活かして生きる ~放禅寺の寺便り~

娑婆世界を生きる智慧/おシャカ様・禅・坐禅・法理・道のこと

一水四見の教え2

2023年01月31日 | 法理

「仏見(仏様のいわれること)」に随わない限りは、言い換えれば自分というものを認める相対的な判断を無くさない限り、どのような見方をしても誤ってしまうというのが「一水四見」という教えです。

 

私たち衆生がいつまでも「一水四見」の教え方や見方をしていると、どんなに坐禅に一所懸命になっても「惑業(わくごう)」という「事の是非を取り違えた料簡、即ち悪業」が相続されていって、そこから逃れることができません。

 

そして、他で得た知識でおシャカ様や歴代の覚者の法を自分なりに解明しようとしたり、自分なりの判断から「坐禅(法)を分かった」とか「坐禅はよいことだ」と思ったり語ったりするという間違いをおかしてしまいます。


一水四見の教え1

2023年01月29日 | 法理

「一水四見(いっすいしけん)」というのは「水」という字を、水界、天上界、人界(にんかい)、餓鬼界の四つの立場から見るという事です。

 

水界に棲む魚に向かって「水(この世)というのは、住み心地のいい所である」と説けば魚はそうだとうなずくでしょうが、「燃え盛る火だ」と説けば ”ウソ” になります。

 

立場を変えて天上界で何不自由ない生活をしている人にとっては、水(この世)は住み心地のよい所というより、まばゆいばかりに輝く宝石に見えるでしょう。

 

人界にいる人は「水は水だ」というでしょうし、満足という事をしらない餓鬼界にいる人にとっては、猛火の如くに見えるでしょう。

 

このように、水界に生活する者、天上界に生活する者、人界に生活する者、餓鬼界に生活する者が水をどのように説明してみても立場が変わればみんな ”ウソ” になってしまいます。


世法について2

2023年01月27日 | 法理

他の有名な覚者のお言葉に、「世法に実(じつ)なるものは、仏法にも実なり」というお示しがあります。

 

世の中の法に、真面目に真剣につとめている方は、仏法(道)にも実なのです。

 

世間の法には一如(いちにょ)というような事がありません。

 

しかし、仏法ではいつでも一如だといっています。

 

ところが、どうしても自我の迷執というものによって一つのものを二つに見てしまうのです。

 

これは「無明(むみょう)」の然らしめるところなので、どうしてもこの「無明(むみょう)」を明確にしなければならないという事です。

 

物事をつきつめていくと、生死(しょうじ)が問題になってきます。

 

修行することは生死の問題を根本より解決することにならなくてはいけないと思います。

 

いいかげんな気持ちでは「生きるか死ぬか」の問題は解決いたしません。


世法について1

2023年01月24日 | 法理

世の中には、なかなか専一に「道を求める」修行をすることが困難なので「世間には仏法(道)というものはないんだ」と考えてしまう人が多いと思います。

 

しかし、そうではありません。

 

その辺のところを正法眼蔵(しょうぼうげんぞう)では「世間の法には、仏法(道)がないという事だけを思って」「仏法のなかに世法のなきことを、いまだ知らず」とはっきり示されております。

 

すなわち世法、仏法(道)ともにすべて、仏法(道)そのものであるという事を知らないといけないのです。

 

別の言い方をすれば、仏法(道)と世法を区別して、線を引く事はありえないという事です。


心の置き所

2023年01月22日 | 坐禅

「坐禅の仕方」は「普勧坐禅儀(ふかんざぜんぎ)」に記されている通りです。

 

ここに大事な事があります。

 

如浄(にょじょう)禅師が道元禅師に「坐禅の要訣」を授けられました。

 

「元子(げんす)坐禅の時は心を左掌に置け」と。

 

「左掌」とは”左の手の平”ということです。

 

このことは「古術」です。

 

よく坐禅の指導者が下腹に力を入れよといいますが、ここのこと(左掌)なのです。

 

その「妙所」が分からずに気張る方がありますが、その心がかえって邪魔物となるのです。

 

「坐の功」を積めば「心を左掌に置く」という意思もなくなり、法身(ほっしん)遂に「坐そのもの」に化して来ます。

 

そして「坐」というものも遂になくなります。

 

これが「大事打開」ということです。

 

