「この物」は特別に分けていえば「肉体と精神」より成っています。
これは自分の物でもなければ、誰の物と言えるような物でもありません。
「六根」という道具の機能が集まって、私たち衆生の生活を成しているのです。
大切なところは、「この物」を認めて想った時だけに「この物(自分自身)が在る」ということです。
お経の中でも、「この物無くんば彼の物無し、この物あるがゆえに彼の物あり」とはっきり示されております。
「この物」は特別に分けていえば「肉体と精神」より成っています。
これは自分の物でもなければ、誰の物と言えるような物でもありません。
「六根」という道具の機能が集まって、私たち衆生の生活を成しているのです。
大切なところは、「この物」を認めて想った時だけに「この物(自分自身)が在る」ということです。
お経の中でも、「この物無くんば彼の物無し、この物あるがゆえに彼の物あり」とはっきり示されております。
よく悟りを開いたとか、自己に目醒めたというような表現を耳にされたり、本で読まれると思います。
これは「私が目醒めた」とか、「私が悟りを開いた」というものではありません。
「この物が縁 そのものに成った」という事です。
「この物」即ち皆さんが自分と思ている物、これは自分でも、人でも、何でもありません。
「私の正体は何か?」
「この物」というのが一番適切な表現なのです。
「悟り」とは、私たち衆生の今の様子を「悟り」といいます。
「今の様子」というと、直ぐに「あっ、今の状態か」と、自分を認識するものが在ると思いますが、そういうものではありません。
「今」と、自分が「今」を認識した時は「今」は過去のものに成ってしまいます。
認識を起こす以前の様子(悟り)は私たち衆生には必ずあるわけです。
ですから「悟れないという人」は一人もありません。
何故ならば「悟り」は何時も「自分が自分を認識する以前に既に事実として在る」からです。
ですから、何時でも「悟り」というのは「事実として在る事」だと承知しておいて頂きたく思います。
「微妙の法門」とはこれまで云々してきた所をひっくるめて、その自在を覚めた語です。
つまり私たち衆生の「今の様子、今の事実」です。
ここに至ってはどんなふうにして説いたり考えたりすれば善いのでしょうか。
教えるべき余地が無いのです。
そこが「教外別伝、不立文字」という事です。
「別伝」とは別に伝えるものは無いと伝えたものです。
迦葉はおシャカ様から何をもらったのでしょうか。
さらにおシャカ様の有名な「滅法の偈」を記します。
「法の本法は無法 無法の法もまた法なり 今、無法を付する時 法法何ぞかつて法ならん 故にかくの如く花を拈じて付法す」と。
私たち衆生は迦葉ばかりに「法」を預けておいてはいけないのです。
何故ならば「仏法ならぬところはどこにもない」からです。
時節とは「今の事」です。
「現在の事」です。
古歌に、「世の中は今日より外はなかりけり、昨日は過ぎて明日は知れず」と。
この「今」が大切なのです。
おシャカ様滅後五十六億七千万年のちに、弥勒菩薩(みろくぼさつ)が出るという真意は、「今の延びた事」をいったものです。
盤珪(ばんけい)禅師の歌に、過去も未来も只今ばかりというのがあります。
「只今」が、大事なのです。
「只今」に、無限の生命がある有(在)るのです。
無限の力が有(在)るのです。
それを「認めなければなりません」。
「道」は近きに有(在)るのです。
「道」は天下に、満ち満ちているから「道」と言うのです。
私たち衆生は、わずかの失意で自棄を起してはいけません。
只働けばよいのです。
「只働けばよい」という処に、「一生の極」が、あるのです。
働きの価値が解らないから、煩悶するのです。
働くその瞬間に、宇宙を占領しており宇宙が我が物に、成り切った処に、真理があるのです。
「因縁」という事は、つまり「結果」という事です。
結果とは「成就」した事です。
因と縁が合して、一つの物が出来たのです。
「因」とは、自己の事です。
「縁」は宇宙です。
宇宙が無ければ自己は無く、自己が無ければ、宇宙は無いのです。
宇宙全体に影響が及ぶのです。
つまり私たち衆生は、宇宙とその消長を共にしているのです。
その間に、「固まった自己」という物は、ありません。
これが「結果は絶大成り、自己は小宇宙なり」と言われる由縁です。
だんだん秋が深まって来ると、「時節因縁」で柿の実も「自然(じねん)」に熟して来ます。
熟しきりますと、人の手を借りることなく、落ちて来ます。
「脱落」するという事です。
善い事も悪い事も辛い事も嫌な事も、全て「実を熟させる因縁」です。
天気の良い時ばかり都合の良い時ばかりが、熟するのではありません。
雨が降っても雪が降っても風が吹いても、全て「実を熟す因縁」です。
それを受け取りさえすれば、必ず「熟して実が落ちる時節」が、あるという事を、「道理」として理解して、修行して頂きたいと思います。
おシャカ様のお言葉を別のお言葉で申し上げれば、「全ての物は、仏では無い物はない」と叫ばれたのです。
この様に理解していただければ結構です。
どんなものでも「今の事実、今の自己の様子」でしか有り得ませんと言う事です。
自分を含めて「一切衆生」と言う事です。
「華厳経(けごんきょう)で「一切衆生は如来の知恵徳相を、具えている」と言われました。
「私たち衆生は仏その物である」と言われたのです。
おシャカ様が「一見明星」されて、叫ばれました。
それは「般若心経」の最後に出ております。
「やった、やった」と叫ばれたのです。
六年間非常にご苦労なさったのです。
そうして、「確実に成し遂げた」と叫ばれたのです。
「一切衆生と共に確実に成し遂げた」と叫ばれたのです。
そして最後に「万歳」と叫ばれたのです。
それ以来おシャカ様は、「迷っている人は無くなった」とそう宣言されたのです。
私たち衆生は、「六根の縁(目・耳・鼻・舌・身・意)に因って、必ず本来の自己に目覚められる時節」が、あります。
悟りを開いたという人は、どなたでも必ず「六根の縁」に因って、「本来の自己」に目覚めているのです。
ですから自分の意志や知恵を働かせて(自分の考えで)この「道」を成就しようとしても、それは不可能な事なのです。