活かして生きる ~放禅寺の寺便り~

娑婆世界を生きる智慧/おシャカ様・禅・坐禅・法理・道のこと

おシャカ様初めての気付き2

2016年03月31日 | おシャカ様

私たち衆生は、考え方で訓練をして、「悟り」を手に入れようと思うから誤るのです。

そんな考えでどうにかしようという見解をみな捨ててしまわなければなりません。

 

なにかがあるとか、ないとかという事がないのです。

「将に踏まんとすれば、天地懸隔す」

との、お示しがありますが、踏もうといっても踏む種がないのです。

踏まれるものもないのです。

 

「一塵の足に受くるなし」 で、「塵」 一つ存在していないのです。

そういうところに、おシャカ様は本当に徹したのです。

 

誰でもが徹しられるのです。

自分が自分自身に徹することです。

今でも、誰でもが、そのような境地にあるから、自由でいられるのです。

知らずに自由でいられるのは、みんな 「其の人(存在者)」 だからです。

 

そんなに自由が利いている事に気が付いていないのです。

一つも問題にならないほど自由が利いているのです。

それほど大きな問題が 「此の物」 によってちゃんとしているのです。

 

おシャカ様や歴代の祖師といわれる覚者方は 「そのことを見つける道」 を教えられただけなのです。

 


おシャカ様初めての気付き1

2016年03月30日 | おシャカ様

おシャカ様は 「アララカラン、ウッダカ等」 について、心を使い、体を使って

一所懸命難行苦行してみたのです。

その結果、教える人が 「もうこれ以上教えるものがない」 というものですから、

もうこれ以上教えるものがないとすると、救われないではないかと思ったのです。

 

それはそのはずです。

おシャカ様が求めていたものは、本当に満足出来る「道」だったからです。

 

それで、静かに考えられて

「どうもしないのに、皆こうして先にあるという今の事実」 に気付かれたのです。

 

「この事実」 は一体どういう事なのか、こういう 「今の事実」 があるというのは

考え方ではないのではないか

と、初めて考え事を止めたのです。

 

考え事を止めて、あるがままに徹頭徹尾それを貫かれたのです。

そうすると人間(にんげん) の見解(けんげ) らしいものが

知らない内に皆落ちてしまわれたのです。

 

そしてそのまんま貫いておられると、それすらも分からないほどに

ただ其の物に成ってしまわれたのです。

その時に 「夜明けの明星」 を 「縁」 に、一念が起きたとたん思わず

「あれっ」 と驚かれたのです。

 

その時までは念も何もなかったのです。

考え方としての念も少しも動かない様になっていたのです。

 

ですから、「悟り」 は人間の観念で得る事ではないのです。

いわゆる人の 「分別心」 という 「心」 に因って 「道」 というものを

得るのではないのです。

「自覚」 です。

知っただけなのです。

「自覚」 というのは 「今の事実を本当にそうだった」 と確認が出来ただけなのです。

 

 

 


法としての根元(本)3

2016年03月29日 | 法理

更に、道元禅師は

「将に見んとすれば、白雲万里」

と、今までの 「見解(けんげ)」 を持って、そういう事を見ようといっても及ばないことですよ

と、はっきりお示しになって居られます。

 

「此の物」 は、音がすれば用があっても、なくても 「自然(じねん)」 に耳に入るように

出来ているのです。

 

その 「活動体」 を見ようと言っても、どういうわけでそうなるのかと尋ねても

分からないのです。

分からないのですけれども、必ずそうあるのです。

知らずに行われている様子なのです。

 

道元禅師は、「法としての根元(本)」 という事について

「其の法の為体(ていたらく) 模索(もさく)することを得ず、求覓(ぐみゃく)することを得ず」

と、示されています。

 

探ろうと思っても、尋ねようと思っても、どこにもその種はありません。

「活動体」 は何もないところから活動しているのです。

 

今でもこうして机に向かってペンを動かしていると、何もないところから

「声」 が聞こえます。

どこかにあって始まったのではないのです。

 

「声」 は人間(にんげん) が後から考えて分かった事です。

後から、人間がそういう事に認定したのです。


人間の 「見解(けんげ)」 で見ようと思っても距離があるのです。

それを 「見んとすれば、白雲万里」 と言うのです。

距離がありすぎて分からないと、道元禅師はおっしゃっているのです。

 

「此の物」 は般若心経にある通りに

「無眼耳鼻舌身意」

なのです。

 