このことは、やって證するより外はありません。


人の道

2023年01月18日 | 道元禅師

今日では報恩感謝の念が薄くなってはいないでしょうか。

 

「権利と義務」を親子兄弟ふうふの間にまで振り回す人がある事は、驚くほかはありません。

心すべきことです。

 

然らば如何にして「人の人たる道」を全うすることが出来るのでしょうか。

 

道元禅師「修証義・行持報恩」に「其(その)報謝(ほうしゃ)は余外(よげ)の法は中(あた)るべからず、唯当(ただまさ)に日日(にちにち)の行持其報謝の正道(しょうどう)なるべし、謂(いわ)ゆるの道理は日日の生命を等閑(なおざり)にせず、私(わたくし)に費やさざらんと行持するなり」と。

 

あるべきように今日を過ごすことです。

別の言葉で言えばその日その日その場その場に全力を挙げることです。

 

経に曰く、「若し人生とて百歳なるも諸仏の機を会せずんば、生まれて一日にして能くこれを決了するに若(し)かず」。

 

人生の目的は諸仏の機を会することです。

そこで初めて真に「報恩底の人」というべきです。


成就

2023年01月16日 | 法理

慈明(じみょう)という和尚さんは眠くなると自分の股に錐をさして、そうして坐ったそうです。

 

「私が頼りにするものは坐禅のほかに在りません」、そういうことだったんだと思います。

 

だから眠っていられなかったのです。

 

慈明和尚さんは「眠ることも坐禅である」ということは分かっていても、そんなことはしなかったのです。

 

「眠るのも坐禅、腹が減れば飯を食うのも坐禅だ」みんなそんなことは知(識)っています。

 

しかし慈明和尚さんはそれをせず(知っている事を使わず)に坐られたのです。

 

おシャカ様を始めとして歴代の覚者といわれる方々はみんなそうして苦労なさったのです。

 

その事が無ければ「法(道)」というものは「成就」しないのも事実なのです。


おシャカ様の真(深)意義3

2023年01月12日 | おシャカ様

ここにおいて「おシャカ様の大慈大悲」の在る事を知(識)らなければなりません。

 

「法が滅びるぞ」というのは、「法を滅ぼしてはいけない」という意味が在るのです。

 

「弱いやつだ」とは、強くなれよという慈悲がこもっているのです。

 

「馬鹿だな」とは賢くなれという事です。

 

「滅盡するぞ、濁っているぞ」とは永久に成れよ、清く成れよという意味なのです。

 

これが即ち「正像末」の三時を立て「法滅盡経」を説いた「おシャカ様の真(深)意義」なのです。


おシャカ様の真(深)意義2

2023年01月10日 | おシャカ様

おシャカ様が「正像末」を説いたのは、私たち衆生の怠慢を戒め、裏面には私たち衆生の惰眠を覚ましたかったのです。

 

ですから「回向文(えこうもん)」にも「末法を正法にかえし、群生(ぐんじょう)を無生(むしょう)に導き給え」と在ります。

 

「法滅盡経(ほうめつじんきょう)」に依れば末法に入ると「法」は凡て滅盡すると在ります。

 

いまや仏教を研究するのはほとんど無駄のように見えてしまいます。

 

何故ならば「今」が「末法の真っ只中」だからです。

 

 


おシャカ様の真(深)意義1

2023年01月08日 | おシャカ様

おシャカ様は「正、像、末(しょうぞうまつ)」の「三時」をお説きになりました。

 

「正」とは證(さとり)という事です。

 

おシャカ様入滅後も正しく證果を得る者も在り、行もありました。

 

これが「正法時」です。

 

正法千年、像法千年、末法万年というのが「大悲経」の説にあります。

 

「像法」とは、「像」は似るという意味です。

 

教在り、行在りで證果無く、「像似(ぞうじ)」の仏法が行われている時を「像法時」といいます。

 

「證果」の無い教行は本物ではありません。

 

似て非なる物であることを知(識)らねばなりません。

 

「末法」の「末」とは微(かす)かの意味です。

 

微末にして、ただ教在りて行無く、證果の無きを「末法時」といっているのです。

 

時に「正像末」在りといえども人は自在で在り無自性です。

 

「為せば何事も成し遂げるもの」です。