私たち衆生は「自己とは何ぞや」と問われれば必ず「迷う」と思います。
何故ならば「自分自身(此の物)」は自分自身の発生(生まれたということ)
したという明確な「自覚」が無いからです。
「必然として自分が生まれたことを知(識)らない者」が「知(識)らない」
なりに、こうして世に出て来て「何も知(識)らない世界」で「不知不識
(しらずしらず)にはっきり生きている」という「今の事実」が有(在)るのです。
私たち衆生は「自己とは何ぞや」と問われれば必ず「迷う」と思います。
何故ならば「自分自身(此の物)」は自分自身の発生(生まれたということ)
したという明確な「自覚」が無いからです。
「必然として自分が生まれたことを知(識)らない者」が「知(識)らない」
なりに、こうして世に出て来て「何も知(識)らない世界」で「不知不識
(しらずしらず)にはっきり生きている」という「今の事実」が有(在)るのです。
「実相の正体」を見極めてみれば「人(にん)」として、「人」とは自己のことです。
「法」として「法」とはかたちのあるもの、ないものに拘わらず一切の存在
しているものということです。
「一切のものが本当に失くなる」ということです。
「人(此の物)」が有(在)る為に「法」の存在を認める訳ですから、「人(此の物)」
が失くなれば「一切の法という相手」も失くなるということです。
「今という自分」を振り返ってみる習慣が「人(ひと)」には有(在)ります。
この「今の事実」は「今の事実が事実として今、此処に有(在)る」ということです。
この「事実」は古今東西不変のことです。
「三法印」とは、三つの「法印」ということです。
即ち「仏法の印(しるし)」です。
仏教徒他教を区別する特徴的標識です。
私は現代に於ける「新三法印(実相無相、不知不識生、本来成仏)」を
提示させていただきます。
先ず第一の「実相無相(じっそうむそう)」〈じっそうはむそうなり〉
というのは、おシャカ様が「摩訶迦葉(まかかしょう)」に「法」を伝えた時に
発したお言葉です。
「実相」とは「本当の相(すがた)」ということです。
本当の相は「無相」なのです。
「相が無い」ので認めることが出来ないのです。
それを私は「事実として認めるべきものは何もない」といっているのです。
「一刹那には九百回の生滅をする」のですから「我」というものを何処に
求めることが出来るのでしょうか。
ですから「諸行無常」のお陰で私たち衆生は世界を我が物にすることが
出来るのです。
「我」というものが無ければ「皆我が物」なのです。
向こうに相手を認めているから「六尺の体」だけになってしまうのです。
「諸法無我」を本当に覚ったものを「涅槃寂静」というのです。
一寸でも「自己を認める」と「相手」を認めてしまいます。
相手があるから“ケンカ”をするのです。
「諸行無常」が分かり「諸法無我」が分かれば“ケンカ”の仕様がないのです。
元来私たち衆生は「天地」と共に朝から晩まで変化しつつあるのです。
(諸行無常)。
「諸法」と共に生きたり死んだりしているのです。
「一弾指(いちだんし)の六十五分の一が刹那です。
「一刹那には九百回の生滅」があるといわれています。
これを「諸行無常」といいます。
「諸行」とは諸々の働きです。
私たち衆生はその「無常」のお陰で働くことが出来るのです。
子供が大きくなるということも「無常」です。
「無常」でなかったら子供は何時までも子供でいなければならないのです。
「病人」が治るのも皆、「無常」のお陰です。
「教育」は「無常の応用」です。
「無常」というのは「無我」であり「諸行は無我」なのです。
積んでは壊ししていることが、何となく無駄なことのように考えがちになる
ものです。
すぐにそういう「見」が生じて来る訳です。
間違いとか暗中模索だとか苦しみだとかそういうものは、本当にこれは自分の
求めているもの(悟り)を助けてくれるものです。
絶大な力に成るものです。
ですから、そういうものを「善いこと」だけ取って自分の修行の助けにしよう
という、そういう思いがいけないのです。
善いことも悪いことも自分の目的のためには大いに役立つことですから、もう
捨てるべきものは何もありません。
別の言葉で言えば「積んでは壊しするそのこと自体結果として現われている
こと」ですからその他、他所のものを求めるために「修行」をしてはならない
ということです。
「三法印」を「実証」するために、しばらくの間おシャカ様や歴代の覚者の
教えを借りて、教えに随って修行するという必要が生じて来るのです。
止めてしまっては、もうそれで終わりになります。
ですから積んでは壊し積んでは壊ししていること、それ自体が「悟り」なのです。
積んだり壊したりしているその後に自分の求めているもの(悟り)が実現すると
思うから間違いなのです。
何故ならば別の言葉で言えば自分の様子を看てください。
「皆(積んだり壊したりしていること自体)、今の自分の事実」ではありませんか。
「いつでも事実(結果)の中にいる」ではありませんか。
「いつでも今の自分の事実(結果)の中にいる」ではありませんか。
現今では、その「通過点」をほとんど見落として必要ではないことのように
教えてますが、それは大変な誤りです。
その「通過点」を通過した後に「悟りの病」を落とし「法(道)の病」を落とし
いよいよ本当の「涅槃寂静」の状態で仏道の修行が始まるということです。
このことは「本證妙修(ほんしょう みょうしゅう)」とか「修證不二(しゅしょうふに)」
という言葉で表しています。
「涅槃寂静(ねはんじゃくじょう)」とは「私たち衆生の状態」を言って
います。
そして「涅槃寂静」の状態で初めて仏教でいうところの「修行」に成るのです。
即ち「無所悟無所得(むしょご むしょとく)」〈悟るべきものもなければ得るものもない〉
という、本当の「無我の修行」が始まる訳です。
「悟り」とか「見性(ものの本質を見定める)」というのは「坐禅三昧の中」
にある「ひとつの通過点」なのです。
仏教ではそのような様々な人の思惑さえも「仏性」と名付けています。
たまたま「自我の考え(我見)」や法の「見解(けんげ)」を立てて、いろいろ
散乱をしている状態であったとしても、「縁」に触れて一遍にそういうことが
なくなり、「もともと本来ひとつのものであった」ということに気が付く
時節があります。
それを禅では「見性(けんしょう)」とか「目醒める」という言葉で表して
います。