おシャカ様、在世の時に自分で自分の機能としてのもの(六根)を

問題にした人は、おシャカ様以外には居なかったのです。

多くの人は、「此の物」 を 「私のもの」、という考えを中心にして、

それの便利のいい事だけを考えてきただけなのです。


法としての根元(本)2

2016年03月28日 | 法理

本来の私たち衆生の状態というものは、悟ったからといって変わるものは

一つもないのです。


道元禅師は 「学道用心集」 の中で

「いわんや、行の招くところの者は証なり、自家(じけ)の宝蔵、外(ほか)より

来らず、証の使ふところの者は行なり」

 

「心地の蹤跡(しょうせき)、あに回転すべけんや」

と、はっきりお示しになって居られます。

 

ただ実物を見て、「ああそうなのだ」 と、自信が付くだけです。

その自信がついてみれば、今までの考え方で行っていたのが、考え方ではなくて

どうもしない、どうも思わないのに、「今こういう状態がある」、それだけで終わっている

のがはっきりするのです。

 

何故かというと、自分の 「見解(けんげ)」 「考え方」というものから、「きれいに離れた真相」 を

自分で見つけたからです。

自分たちの考え方で扱う道具ではなかったという事に気が付くのです。

 

その様子を道元禅師は、

「もし、証の眼を回らして、行の地を顧みれば一翳(いちえい)の眼の当たるなし」

とお示しになって居られます。

 

悟った時の自分の様子を顧みてみると、ものを見るという事でも、思いの上でも、

なんにも邪魔になるものはありませんという事を表現なさっているのです。


法としての根元(本)1

2016年03月27日 | 法理

すべてのものは、どうしたものでも、どう思ったのでもないのにみな 「ある」 のです。

「六根(機能)」 は、「縁」 に従ってどんなにでもなるのです。

このことは、「考え方」 ではありません。

「考え方」 でない作用を 「永遠」 といいます。

 

ですから、人間(にんげん)は 「一番初めに、知らずに出来た」 のです。

人は知らずに生まれて来たのです。

それは 「法」 です。

それが 「法としての根元(本)」 なのです。 それが、「永遠」 にあるのです。

 

例えばここに 「机」 があります。

「机」 はあなたが考えたから自分の前にあるのでしょうか?

あなたがいらないと思ってもあるのではないでしょうか。

 

人間的な手段や方法も何も必要とせず、見えては消え、思えても消えて、

そしてそれが限りないのです。

そういうように私たち衆生は生活をしているのではないでしょうか。

 

外へ出てみて下さい。

「環境」 に接した時分に、接しようと思ったのではないのです。

知らないのです。けれども 「環境」 というものが 「ある」 のではないでしょうか。

 

「環境」 といいますが、みんな 「此の物(身体の機能)」 の様子なのです。

ですから、本当は 「環境」 ということもないのです。

 

そういうことがどうしてこんなに 「区分」 がついたかというと、

「物心ついた時点」 でそうなったのです。

「此の物(身体の機能)」 を考え方にしたからです。

「考え方」として、ものを捉えたからです。


そして、今の様な「問題」が起きるのです。

 


根元(本)5

2016年03月26日 | 法理

「坐禅」 を行ずる時は、自分を中心にして 「坐禅」 を行じてはならないものです。

それを本当に止めて、「六根(眼・耳・鼻・舌・身・意)」 を解放します。

 

「六根の作用」 がどうあろうとも相手にせず、邪魔にせずして、

一々の、その時、その時の作用のままに手を付けないことです。

“構わない” ことです。

 

その現じたり、滅したりする、それ自体が私たち衆生の手付かずの真相なのです。

「応無所住而生其心 (おう むしょじゅう にしょう ごしん)」

〈 まさに住する所無くして 而も 其の心を生ず 〉

 

そうすれば、なんにもない所から生じながら、直にそれから離れて(脱落して)、

「その事実」 が自分に完全に具わっていることが手に入るのです。

「身心脱落、脱落身心」 です。

 


根元(本)4

2016年03月25日 | 法理

「此の物自体」 の必然性を見ると、外で車の音がすれば、否応なしに、

その通りの事があるのです。 現じているのです。

 

一体どっちから始まったのでしょうか。

向こうからはじまったのか、こっちから始まったのか知らないのです。

 

人間(にんげん)を中心にして、色々な事を考えるので、こっちからとか、向こうから

とか問題を起こすのです。

それはみんな 「人の考え方の問題」 です。

そのようなものから、「此の物」 は全部離れているのです。

 

「能は境を逐うて沈す」 とのお示しがあります。

こっちから言えば、向こうの車の音がこっちの方でちゃんとあります。

向こうを対象にすると向こうの車の音がするところに、「此の物」 が

ちゃんと収まるのです。

 

