活かして生きる ~放禅寺の寺便り~

娑婆世界を生きる智慧/おシャカ様・禅・坐禅・法理・道のこと

修行の誤り2

2020年08月31日 | 法理

「無我に成ろう、或いは、仏に成ろうとしている自分」を忘じた(捨てた)様子が真の無我、真の仏というべきなのです。

 

別の言い方をすれば、物の見方や考え方を学ぼうとしている自分を忘じた(捨てた)ところに「無」とか「空」というものが有(在)るのです。

 

そういう事を「実証(事実においても理論においても証明する)していくのが真の修行」です。


修行の誤り1

2020年08月30日 | 法理

現在の「法(道)を求める修行」の様子を見聞(けんもん)する時、誤りに誤りを重ねていく様子が目につきます。

 

原因は「人が法(道)を伝えて来た」ために、真の解脱が無くなったからです。

 

特に修行で広く伝えられている誤りに、「修行に因って今の自分の様子を修正する」とか「修行に因って自我を忘じて無我と成る」などの例があります。

 

しかし、間違えてならないのは、「修正していくのが修行ではなく、修正しようとしている自分を捨てる(忘れる)」のが「真の法(道)を求める修行」であるという事です。


同じ事の繰り返し4

2020年08月29日 | 法理

ですから、私たち衆生の「心の正体」もそういうものであって、「六根の働き(動き)」に人間がどんなに約束を付けてみても何にも人間の約束は間に合わないのです。

 

そんなに「この物は自由」なのです。

本当に間に合うように出来ているのです。

 

「無我の様子」です。

「我見らしいもの」は何にも無いのです。

 

そしてそれがみんな必要に応じて、「使い物に成るように出来ている」のです。


同じ事の繰り返し3

2020年08月28日 | 法理

「標準の立て方」に因っては善いといわれているものが一番役に立たなくなることがあります。

たとえば「宝石とマッチ」とではどちらに価値が有(在)るのでしょうか。

 

火をつけるのに宝石が山ほどあっても役には立ちません。

この時には「マッチ一本」の方が役に立つのです。

 

ですから、何もかも、善いとも悪いとも名称の付け様は無いのです。

「みんな純粋」なのです。

 

それを「六根清浄(ろっこんしょうじょう)」といいます。

ただ「それ(六根)」が活動しているだけなのですから「六根清浄」なのです。

 

使い道に因って、間に合えば善いというだけの話です。

間に合わなければ「不清浄」といいたいところです。


同じ事の繰り返し2

2020年08月27日 | 法理

「同じ事が出て来る」といいますが、「出て来た時」は「その時その時の念」なのです。

考え(思い)が出て来ても出て来ても、さっさと離れていってしまうのです。

 

そういう事なのです。

そして、どういう事も無いのです。

 

それを私たち衆生は、何とかして自分の問題にしているだけなのです。

それを問題にするのを止めてみる事です。

 

「自分の本性を見極めればよい」のです。

ありのままで別に善いとも悪いとも無い、「自分の本性」です。


同じ事の繰り返し1

2020年08月26日 | 法理

「考えが次から次へと浮かんできますが、如何したらいいのでしょうか」と質問する人がいます。

 

よく考えてみて下さい。

 

「出て来た考え(思い)」はさっさと離れていくのではないでしょうか。

 

ひとつも囚われてはいないのです。

 

後から後からいくらでも出て来ても、どれも引っかかってはいないのです。

 

「とりとめがない」のです。

 

ですから、「同じ事の繰り返し」という有様はないのです。

 

 


修行の始まり2

2020年08月25日 | 法理

薬というものは明らかに薬ではありますが、「病」もまた薬であることが分かります。

 

「実相は無相なり」の「無相」というのは「自分という塊が無い」ということです。

 

私たち衆生の病気は非常に良い薬だということです。

 

人は不幸や悲しみに対しては同情しやすいですけれども、幸せな人に対してはなかなか同情できないと、よくいわれています。

 

一度自分で本当に病気になってみると、病気の人の事情がよく分かるという事です。


修行の始まり1

2020年08月24日 | 法理

私たち衆生は如何しても薬を捨てなければならないのに、なかなか捨てられないものです。

 

自分にとって一番善い薬は「修行(坐禅)」ですが、善い薬になればなるほど執して捨てられないということになります。

 

病気があれば薬を用いて治す事が出来ます。しかし、治っても薬を飲み続けていれば「薬害」となって治した病気よりももっと害になると、今、盛んに言われています。

 

「迷い」があれば、しかるべき薬を飲む、これが「修行(坐禅)」です。

 

薬を飲んで治れば「迷い」は無くなります。

それを「悟り」と言っています。

 

したがって、「未だ悟ってない」と思っている方は「悟りの前の修行」をしているのであって、悟ってみると「迷い」と共に「悟り」も無くならないと「本当の悟り」とは言えないという事です。

 

「悟り」が無くならないと、「悟りという迷い」に成ります。

 

そしてそれが「邪魔」に成ります。

「邪魔に成る」から自由が利かないということになります。


修行の構造の基本

2020年08月23日 | 法理

大切な事は「理(言葉の世界)」において「空と自分」との隔てを認識し「事(言葉の世界以前の法の世界)」において「自分が本来の自分に成ること、解決する」という事です。

 

これがおシャカ様や歴代の覚者から伝わって来ている「真理」なのです。

 

即ち「自分が自分の法を実証していく」という「修行の構造」です。

 

「自分が自分に成る・物と一つに成る」という事で一切の事が足りるのです。

 

だからこそ誰にでも行じていける「法(道)」なのです。

 

ですから「物と一つに成り、そして一つに成った物を、もう一つ落とす」のです。

 

その事を禅宗では「身心脱落、脱落身心」といっています。

 

この「修行の構造の基本」に一切が帰納される訳です。


修行の要訣2

2020年08月22日 | 法理

何故、この身の中に自分を支配している何かが有(在)ると思うのでしょうか。

 

その思いが「自我」なのです。

 

「自我の迷執」という言葉の意味は、「自我が有(在)るという思いに迷わされている」と言うことです。

 

何処を探してもそんなものが有(在)るはずがないのに、「有(在)る、有(在)る」と有限なものにしてしまっているのです。

 

この有限な「自我」というものを「忘れさえすれば(見極めれば)」、縁起に因って出来ているすべてのものと全く「ひとつに成る事」が出来ます。

 

そのことをおシャカ様は「天地と我と同根、万物と我と一体」とはっきりとお示しになっておられます。