」という「花という見たそのままの対象物」
とは全く関係のないところに「分別心」を生じさせてしまうのです。
ですから、「自分の問題」として、そういう「心」を起こした
ということです。
そして、「この心」は目の前の「花(相手)」を取り除いても、
自分の中に好きだ、嫌いだ、美しい、美しくないという
「感情」になっていつまでも残っているのです。
2015/9/18 因縁生