ですから、「両者共に成立しない」 のです。

別の言い方をすれば、もともとこっちだとか向こうだとかは

「存在」 しないのです。

 

それが存在するということは、人間(にんげん) の見解(けんげ) なのです。

 


根元(本)3

2016年03月24日 | 法理

「今の事実」 の真相を目当てにして、どこかへ追っかけて行ってもしょうがないのです。

一々、何もかも、手当たり次第、即処即処に 「今の事実」 はあるのです。

 

私たち衆生は、「今の事実」 をどうしてもそのまんまに出来ず、手を付けたがるのです。

他に尋ねたがるのです。

ですから、ちらっとでも是非の観念が起きて、その観念に基づいてどうかしようとすると

「根本的」 に、すべてを失ってしまうのです。

 

念がちょっとでも起きると 「法」 を失うのです。

みんな 「自分の真相」、「今の事実」 を立証するものばかりなのです。

 

ですから、「此の物」 は今の瞬間、その事がある以外に何にもあるわけではないのです。

それの 「連続」 なのです。

 

どこをどういう風にして守ろうといっても、守る必要がないのです。

ただ、一々が本当に 「念」 さえ起きなければ、即処、即処にみんなそのものの

「立証」、「証明体」なのです。

 

「此の物」は、守るの、捨てるのというような事の要のないように出来上がっているのです。


根元(本)2

2016年03月23日 | 坐禅

「カス」 を追いかけることを止めて、「今の事実(自分の今の様子)」 に

ちょっとでも翻って、考え方ではなしに聞いてみる必要があるのです。

 

別の言い方をすれば、「此の物」 の活動体としての 「事実」 に 眼を向けてご覧なさい、ということです。

 

そうすると、今まで 「空(くう)」 であるとか、「無」 であるとか、

「真実」 であるとかないとか言っていろんなことを考えていた、

そうした考えの結論が自分の手許に 「あった」 ことがはっきりするのです。

 

求めているものが 「手許」 にあったのです。

他へ頼っていく必要が全く無い様に 「出来上がっていた」 ということなのです。

 

今まで 「空(くう)」 であるとか、「無」 であるとか、いろんな事を言って取り扱っていたけれども、

それは皆 「妄想」 であったということです。

 

その証拠は 「今の事実」 です。

「今の事実」は、どうしたものでもないのに「あり」、

どうしたものでもないのに すぐ「無く」なってしまいます。

どうするのこうするの、といった 「要点」 がないのです。

 

三祖大師 信心銘(しんじん めい) に、 「真を求むることを用いざれ、唯須(すべから)く 見(けん)を 息(や)むべし」とあります。

「真を求ることを用いざれ」 とは、

真実を求めたかったら、真実らしいものをどこかへ求めようといった

考えを起こして追いかけることを止めなさい、ということです。

 

「唯須らく見(けん)を息(や)むべし」 とは、

自分がそういう真実を求めたりという欲求を起こして、

向こうへ尋ねていこうとする見解(けんげ)を止めれば、直に真実なのだ、

ということです。

 

他に真実があるのではないのです。

それが、どうしても理想らしいものをたてる為に、向こうへ向こうへと

求めていくようなことになりやすいのです。

 


根元(本)1

2016年03月22日 | 坐禅

人間(にんげん) の見解(けんげ) を用いずに、耳から耳の

「機能まかせ」 にしてみて下さい。

 

「耳(機能)」 は、自分が気に入るとか、気に入らないとか、いいとか悪いとか、

そんなことを飛び越えて、ただ 「自然(じねん)」 です。

何百人いてもその通りです。

 

だれでもその通りなのです。

大抵、「自然(じねん)」 に脱落するはずなのです。

 

古人も言って居りますが、「脱落が自分にあること」 に気が付くはずです。

それを、とかく向こうにあるように思うものですから

「根に帰すれば旨を得、照に随えば宗(しゅう)を失す」

なのです。

 

「根」 というのは知らない内にある 「今の事実」 のことです。

これが 「根」 です。

「元(本)」 です。 「根元(本)」 です。

 

「今の事実」は人が知る前にあるのです。

知ってから、みんな問題を起こすのです。

 

その問題を起こす前にある 「そのこと (今の事実)」 が私たち衆生の 「根元(本)」 です。

他に尋ねていく 「根元(本)」 はないのです。

 

他に尋ね、それを相手にして問題を起こしていくと

「自分の真実」 を捨てておいて 「カス」 ばかり追いかけることになるのです。

 

実物を捨てておいて、「カス」 を本物のように思って

追いかけていくことになってしまうのです。

 

それを、「照に随えば宗を失す」と言います。