活かして生きる ~放禅寺の寺便り~

娑婆世界を生きる智慧/おシャカ様・禅・坐禅・法理・道のこと

宗教について6

2018年01月31日 | 法理

おシャカ様もかつては、これらの教えに従って修行されたのです。

しかしながら、これでは満足できなかったのです。

 

それで最終的に人生における苦の根元である「心意識を離れた事実(今の世界)」

のあることを知られ、遂に「心意識」を放下(ほうげ)し、これに徹底されたのです。

 

「心意識以前(今の事実)の実相自体」が「実相」を「自覚」し、

初めて苦悩の根元を知られたのです。

 

これにより始めから苦悩のない「自性の真相」を得られ、理想としていた

「事実(今の事実)」に徹し、満足が得られたのです。

 

これが、「真の救い」です。

これを「無上道」ともいいます。

 

おシャカ様は過去における宗教哲学的な教えから離れて、菩提樹の下で

「坐禅」をなされました。

 

そこで「明星一見大悟」されて「人を離れた実相」を證明されたのです。


宗教について5

2018年01月30日 | 法理

ここにおいて、「救い主としての神」を理想し、現在の人間生活の

苦悩を知(識)り、この耐えられない「苦悩」から逃れたい欲求に

「拘束」されてしまうのです。

 

先に理想とした「神(救い主)」にどうすることも出来ない「苦悩」を

托して「神(救い主)」の前に平伏するのです。

 

この時この思いの鎮まる処においてしばらく苦を忘れる、それを、

「救い」と思うのです。

 

しかし、これらは皆自分の「考え(思惑)の所産」であり、「人の心意識の作用」

なのです。「思い違い」なのです。

「AからBへ」との考え方の「移行」に過ぎないのです。

 

これは「思いに瞞(だま)された迷い」の種々の相なのです。

これが一般的に言われている「宗教」なのです。

 

「神(救い主)」というも、「迷いの人」というも、我等の「心の作為」

だということを知らないところから起こる教えなのです。

 


宗教について4

2018年01月29日 | 法理

元来「宗教」は研究ではなく「修行」です。

「修業」ではありません。

 

「習学」ではなく「絶学」です。

 

「修行」とは「今の事実」に直下(じきげ)に触れることであり、

「研究」とは理の推究であり、人の思惟(しゆい)の上の考察です。

 

一般に言われている「宗教」とは、人間(にんげん)の一切の苦悩を

救うために造られた「人造の教え」です。

 

人間は考える動物と言われているように、様々のことを考えます。

この考えは考えを生み、限りなく考えられて留まるところをしらないものです。

 

この考え方が最終的には無限の力を感じ、この力に依存し「超人」に救いを求めるのです。


宗教について3

2018年01月28日 | 仏教

これらの「社会事業的救い」なるものは、一応その準備さえ整えば

誰でも出来ることです。

 

これらは「宗教者」の為すべき分野ではありません。

 

今日のように各方面において社会人は優れた智能を持ち、未だかつて

考えも及ばないほどの偉大なる諸般の発展を遂げ、われら始め一般は

その恩恵に浴しています。

 

これらのことについては到底宗教者の及ぶところではありません。

 

それでは宗教者は一体何を成すべきか。

大いに考えなければならない「一大事」なのです。


宗教について2

2018年01月27日 | 法理

今日、研究者たちによる学問的な研鑽が進めば進むほど、人々の生活は

混乱し今や理知理性の確かな人ほど、自分自身の姿を見る時に精神の異常を

きたすばかりの苦しみを秘めているのが実情ではないでしょうか。

 

私たち衆生も「宗教の核心」に触れたい気持ちをもちながら、今や「言葉」

として触れなければならないところまで来ると、「人類の救い」という

立派な「言葉の影」に隠れて「民衆の救い」といいつつも「社会事業の救済」

に堕ちて行くのが実情ではないでしょうか。


宗教について1

2018年01月26日 | 法理

「宗教」というものは、人間(にんげん)が人間としての欲求から

考えられた「功利的なもの」ではないと思います。

 

「宗教」とは必然なものであり、人間元来の本質に実質的に徹することが

出来る指導原理を具えていて各自が満足出来る教えでなければなりません。

 

何故ならば、人は元来何人といえども必ず自分自らに対して手放しの

満足を欲求して止まないものだからです。

 

これを充たしてくれる教えを求めて止まないのが私たち衆生の有様では

ないでしょうか。

 

「此事(このじ、このこと)」を確実に教え得る教えが「宗教」だと思います。

 

世の中のあらゆる「学問」としての「物の有り方の最終目的」は、

「人間(にんげん)とは何か、物とは何か、如何にあるべきか」を

終極的に究めたいという止むに止まれぬ欲求の衝動から起きて来たものと

言い表すことが出来ると思います。


禅の特色2

2018年01月25日 | 

そこで、おシャカ様の教えが正しいことを誰が印可(證明)するのか

ということが問題になってきます。

 

「此の事(このじ)」は、皆さん自身が證明し、印可を受けるのです。


別の言い方をすれば「自分が自分自身を救い、そしておシャカ様の教え

(指導者の教え)の正しさを證明し、指導者から印可を受ける」のです。


指導者(おシャカ様)が修行者(私たち衆生)を證明し、印可を授けるのです。

 

このことを「法の受授」といいます。

そこで初めておシャカ様(指導者)と一体に成れるのです。

 

おシャカ様の場合、おシャカ様以前に「この法」を證明出来る人は

いなかったのです。


禅の特色1

2018年01月24日 | 

禅宗の教えは、おシャカ様の教えの中の「禅、禅定」を以って

修行の方法としている教えです。

 

禅の特色は「印可證明(いんかしょうみょう)」にあります。

「以心伝心(いしんでんしん)」ともいいます。

 

「印可證明」とは「一器の水を一器に移すが如く」というたとえがありますが

外に一滴もこぼさずに水を別の器にそのまま移すということです。

 

おシャカ様の悟られた内容は、そのまま二代目の摩訶迦葉尊者(まかかしょうそんじゃ)

に伝えられインド・中国を経て日本に入ってきたのです。


父母未生以前について3

2018年01月23日 | 

そこで私たち衆生は何に参じていったらいいのかということが

問題にならなければいけないのです。


そして早く「参ずべきもの」を知(識)って、それをきれいに無くして

しまうようにならないといけないということです。

 

どんなに立派な覚者であろうとも、「迷いのままが結果であり、仏である」

ということがどうしても分からなかった時代があったのです。

 

ですから、「縁」が来なければどうにもならない時があるわけです。

後進の私たち衆生は何処までいっても「唯務(ただつとめる)」でなければ

ならないということなのです。


父母未生以前について2

2018年01月22日 | 

「無始」(無の始、始めのない始め)ということが仏教ではよく使われます。

自分は何処から来たのか「本当に元(本)があるのか」ということを

参究してみる必要があるわけです。

 

本当に何も無いという「無いもの」が残りやすいのです。


よく「無い」とか「只」とかということで終わらせてしまう人がいますが、「無い」

とか、「只」というものがあるのでは「元がある」ということです。

 

それに気が付かなければなりません。